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首を絞めながら自由だと笑う

 

5月12日。

今日も仕事を終えて帰宅。

21時を過ぎた夜は、なんだかひんやりして嫌いじゃない。

いつも通りの日々で。
でも今日は、なんだかあんまり寝られなかったせいか、とても眠たくて。

少し不安定だった。

そんな日もあっていいか、なんていいながら、
絶対に繋がることのない番号に永遠と指は動く。


聞こえない受話器を手に。


言葉は止まらない。

壊れたラジオみたいに鳴り響く自分の声。

イヤホンで籠っている声。


あぁ、聞こえない。

あぁ。


私が大学生の時に頭の中にあった事物について、今日は語りたいと思う。


きっとほんの少しでも私の頭の中を覗き込んで欲しいと。

共有したいと。

勝手ながらのお電話ですが。

なんて。


読み流してくれるだけでいい。

ただ、あー、こんな言葉もこの世の中にあったのね、そんなくらいに。

いつも通らない道を通った時。

いつも見られない景色を見て、

そこまで何も思わないけれど、


こんなのも悪くないかなって。

そんなものでいいから。


みんなの中に、ほんの一瞬でも私が存在できたらいいな、

なんて、思っちゃったり。


さぁ、大学生だった頃の私は。。



  よく人は自由になりたいと言う。ただ、自由と言ってもこの場合は正義を含めたものであろうか。この世に全霊の神や唯一真のアッラーなどという存在があるかどうかは置いといてである。自由とは一体何であるのか。正義とは一体何か。自由の存在意義とは何であるのか。現在自分らが置かれているその瞬間自体に自由がないというのか。正直のところ疑問ばかりで妥当な答えを見つけることは不可能である。今までにも明確に自由という定義について真を問うた者もいないからである。
全てを包括して考えることはできない。人は、自らのさらなる自由のために、目の前の自由を我慢しがちな生き物である。まず決められた額のお金があるとする。この場合は、すぐに使うのか、貯めてからしたいことをするのか、選択肢をあげられる。しかし、貯金を選ぶことは、自由を選ぶために貯金をすることで他の可能性を失っている。言えることは自由には必ず責任と制約が伴うということである。私たちは、目の前にある現実を自由だと錯覚しているのではないだろうか、実際に目の前に「真の自由」を置かれてみると後の自分に降りかかるかもしれないリスクを深く考え、不可視である未知の世界を恐れ手も足も出ない状況に自らが自分を追い込むのだと思う。自由とはあってないようなものではないだろうか。目の前にあればあるほど、自分自身を守るためにリスクを避け、自由をストレスに感じてしまうものであると考えると、まず現時点で自由がほしい、自由になりたいとおもえている時点で何故自分が自由でないのか、何に制限されているのか、自由にも責任と制約がついてくるのに、何故自由にそこまで重きを置くのか。真の自由を求めようとすればするほど自由ではなくなるのではないだろうか。自由にできない拘束具としては、自分の中に本来ある制約や正義感、正しいことは何か、損得感情などが邪魔をする。結局、自由を求めているその現実が一番心地の良いものであったりするのではないか。自由を行使することほど不自由で苦しく辛いことはないのではないかと考えることができる。当たり前である存在を証明することは難しいのである。泡のように瞬時に現れて跡形もなく消えてしまう泡沫のような不自由なものが自由であると思う。真の自由を求めるほど精神的に拘束される。正に、ミヒャエルエンデ著作の自由の牢獄(1996年、岩波書店出版)である。これらより、求められる自由は私たちの生きる社会の中で慣習や過去の習わしといった不特定の集団での共通のルールのような一般化された制約の下、相互に依存して存在する。正義こそが、承認欲求をみたし、満足する回答を導き出している人もいるのかもしれない。本当の自由とは頭の中や思考のみに存在するのかもしれない。しかし、憎しみや狂気、混沌とした社会に対する苛立ちや不満こそがある程度の制限の中で求め続けられる真の自由へと導く鍵になるのではないかと感じた。一瞬のうち、不自由こその制限が、正義感こそが、精神的拘束こそが快感を得られる自由であると思えた。
 ラジオがテレビになり、白黒がカラーになり、オリンピックやアニメでウルトラマンが色が変わるなどといった素材で自然と購買意欲を促されていた私たちは社会のシステムに飲み込まれた形で存在している。そんな不合理な社会システムの中で我等は見せかけのバランスを保ち、平穏を装い、生活をしている。当たり前に思えて複雑に組織化された社会システムの構造は、あえて言葉にできない愛や怒りや憎しみを絡めた集合体である。
