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【科学者#002】貧困に苦しんだ、数学の才能あふれる天文学者【ヨハネス・ケプラー】

#001に紹介したのは貴族出身で、生まれてから死ぬまでお金には困らなかったティコ・ブラーエについてでしたが、今回は最後までお金に困った男であるヨハネス・ケプラーについてです。
ケプラーは天文学者としては死後評価された科学者として有名な人物ですが、生きている間は様々な困難が訪れます。


ヨハネス・ケプラー

名前:ヨハネス・ケプラー
出身:ドイツ
職業:天文学者
生誕:1571年12月27日
没年:1630年11月15日(58歳)


研究内容

ケプラーの法則

高校の物理の授業でも紹介されている法則で、ケプラーの名前がついているので、ケプラーの業績の中で一番有名なのではないかと思います。
第一法則・・・楕円軌道の法則
第二法則・・・面積速度一定の法則
第三法則・・・調和の法則
(惑星の公転周期の2乗は軌道の長半径3乗に比例する)


ケプラー予想

ケプラーは次のことを予想しました。
『球を敷き詰めたときに、面心立方格子が最密である』
この予想が証明されたのは1998年(トーマス・C・ヘイルズ)で、長い間解決されていませんでした。


雪の結晶

ケプラーは雪の結晶が必ず正六面体になることを発見しています。
天体だけでなく、図形系の業績も多く残しています。


超新星

1604年ケプラーは超新星を発見、観測しました。
この星は『ケプラーの超新星』と呼ばれていて、へびつかい座に現れた超新星です。


生涯について

家族

祖父はヴァイル市長で貴族でした。
しかし父親はお人好しで、保証人になり資産の大半を失います。

その後居酒屋をはじめますがうまくいかず、傭兵になります

しかし、父親は最終的にケプラーが17歳のときに戦死してしまいます。

ちなみに、父親と母親の間はうまくはいっていなかったみたいです。


4歳のとき

ケプラーは生涯病弱でした。

4歳のときは天然痘になり、視力を落としてしまいます。


大学卒業後

もともとは神父志望でしたが、数学と天文学に興味を持ちました。

大学卒業後はグラーツの高校(現在のグラーツ大学)の数学の教師になりました。
さらに、市長の委託で占星歴を書物にまとめることもしていました。

この頃、ケプラーは4歳年下のバルバラと結婚して3人の子どもができます。

このバルバラ・ミュラーという女性は、病気がちで、すぐふくれ、そして孤独で陰気な女性だったと言われています。
そして、のちに天然痘で死亡し、同じ時期に子供も1人死亡します。

そして、1598年転機が訪れます。
オーストリア大公のフェルディナント2世がグラーツからプロテスタントの聖職者と教師に町からの退去を命じました。
これにより、ケプラーは教師という職を失います。


ブラーエに弟子入り

ケプラーがグラーツで職を失った後、1600年の28歳のときティコ・ブラーエに助手としてプラハに招かれます。
しかしブラーエは、ケプラー助手になってから1年半後に病死してしまいます。

ティコ・ブラーエ

ケプラーは、ブラーエに対して以下のことを言っています。
『ティコ・ブラーエは、このうえもなく豊かである。しかし、お金をどう使うかを知らない。彼が持っている道具の1つでさえ、私と私との家族との全財産を足し合わせたものより高い』

ブラーエは生涯にわたりお金には困らなかったですが、これに対してケプラーは生涯貧困に苦しんでいました。
それは何故かというと、給料の不払い、欠配、遅配がケプラーを苦しめました。
これは、宗教上の争いが引き起こしたものだと言われています。
当時政治情勢と経済状態が不安定だったため、安定して給料が払われませんでした。


ブラーエの死後

ティコ・ブラーエの死後、ブラーエの後を継いで皇帝付首席数学顧問官に取り立てられました。

しかし、社会情勢のせいもあり給料の支払いは遅れがちでした。


ティコは生前、天体の観測資料は弟子たちにはほとんど見せてはいませんでした。

しかしティコの死後、ティコの観測資料は弟子が自由に使用することができ、ケプラーはこの資料により偉大な発見をします。
その発見をした時期がこの数学顧問官時代です。

ブラーエの火星観測記録により計算を繰り返して、8年後の1609年に第一法則と第二法則を発表しました。
そして、10年後の1619年に第三法則を発表します。

ブラーエはすぐれた観測技術は持っていましたが、数学の知識がほとんどなく自分の観測データをうまく使うことができませんでした。
そこに、数学が得意なケプラーがブラーエが亡くなる1年半前にくることで、のちに偉大な発見につながったと考えるとすごい偶然だったのではないでしょうか。


さらなる転職

1612年にルドルフ2世が亡くなり皇帝が新しく変わったことと、疫病が猛威を振るっていたこともあり、ケプラーは1612年にリンツのギムナジウムで数学教師として働き始めます。

しかし、この時も給料は安定して支払われることはありませんでした。

この頃、ケプラーはスザンナ・ロイティンガという女性と再婚します。
そして、2人の間には5人の子どもが生まれます。

さらに、この時期に母親が魔女裁判にかけられそうになります。

ケプラーの母親は、真夜中に洗濯物を入れる箱の中に押し込められ連れ去られました。
ケプラーがすぐに駆け付け、最終的に無罪放免となり釈放されました。


ケプラーの最後とは

ケプラーの最後は様々な形で書かれています。
空腹のため餓死したとか、道路の端で凍死したなどと色々あります。

ケプラーの晩年は、奥さんがいて、さらに子供も多くいたが、給料の未払いに苦しめられました。
家族のため何とかしようと、病身に鞭を打ち、給料の未払いの交付を願い出るため旅に出ました。
そして、その帰り死んでしまいます。


ケプラーという科学者

現在ケプラーという科学者の名前は、高校の物理の教科書にケプラーの法則が載っているので聞いたことある人は多いと思います。
しかし、その彼が生涯にわたり社会情勢に振り回され、生涯貧困に苦労したことは、あまり知られていないと思います。

困難の中でつかんだ大発見だと思うと、より一層研究のひとつひとつが愛おしくなってきますね。

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