ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(10)
エピローグ
『罪と罰』の本編は、ラスコーリニコフの自首の場面で終わり、その後日談として短い「エピローグ」が付いている。
エピローグでは、ラスコーリニコフの裁判の経過と判決(八年の徒刑)、妹ドゥーニャの結婚と母の死、シベリアの監獄での生活、その監獄のある町に移住したソーニャの暮らしぶりなどが淡々と描かれる。
このエピローグは、記述は簡潔ながら、その内容は非常に豊かな充実したものであり、引用を始めるときりがないと思えるほどだ。
まず、注目すべきこととして、ラスコーリニコフは、監獄に入った後も、悔恨もなければ良心の痛みもなく、自分の運命に投げやりで、ソーニャにすら粗暴な態度をとったことが述べられている。彼は、ただひたすらに、自分の誇りがひどく傷つけられたことを恥じたのだ。
ラスコーリニコフは、彼を脅かす「孤独と疎外の感覚」に耐えきれずに自首したのだが、依然としてその「感覚」の正体を理解していなかった。
むしろ「監獄にはいって、自由の身になった」ラスコーリニコフには、自分の行動が、かつて感じたほどに「愚劣なものとも、醜悪なものとも思えなかった」ほどだ。
ひとことで言えば、ラスコーリニコフは、服役後もなお、自分がナポレオンではなくしらみであったことに苦しみ続けたのだ。
作者は、また、ラスコーリニコフが、自首する前に川のほとりに立ちながら、なぜ自殺しなかったのかという思いに苦しめられた、とも書いている。
犯行の前後にも、また、自首する前も後も、ラスコーリニコフの信念には、なんらの変化もない。それでいながら、彼の変わることのない信念と、彼の本能が直観的に指し示す真理とは、決定的に相容れないものであった。
消極的な選択であったとしても、彼が「自殺を選ばなかった」という決断そのものの中に、いまだ理解できない真理への直観が、すでに無意識のうちにはたらいていたということなのだろう。
もうひとつ、エピローグで着目したいのは、監獄におけるラスコーリニコフと他の囚人たちと関係、そして、そのあり方とは対照的なソーニャと囚人たちとの関係である。
監獄内で、何よりもラスコーリニコフを驚かせたのは、自身と他の囚人たち(すなわち民衆)との間に横たわる「恐ろしい、越えられることのない深淵」であった。
ラスコーリニコフにとって、さらに「解決しえない問題」は、なぜ囚人たちがみなソーニャを好きになったのか、ということだった。
囚人たちがソーニャに会うのは、彼女がラスコーリニコフを労役の場所に訪ねるときくらいであったが、彼らはみな、彼女がラスコーリニコフを追って町に来たことも、「どこでどんな暮らしをしているか」も知っていた。
ソーニャと囚人たちとの関係はしだいに親密なものとなり、ソーニャは囚人たちのために手紙の代筆をしてやったり、身内のものが彼らに届ける差入れの品を取り次いでやったりした。彼らの妻や情婦まで、彼女をたずねて来た。
ラスコーリニコフとソーニャのそれぞれと囚人たちとの関係は、両極端と言ってよいほどのものである。
これまで述べてきた「仮説」に従えば、ソーニャには、囚人たちとつながる「回路」としての「神との絆」が厳然としてあり、一方で、ラスコーリニコフは「それ」が失われたままである、ということになろう。
それはそうなのだろうが、筆者がここで指摘したいことは、また別のことだ。
それは、唐突なようだが、ラスコーリニコフと囚人たちとの関係は、おそらくドストエフスキー自身が経験したものであって、作家は自分自身の監獄での体験を振り返っているのではないか、ということである。
もちろん、ドストエフスキーは殺人のような凶悪犯罪を犯したわけではない。
彼は、二十代の終わりに、社会主義的なサークル活動に参加したかどで他の仲間とともに逮捕され、死刑宣告を受けたあげく、執行まぎわに減刑され、徒刑囚として四年間シベリアのオムスク監獄に収容された。有名なペトラシェフスキー事件(1849)である。
ドストエフスキーは、その監獄での体験をもとに『死の家の記録』(1861-62)を書いているが、「他者から見た」彼の監獄生活に関する数少ない証言によれば、ドストエフスキーは、ラスコーリニコフと同様に、他の囚人たちとの間で「断絶」があったことがうかがわれる。
例えば、E.H.カーの伝記には、次のような記述がある。
また、同様に、小林秀雄は、ある作家がオムスク監獄の兵卒から聞き取った次のような記録を引用している。
証言を読む限り、客観的に見れば、ラスコーリニコフのようにあからさまに目の敵にされ、攻撃されたわけではなかったとしても、自身の心情において、作家は、理不尽に疎んじられ、嫌われたと感じたのではないだろうか。少なくとも、ラスコーリニコフが感じた「深淵」が、作家自身の経験の反映だった可能性は大いにありうるように思う。
『罪と罰』のエピローグにおいて、ラスコーリニコフは、上で引用した喧嘩沙汰の直後に病気になって監獄内の病院に入院する。そして、彼は、熱に浮かされて、奇妙な夢を見る。それは、新種の「旋毛虫」が媒介する前代未聞の疫病の拡散によって全世界が滅亡の危機に瀕するというものだ。
この疫病は、ラスコーリニコフが憑りつかれた、歪んだ「選民思想」の比喩であったろうか? ともかく、この悪夢からさめ、病気からも回復すると、それが契機となったかのように、ラスコーリニコフは、ソーニャへの愛を自覚しはじめ、また、囚人たちとの関係もよい方向へと変わりはじめる。
そして、エピローグは、次のように結ばれる。
ラスコーリニコフが「徐々に更生していく」とすれば、その「更生」が意味するものはなんだろうか?
ヒントは、エピローグの中で、ラスコーリニコフとソーニャの対比が強調されるように描かれた囚人たちとの関係にある。
ラスコーリニコフと囚人たちとの間には「越えがたい深淵」が横たわっていた。この「越えがたい深淵」を「越えようとする」こと、それこそがラスコーリニコフの「更生」が意味するものなのだろう。
ここで、ひとつの推測が浮かび上がる。
もし、作家が、監獄におけるラスコーリニコフの描写に自身の体験を重ね合わせていたのだとしたら、そして、作家自身がラスコーリニコフと同様に他の囚人たちとの間で「恐ろしい深淵」を実感したのだとしたら、ラスコーリニコフの「更生」の過程も、また、作家自身の経験の反映であったのではないだろうか?
つまり、ラスコーリニコフの「更生」がはじまったように、作家自身にも、囚人(民衆)たちとの間に横たわる深淵の超克に向けたなんらかの精神的過程がはじまっていたと、考えられるのではないだろうか?
次回は、この点について考察し、そこから作家が『罪と罰』を書いた意図を照らし出すことで、この「私論」を締めくくることとしたい。
きりよく十回で完結させるつもりだったのだが、元の原稿を大幅に修正し、部分的に逸脱もした結果、当初の予定におさまらなくなってしまった。
一回分よけいになるが、次回でうまくおさめられるとよいなと思っている。
(続く)
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