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【科学者#007】戦場で医学を発展させた医者【アンブロワズ・パレ】

大学で行っているものだけが、偉大な研究となるのでしょうか?
素晴らしい医術の発展は、とてもいい設備を集めただけで進むのでしょうか?
今回は、有名な大学で勉強し医者ではなく、戦場で医学を発展させた医者であるアンブロワズ・パレについてです。


アンブロワズ・パレ

名前:アンブロワーズ・パレ(Ambroise Paré)
出身:フランス
職業:外科医
生誕:1510年
没年:1590年12月20日(80歳)


業績

銃創療法の改良

パレは銃で撃たれた時の治療法について新しい方法を考え出しました。

もともとは焼灼法(しょうしゃくほう)という、傷口に焼きごてを当てたり、煮立った油を注ぐ方法でした。
それをパレは新しい方法にかえます。
新しい方法とは、卵黄とバラの油とテレビン油(マツの精油)からつくった冷たい膏薬(こうやく)を負傷者の傷口に塗るという方法です。

パレの新しい方法は、苦痛が少なく、治りも良いので次第にパレの方法に切り替えられました。


四肢切断術の改革

パレは四肢を切断する方法についても改善しました。

この方法も従来は焼灼法で、焼きごてで血管を潰して切断する方法を採用していました。
しかし、パレは動脈を結紮(けっさつ)する方法を新しく導入します。
結紮とは体の一部を縛って固定することで、切断する箇所の近くを結紮し切断する方法です。

この方法も治療後の治りがよかったので、パレの方法に切り替えられていきます。


生涯について

幼少期

パレは幼少期に理髪師の徒弟として働きます。
徒弟(とてい)とは、,職人になるため親方のもとに弟子入りした年季奉公人のことを言います。

この時代の理髪店は髪を切るだけではなく、ひげをそったり、骨折や脱臼、創傷を治したり、刺絡(しらく)という治療も行いました。

ちなみに刺絡とは、静脈を切って一定量の血液を取り去る方法です。
この時代は、精液がたまると血液が腐敗するとされており、修道院ではそれを避けるために修道士に対してよく行われていた治療です。

このように、パレはこの徒弟時代に医療の基礎を学んでいきます。


徒弟時代後

22,23歳の頃パリのオテルデュ市立病院で働きます。

その後1536年から1554年にフランスとドイツの間で戦争が起き、パレはその戦争で軍医として働きます。

そして戦場で受けた外傷の応急処置や四肢切断のような技術を身につけ、そして改善していきます。


異例の出世

1554年、学歴を持つ外科医の団体コレージュ・ド・サンコームへの入会を、パレは学歴がないにも関わらず特別に許されます。

さらに同じ年の1554年、ソルボンヌ大学の外科学博士号の取得試験に合格します。

当時の大学は、ギリシア語とラテン語が出来なければいけませんでしたが、パレはどちらもできませんでした。

さらに、パレの業績が凄すぎたので大学の権威たちが、試験の前にあらかじめ正答を教えることで合格させました。

当時の大学では、ガレノスの書という絶対的な書物からかけ離れた内容のものに対しては繰り返し攻撃されていました。
しかし、パレの業績は素晴らしいものばかりだったので、パレは攻撃されることなく、学歴がないにも関わらず大学や医学界に受け入れられました。


王室付外科医

1562年には、パレは王室付外科侍医頭兼侍従になります。

本によって違うのですが、アンリ3世のそばで奉仕したとか、シャルル9世(アンリ3世の兄)の外科医に任命されたなど書かれていますが、とにもかくにも王族に仕え医療を施していました。


ユグノー戦争

1562年~1598年に、フランス国内でカトリックとプロテスタントで戦ったユグノー戦争が起きます。

この時もパレは戦場で治療しています。

パレは治療が貧富の差別がなく、特にカトリックやプロテスタントにかかわりなく、あらゆる人々に平等に治療します。

パレは、『優しい外科医』と言われることがありますが、こんなとこからもパレの優しさが分かります。


パレという医者

宗教やガレノスの書からのはずれたことで、医学からの反発があり活動を制限せざるおえなかった医者は多々います。
しかし、パレの戦場で発展させた医学は、医学界の権威のお堅い考え方を変えさせました。
理髪師として学び、そして軍医として技術を磨き、最終的には王室付外科医となったパレ。
貧富の差や立場関係なく施したところから、パレの自分利益のためだけではなく、人を救いたいという優しい心が伝わってきます。
そんなパレのことが少しでも多くの人に伝われば嬉しいです。


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