 テレビやラジオは声を大にして言う。「二酸化炭素排出を、ゼロにしなければ。」不可能な次元であり、声を上げているその人物は化石燃料からできた服や靴を履き、クーラーの効いた部屋で永遠に続く議論をする。科学で進んでしまったこの社会や世界はやっぱり科学でしかどうにもできないと言う事実を、やはり自然には追いつけないと言う現実を、時すでに遅しとなってからその部屋を出る。やはり、無理だった。難しかった。みんなが協力しなかったから。
 社会には、不都合で、言葉に出来ない怒りや、理解し難い制限された正義や理論が混在している。その中でうまく生きることなんてできない。その場の感覚と、考えは周りを取り巻く環境とは必ずしもウィンウィンではないと言うことだ。
 私が大学生活を通して感じ、成長したこと、そして考えさせられたこととしては、本質的に人間は他者とのつながりに関して必要とされていないことを理解し、虚しさや憤りを感じたが、そこからの言葉や解決策、根拠はないということだ。そこには何の意味もなく、連続された関係性だけが残る。ここではないどこかを思わせるような異様な関係や雰囲気は社会の哀しい矛盾や相容れることのない人間の間の空間、そして悲痛な叫びや根拠のない憎しみを表現しているようだった。許容範囲を超えて存在する圧力に任せるしかなかった。人間の間に構築される信頼関係というコミュニティの中では、キャッチボールは返ってくるのが当たり前だという前提に甘えて、孤独や喪失感を得る。毎日崩れ去る惰性と信頼と希望を一生懸命に立て直し、自分の中に偽りの創造物で誤魔化していく。
 自分を守り続けるために空虚な時間も人生も孤独も時間も貪り続けるしかない、なんとも言葉に出来ない感情が精神的弱さをより際立たせた。考える時間があればあるほど、人は負のループに落ちる。答えのない問が無限に出てくる。何かを叶えるために変わらなきゃいけなかった。でも変わったら、変わったからこそ叶えられなくなるものができるのだと感じた。
 自分の目に実際にみえないことが一番恐ろしく常に可視化して繋がることでしがみついていたけど、繋がる事で失うことを学んだ。
期待が自分を苦しめることを知らなかった。
何も、残らなかったのは、最初から何もなかったからであり、信頼の先に手に入れたのは虚無だけだった。
 責任をとると言う言葉にも、無責任さを感じる。何が責任であり、何を持って築き上げるものなのか、私にはわからない。何を目的とするかにもよるのではないか。超越した人間は、根拠を通り越した考えに至る。私は社会システムや当たり前のその瞬間に対する原点を自らの内面の中で何度も何度も血眼で探すが結論を追い求める事を止める。その時、したたかで高慢な闇は、結局牙を剥くこともなく自らの手で首を絞める人間をただ見ているだけに思えるのだ。でもこのままでいい。その方が面白い。単純明快で誰にでも解ける問題は、脳細胞を壊す大衆テレビが担えばいい。自らの脳内に芽生える無限の虚無に少しの優越感と孤独を愛したいと思えるからだ。
 私は今愛と狂気のジレンマの真っ只中にいる。ただ、何も考えず、自分の選択したい何かの目的を達成するために非人道的な事物に正義を纏い、自らを守る。正義だと。正しい事だと。仕方ないと。正当化する。その選択をした時に心の中で呟く謝罪の言葉は、今までの社会に対する脳内思考を全て全否定するものではないだろうか。欺瞞と虚構の中で、必死になる。夜、街灯のない山の上から誰かと夜景を見下ろした時、クリスマスソングを聞いた時、誰かに手を温めてもらった時、次を期待させる繋がりを感じた時、全てを無しにして、涙が溢れる。押し潰されるような、襲いかかってくる幸せを全身で受け止める。正統でもなんでもなく胸が締め付けられたようなあの感情。隙間からこぼれ落ちる自らに残った当たり前の社会システムの一員として、優しい明かりで灯った一つの家の中に自分を映す。愛にあふれたこの瞬間が、自分では抱えきれなくて、手をギュッと握りしめる。あぁ、これでもいいのかも知れないと。何も解決せず、美しくなくてもこの世はそれでいいと。それでも温かいと。人は、その一瞬を愛して生きているだけで、敏感に感じすぎる自らの生き方は、ほんの少しだけ難しいだけなのかも知れないと改めて感じる。上手く生きていくためだけに手に入れた無垢な笑顔も純粋な感情表現も、その瞬間だけは本物になる。偽りを本物にしてくれる人との存在を望む私もまた、一つの愛として存在していたいと思う。何かに怯えながら、何かを抱えて生きていくとしてもそれでもいいから選択していきたいと、非人道的な内部の闇ではなく、1人の人間として、魂として生への欲望を認められたい。
 汚くも美しい人類が行う不毛な議論や哲学は、これから先も存在し続け、迂回し、人間自身からの距離を保ちながら、誰かの心の中に生きるために感じなければならない正義感や、狂気や愛に変化していくのではないだろうか。ある意味、記憶からの精神麻痺を起こした私たち人間は、何も考えず不自由な自由を望み悲痛な叫びに耳を塞ぎ可能性へと無慈悲な明日を迎える。今日も思う、普遍に紛れて騙されていたいと。きっと今日も世界は曖昧なままでいい。





読んでくれて、ありがとう。




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