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【科学者#016】見えないものを見ようとした微生物学の父【アントニ・ファン・レーウェンフック】

現在では微生物の存在は認められていますが、湖の水から微生物の存在を確認したときの衝撃はすごかったのではないでしょうか。
今まで見えなかったものを急に見えるようになった時、世界はきっと変わって見えたのだと思います。
今回は、肉眼では見えないものを優れた精度で観察した微生物学の父と言われるアントニ・ファン・レーウェンフックについてです。


アントニ・ファン・レーウェンフック

レーウェンフック

名前:アントニ・ファン・レーウェンフック(Antonie van Leeuwenhoek)
出身:ネーデルラント連邦共和国
職業:商人・微生物学者
生誕:1632年10月24日
没年:1723年8月26日(90歳)


業績

レーウェンフックは、歴史上はじめて顕微鏡を作り、微生物を観測したとして、微生物学の父と言われています。

初期の顕微鏡(レプリカ)

はじめての顕微鏡は、直径1㎜程度の球形のレンズを金属板の中央にはめ込んだだけの単眼式の顕微鏡でした。
倍率は約200倍だと言われています。

その後も色々な顕微鏡を作成し、微生物や細菌など数多く発見しました。
そして、ロンドン王立協会に報告もしています。

実は、レーウェンフックの観察技術は大変素晴らしく、レーウェンフックの死後は18世後半に入るまで細菌の観察を成功するものは現れませんでした。


生涯について

レーウェンフックの父親はかご作り職人で、オランダとベルギーの間にあったネーデルラント連邦共和国のデルフトに誕生します。

1648年の16歳のときから6年間は、アムステルダムの織物商に奉公に出ていました。
奉公先では洋服の生地を見るために虫眼鏡を使って、細かい部分まで見ていました。
したがって、レンズの扱いに関してはこの時期に身につけます。

奉公の後は織物商として働くので、レーウェンフックは大学には一度も行かず、生物学などの専門的な教育は受けませんでした。

1654年の22歳のときに、奉公先からデルフトに戻り、醸造家の娘であるバーバラと結婚します。
そして、デルフトで織物商人として働きだします。

1660年の28歳のときには、デルフトの議会の管理官という役職につきます。

しかし、悲しいことに1666年の34歳のときに妻のバーバラをなくします。
そして、そこから約5年後の1671年の39歳のときには、バーバラの親戚であるコーネリアと再婚をしています。


顕微鏡での観察

1674年、レーウェンフックは日頃作成していた顕微鏡を使って、バーケルス湖から採取した水を観察し、奇妙に動くものを発見しました。
そしてそれを、微小動物と名付けました。
その時の顕微鏡の倍率は約200倍だったらしいです。

レーウェンフックは生涯にわたり500もの顕微鏡を作成し、最高倍率は266倍だったと言われています。
ただし、観測記録からは266倍では観測できないものもあり、500倍もの倍率があったのではないかとも言われています。

レーウェンフックは微生物のほかにも、小さな昆虫なども親の産む卵から孵化することを発見したり、赤血球が毛細血管を通ることも確認しています。
ちなみに、この当時は小さな昆虫は植物種子から自然発生すると考えられていました。
さらに、1677年には精子を発見しています。



フェルメールとの関係性

1675年43歳のときに、同じ地方の出身者である画家のヨハネス・フェルメールの遺産管財人になります。

フェルメールとは、1632年~1675年のネーデルラント連邦共和国のデルフトの画家で、バロック期を代表する画家のひとりです。

『真珠の耳飾りの少女』や『牛乳を注ぐ女』などが有名で、フェルメールはデレフトの街の人々の日常生活を描いていました。

真珠の耳飾りの少女

実は、フェルメールの作品で、『地理学者』と『天文学者』という作品があるのですが、このモデルはレーウェンフックなのではないかという仮説があります。

天文学者

絵の中の道具について、科学の知識を持っている人物から道具を借り、指導を受けていたのではないかと考えられています。
そして、その当時デルフトで有名な科学者と言えばレーウェンフックで、さらに財産管財人だったので、モデルになったのではないかと1981年にウィロックJr.という人が仮説を立てています。


ロンドン王立協会

1680年に、ロンドン王立協会の会員になります。

レーウェンフックが、王立協会会員になるまでは実は数年かかっています。

1673年に、レーウェンフックの観察記録をデルフトの解剖学者であるライネル・デ・グラーフ(1641~1673年)がロンドン王立協会に紹介します。

ライネル・デ・グラーフ

その後すぐに、オランダの政治家・文筆家のコンスタンティン・ホイヘンスがロバート・フックに個人的にレーウェンフックの観察記録を紹介した手紙を送っています

ちなみに、コンスタンティン・ホイヘンスは第14回で紹介したクリスチャン・ホイヘンスの父親になります。

それと、ロバート・フックは第13回で紹介した科学者で、当時は実験主事でした。

フックは、レーウェンフックの業績を高く評価し、観察記録を全集として発行してます。

そして、1680年にレーウェンフックはロンドン王立協会の会員となります。


レーウェンフックという科学者

レーウェンフックは、1723年8月26日の90歳のときに気管支肺炎のため亡くなります。

長い時を生き、その人生の中で500以上もの顕微鏡を作成しました。
そして、その顕微鏡を使い多くのものを発見しました。

レーウェンフックは発見した微生物を、砂の粒と比較して大きさを計算したり、微生物にも生死があることを発見します。

観察し、そしてそれを探求するレーウェンフックの研究が、顕微鏡学者という新たな分野の扉を開いたと言っても過言ではないと思います。

そんな、微生物学の父と言われる、アントニ・ファン・レーウェンフックを少しでも知って頂けると嬉しいです。

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