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私の家には、開かずの間があった

ホラーじゃないけど、
少し怖いかもしれないハナシ。

私が小さい頃に住んでいた家は一軒家だった。

2階建てで、昔の一般的な広さの都内の家。

その家の2階に、
たぶん12畳くらいの開かずの間があった。


誰の気にも留められない開かずの間

私が物心ついた時から、その部屋は開かずの間だった。

その部屋は当たり前のように誰も開けなかったし、誰も気に留める様子もなかった。
だから、まるでそこに部屋なんてないみたいに、
私も特に意識した事がなかった。

ある日突然、部屋のドアが開くまでは。


開かずの間の正体

ある日、部屋のドアが開けっぱなしてあった。

いや、正確にいうと、閉まらなくなったのだ。

そう、その時に小さな私がみたのは、
部屋の内部がどうなっているのかも全くわからないくらい、端から端まで、堆く積み上げられたモノたちだった。

それはまるで、詰め放題で渡された袋の中に
これでもかというほど、
ぎちぎちに物を詰めたような形相。

もちろん床は全部見えないし、モノの山を登ると
天井に頭をぶつけるほどの高さがあって、
部屋全体がそんな様子だった。

そして、詰めに詰めたモノたちが遂にこぼれ落ちて、ドアの可動域を侵食して、ドアは閉まらなくなったのだ。

モノの正体は、親のコレクションだったり、
浪費だったり、私の子ども用品だったり、
とにかく、ありとあらゆるモノだった。

当時の私は純粋だったから、
そのモノたちが本当の宝の山に見えていた。
山登りをするのは、楽しかった。
家に山があるのは面白いとすら思った。

でも、友達には誰にも言わなかった。


飽食と飢餓

子ども心にも、部屋が溢れるほどの物があることへの疑問や、そこまでしてなおも、太り続けている部屋のモノたちへの違和感はあった。

もう、ここには
十分すぎるほどのモノがあるのに。

私の親は、きっと、
モノでは満たせない飢えを、
モノで満たそうとしていた。

いくら良いモノを手に入れても。
いくら新しいモノを手に入れても。
いくら珍しいモノを手に入れても。

心の飢えは満たされるばかりか、
飢える一方だったのだろうなと思う。

子どもとして、純粋にはしゃぐ気持ちと、
我が家に巣食う歪なものに
直面してしまったという気持ちと、
いろんな感情が渦巻いたことを覚えている。


その後、家を住み替えることになり、
そのモノたちは勿論、私自身の持ち物も、
ほぼ全部捨てることになったのは、
また別のお話。


モノに執着があまりないのは

私自身があまりモノに執着をしないのは、
きっとそんな小さい頃の記憶が残っていて、
大事なのはモノではないのだと思っているから。

モノを買うことや
所有すること自体が目的になることは、
個人的には、本質的じゃないと思っている。

そのモノを買う、自分の中での意味づけや
ストーリーがあって初めて、
モノを買うことに意味が見出せるようになる。

モノを買うことは、本来、
目的ではなく手段であるはずだから。


そういう私は今、
こんな昔の記憶を引っ張り出してくるくらい、
3万3千円のネックレスが欲しいのだけれど。


ご清聴、ありがとうございました。

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