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「井の中の蛙」の「井」は複数存在する【キャリアハック】

皆さんは「井の中の蛙」という言葉をご存知ですか?

「井の中の蛙大海を知らず(いのなかのかわずたいかいをしらず)」

この言葉は、自分の狭い知識や考えに囚われ、他の広い世界があることを知らないで得々としている様のことを指します。

つまり、図に表現するとこのような👆状態になります。小さなコミュニティの中で「自分は優位かもしれないと慢心している」訳です。

通常、この言葉から学べることは「上には上がいる」とか「慢心せずに努力せよ」ということだと思う訳ですが、私にはその他にある一点の疑問が生まれてきました。

「カエルは井戸から出たとして海で生きていけるの?」

という思いです。(何を考えているんだお前は)

あくまで、「カエルは淡水にしか棲めない」とか、そういう生物学的な話ではなく、その井戸で育ち「その井戸の中という環境」でしか鍛えられなかった生物は海で生きていけるのだろうかということです。


能力は環境に依存する

環境はそれなりに能力に影響を与えます。

例えば「親の年収は子供の学歴に比例する要因の一つ」という研究結果があったりだとか、「友達・恋人の好きな趣味が好きになったり」だとか、そういう類の話です。

井戸という「閉鎖的な空間」での「成功・評価のハードル」は学校でいう「テストの点数」とか、部活でいう「表彰台に登ること」などが想像しやすいでしょうか。

つまりはこんな感じで、井戸ごとにハードルが変わってくる訳ですね。つまり、その井戸にいる限りは「そのハードルを越えるための訓練をする」ことになります。

学校にいれば「勉強」をするし、部活をやっていれば「練習」をするし、会社で営業をしていれば「契約を取るための策を磨く」でしょう。


それぞれの「井戸」にそれぞれの「大きな井戸」と「大海」がある

違う種類の井戸がたくさんあって、その中で暮らす私たちは、さらにその井戸を登った先に、それぞれの「大海(現時代で最先端・頂点)」がある訳です。

そしてその、大海にたどり着くためには「幾つものステップアップ用の井戸」が必要になります。

井戸というものは「系統を保ちつつ」「ステップアップ」します。学校で言えば「小学校▶︎中学校▶︎高校▶︎大学….」のような感じです。

そして、井戸から井戸へ移動する時に「選択の自由」が与えられます。例えば「就職する会社」「大学そのもの」「学科」「専攻」などです。

そして、井戸がステップアップする度に、井戸の中で激しい競争にさらされ、その中で勝ち抜いた者だけが次の井戸へ移動できます。

私たちはそういった「井戸ごとの到達点(大海)」を目指して「幾つかの井戸を移動しながら人生を歩んでいく」のではないかと私は思う訳です。


井戸が目標になることの注意

この考え方を応用すると、色んなことが見えてきます。例えば「大海」ではなく「井戸自体を目標にする」ということも起き得るということです。

「あの団体に入りたい」
「あの学校に入りたい」
「あの部活に入りたい」
「あの会社に入りたい」

これらは全て「井戸」を目標にした例です。

しかし、これには注意が必要で「大海(到達点)」が見えていないことが挙げられます。大海は到達点であり、目的そのものになります。環境だけを追い求めると、「自分がどこに到達するのか」が見えにくくなり、目的を見失うことになってしまうかもしれません。

ある意味での「井の中の蛙大海を知らず」という状態になります。

パターン1:慢心する
パターン2:目的を見失っている


あらかじめ「大海」を知る

井戸はステップアップするごとに、選択肢が減っていきます。(専門を絞れば絞るほど、他の業種に移動しにくい)そのため、ある程度ステップアップすればするほど、海が近づけば近づくほど、他の種類の井戸に移動しにくくなります。

つまり、「できるだけ前の段階で「大海(目的や到達点)」をしっかり知ることが、人生において重要な意味を持ちます。

自分が何をしたいのか、自分の井戸の先には何があるのか(到達点に居るロールモデルを参考にする)をできるだけ早めに確認して、納得しておくことがキャリアのブレを少なくするはずなのです。

また、知ることができないという状態なのであれば、それは「その状態を認知していること(無知の知)」を得たということで、そこから「大海を知るための行動」をすれば良いだけなので、焦る必要はなくむしろ前進しているといっても良いでしょう。


最後に

以上、今回は長めになってしまいましたが「井の中の蛙大海を知らず」に対して「井戸:環境」と「大海:到達点」と「カエル:自分」という当てはめ方で考えを巡らせてみました。

実際に、世の中はこんなに単純ではないかもしれませんが、なんとなくのグルーピングというか、定義付けは出来たのではないか?と思います。

あくまで、ただの一般人の考えたことレベルの話ですので、話半分で受け取っていただければ幸いでございます。

実はこの言葉は、中国戦国時代の「荘子」の言葉です。このnoteを執筆して思ったことは、やはり過去の「名を残している人の言葉」は「言い得て妙」だなと思い、改めて感心してしまいました。(何様)

ここまで本記事をご覧いただきありがとうございました。

somekichi

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