ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(8)
ラスコーリニコフと神
前回までに置き去りにしてきたいくつかの問題について、気の向くままに考えてみたい。
まず、ラスコーリニコフは神を信じていたか?
このような問題設定は、馬鹿げたものに聞こえるかもしれない。ラスコーリニコフ本人の自覚において、彼が神の存在を信じていなかったことは明白だからだ。
そもそも、彼の恐ろしい犯行は、信仰の不在ゆえに企図され得たのだ、と言うことができる。
とりわけ、ラスコーリニコフが無神論者であることが際立って描かれるのは、彼が初めてソーニャの住む粗末な部屋を訪れ、彼女と奇妙な会話を交わす場面(第四部 四)だ。
義理の母やその幼い子どもたちの生活を支えるために娼婦にまで身を落としたソーニャ、そんな境遇をいぶかってラスコーリニコフは彼女を問い詰める。
「どうしてきみのなかには、それほどの汚辱といやしさが、まるで正反対の、神聖な感情と同居していられるんだ? だって、さっさと頭から水のなかに飛び込んで、一思いにきりをつけてしまうほうがずっと正しいじゃないか、千倍も正しくて賢明じゃないか!」(本文からの引用は、江川卓訳岩波文庫より。以下同じ)
ソーニャは、この言葉の残酷さに驚いた様子も見せず、消え入りそうな声で答える。
「でも、あのひとたちはどうなるんです?」
「あのひとたち」とは、もちろん彼女なしでは暮らしていけない家族たちのことだ。
それでもラスコーリニコフの疑問は解けない。
「なぜ彼女はこんなにも長い間、こうした境遇にとどまりながら、水に飛びこむだけの勇気はなかったとしても、どうして発狂しないでいられたのか?」
むしろ、彼女はすでに発狂しかかっているのではないか、とラスコーリニコフは疑い、ふとある考えに思い至る。
ラスコーリニコフの「結論」とは、ソーニャが「ユロージヴァヤ(聖痴愚)」である、ということだった。
「ユロージヴァヤ」とは何か?
因みに「ユロージヴァヤ」は名詞の女性形であり、男性をさす場合は「ユロージヴイ」となる。江川はユロージヴイを「聖痴愚」と訳している。ロシア語の辞書には、ほかに「佯狂者」や「瘋癲行者」などの訳語がみられる。いずれにしても日本人には耳慣れない言葉だ。
手っとり早く、江川卓の訳注から説明の一部を引用しよう。
恥辱と気苦労にまみれた悲惨な日常を生きるソーニャにとって、唯一の救いは神の存在であり、神への信仰であった。そのような彼女を、ラスコーリニコフは「いくぶん神がかった狂人」すなわち「狂信者」とみなしたのである。
いっさいの人間から切り離されたと感じるラスコーリニコフにとって、ソーニャは唯一、ともに生きることを期待しうる人間であった。自分で自分を滅ぼしたと感じるラスコーリニコフは、ソーニャもまた、「むだに自分を殺し」た「罪の女」であると考え、そのことを本人に面と向かって告げている。そして、「いま、ぼくには君ひとりしかいない」「ふたりとも呪われた同士だ。だからいっしょに行こうじゃないか!」とまで訴えている。
つまり、ラスコーリニコフにとってソーニャは、彼の唯一の「同類」なのだ。
ところが同時に、ラスコーリニコフとソーニャとの間には、決定的な「みぞ」がある。それは、神に対する想いの違いである。
神への無条件の信仰は、ソーニャにとっての生きる支えにほかならないが、ラスコーリニコフは、そこに「発狂の徴候」を見てとるほど、ソーニャとは対極的な場所に立つ。このように、この場面では、「信仰」をめぐる二人の対比がくっきりと描き出される。
だが、ラスコーリニコフが、本当に、心の底から「神」を信じていなかったかというと、そうとも言い切れない、あいまいさが存在するのだ。
ラスコーリニコフは、彼に老婆殺しの嫌疑をかけるポルフィーリー予審判事との対話の中で、「神を信じているか」と問われ、「信じている」と答えている。もっとも、これは「偽装」かもしれない。
むしろ、注目すべきは、ラスコーリニコフが犯行に至るまでに、長い間迷い、思い悩み、いったんは断念する場面(第一部 五)である。
彼は、ペテルブルクの街を当てもなく歩き回り、空腹を感じて酒場でウオツカを一杯ひっかけ、たちまち酔いが回って、帰る途中、道をそれて草の上にぶっ倒れ、眠りこみ、悪夢にうなされる。
全身汗まみれで目を覚ましたとき、彼は自身のたくらみに対する嫌悪感で「全身をぶちのめされたよう」になって頭をかかえる。
このような描写を読む限り、ラスコーリニコフが正真正銘の無神論者だとは考えにくい。彼は、あたかも神に導かれたかのように、ひとまず邪悪な想念を振りはらったのだ。
ところが、その帰り道に、運命の非情な罠が待ちかまえていた。彼は、通りすがりに、偶然リザヴェータの立ち話を聞くことによって、翌日の晩、老婆が家に独りきりになることを知り、「絶好の機会」を与えられてしまう……。
ラスコーリニコフが、本心では神を信じていたか、信じていなかったのか、たぶん彼自身にも、はっきりとわからなかったのではないだろうか。
ラスコーリニコフの神に対する態度は混乱している。もはや自首するほかに残された道がないと悟ったとき、彼は妹のドゥーニャとの別れに際して、次のように語る。
「ぼくは神を信じちゃいない。それでも母さんには、ぼくのためにお祈りしてくれと頼んできた。何がどうなっているのか、神さまにしかわからないさ、ドゥーネチカ、ぼくには何がなんだかわからない」
ラスコーリニコフは、神に対して懐疑を抱きながらも、その存在を完全に否定し去ることはできなかった。あるいは、神を信じることも否定することもできなかったという心の在りようが、彼の愚行を許す素地となったと同時に、彼の再生への希望を辛うじてつなぐための命綱となったとも考えられる。
そして、主人公のそのような「心の在りよう」は、『罪と罰』という物語を成立させるために必要不可欠な条件でもあったのだ。
『罪と罰』において、ドストエフスキーは主人公を破滅させることを望まなかった。むしろ、作家が構想したのは、致命的な罪を犯した人間にとっての再生の可能性を追求する物語だった。おそらく、そうした再生のための鍵となる存在として造形された人物がソーニャであった……。
次回は、ラスコーリニコフの再生にソーニャが果たした役割について、それと合わせて、リザヴェータが殺された意味について、さらに深入りして考えてみたい。
(続く)
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