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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(4)

目次
問題の所在
様々な解釈
仮説
断ち割る者
糸杉と銅の十字架
ギリシャの神々

ソーニャの直観
アリョーシャの絶望と再生
ラスコーリニコフと神
リザヴェータはなぜ殺されたのか?
エピローグ
終わらない「問い」

前回までの要約
ラスコーリニコフは老婆の殺害の直後から「無限の疎外と孤独の感覚」に苦しめられる。この「感覚」の正体は果たして何か、それが本論の重要な問題提起であった。
この問題をめぐって、筆者は、先行研究として、小林秀雄、ベルジャーエフ、シェストフ及び江川卓の四人の議論を簡単に紹介した。
それらの議論も踏まえつつ、筆者は、次のような可能性を指摘した。
ドストエフスキーが、ラスコーリニコフの「孤独」に読者の共感を引き寄せようとしたのであれば、より単純で、感覚的、直観的なイメージに訴えようとしたのではないか?
実は、筆者は、久しい以前から、そのようなイメージに重なる「ある仮説」に思い至り、それはすでに強い確信となった。
その仮説とは、次のようなものだ。
この世界において、あらゆる人間どうしのつながりは、水平的な横のつながりではなく、すべて天上の神を仲立ちとした垂直的な縦のつながりである。従って、老婆を殺害することで、神に背き、自ら神との絆を断ち切ったラスコーリニコフは、もはや、必然的に世界の誰ともつながることができなくなった。そのことを直観的に、皮膚感覚として突きつけられたものこそが、彼の絶望的な孤独の正体であった。

断ち割る者


数年前に、渋谷の Bunkamura シアターコクーンで、『罪と罰』の舞台を観た。
ロイヤル・シェークスピア・カンパニー出身のイギリス人演出家による作品で、ラスコーリニコフ役は三浦春馬(合掌!)、ソーニャを大島優子が演じていた。劇場はほぼ満席で、意外なことに若い女性客が多数つめかけていたのは、どうやら三浦春馬がお目当てのようだった。

舞台の出来栄えについては、全体としては、特に可もなし不可もなしという印象だったのだけれど、ひとつだけ強く不満を感じた演出があった。それは、ラスコーリニコフが老婆を殺害する場面で、彼が明らかに斧の「刃」の側を凶器としていたことだ。
ところが、作品を読むと、主人公は、斧の「刃」ではなく「峰」の側で老婆の頭頂を殴打したことが、わざわざ繰り返し、生々しく描写されているのだ。

……彼は斧をすっかり取りだし、なかば無意識のうちに両手でそれを振りかぶると、ほとんど力をこめず、ほとんど機械的に、頭をめがけて斧の峰をふりおろした。……(第一部 七)

江川卓訳, 岩波文庫, 上巻 p.160.

……彼はもう一度、二度、峰のほうで、脳天だけをねらって、力まかせに斧をふりおろした。……(同上)

同上 p.161.

 『罪と罰』を舞台化したイギリス人演出家は、ラスコーリニコフが斧の峰を凶器として用いたという「ディテール」に特に注意を払わなかった、ということになる。しかし、作者が何の意味もなく、気まぐれに、「峰打ち」を採用したとは考えにくい。それをあっさり見過ごしてしまうなど、演出家としてあるまじきことではないか、とその時私は思ってしまったのだ。

だが、演劇とその原作としての小説は別の作品である。演出家が「斧の峰」というディテールにこだわらなかったとすれば、彼が作品をとおして伝えようとしたメッセージにとって、その点は重要ではなかったということなのだろう。

 それはさておき、ラスコーリニコフは、どうして斧の「峰」を凶器として用いたのだろうか? 

その理由を考える前に、まず「ラスコーリニコフ」という主人公の姓が持つ意味について触れておきたい。

 この主人公の姓は、ロシア正教会における異端派である「ラスコーリニキ」(分離派)に由来するものであるとされ、これは主人公の青年の出自が分離派の家系であることを示唆しているという解釈が定説となっている。

もう少し補足すると、「ラスコーリニキ」とは、「17世紀後半にロシア正教会で行われた典礼改革(いわゆるニコンの改革)の受入れを拒否して、正教会から分離した分派の総称」を意味し、1667年に正教会から破門されたのだが、これらの宗徒は「一部の貴族、聖職者、農民、商人など広範な階層から成り、一種の社会運動の様相を見せた」ため、分離後の一時期は激しい弾圧を受けた、とのことである(川端香男里ほか監修『ロシア・ソ連を知る事典』平凡社, 1989, p.617)。

 そのような出自の示唆に加えて、江川卓は、この姓が、ロシア語で「割り裂く」とか「断ち割る」を意味する動詞「расколотьラスコローチ」から派生していることから、まさに、老婆の頭を斧で「割り裂く」という主人公の運命が暗示されているとする。そこで、江川は、ラスコーリニコフの日本語名として「割崎わりさき」という姓を提案している(江川卓『謎とき『罪と罰』』新潮選書, 1986, pp.39-40)。

 ここで、話を戻すと、老婆を殺害する際に主人公が斧の「峰」を用いた理由について、最初、私は、ラスコーリニコフが返り血を浴びることを避けようとしたのではないか、と考えた。ところが、彼は、二人目の犠牲者であるリザヴェータの殺害に際しては、斧の「刃」を用いている。

……斧の刃はまともに頭蓋骨にあたり、一撃で額の上部をこめかみのあたりまでぶち割った。彼女ははげしくその場に倒れた。……(同上)

同上 p.166.

 つまり、作者は、主人公が犯す最初の殺人のためにのみ、あえて「峰打ち」を採用しているのである。

これは、実に不思議なことだ。ラスコーリニコフは、老婆の殺害に際しては斧の「峰」を、リザヴェータに対しては斧の「刃」を、凶器としてわざわざ使い分けている。このことに、どんな意味があるのだろうか?

 さしあたり、最初の犯行に関して、江川卓は、ある亡命ロシア人学者の説に基づき、次のように述べている。

 ……ドストエフスキーは斧が「峰打ち」であることを、あくまでも強調したかったのである。なぜか。この点については、ユニークな『罪と罰』論『夜の光』の著者である、亡命ロシア人学者ゲオルギー・メイエルの考察がある。つまり、「峰打ち」であれば、斧を振りおろした瞬間、砥ぎすまされた斧の刃は、当然、まっすぐに割崎青年の面をにらんでいたことになる。だとすると、この瞬間に割り裂かれたのは、老婆の頭ではなく、むしろラスコーリニコフ自身の顔、精神ではなかったか、というのである。

江川卓『謎とき『罪と罰』』新潮選書, 1986 p.40.

 江川は、これを卓見であると評価している。なるほど、このメイエルの解釈は、前述のとおり、ラスコーリニコフが「自分自身を殺した」と告白することとも符合する。
しかし、私は、あえて別の可能性を考えてみたい。

 老婆の殺害の場面で描かれているように、ラスコーリニコフが、峰打ちの体勢で、両手で斧を振りかぶったとすれば、斧の刃は、一瞬、真上に向かって振りあげられたことになる。
そのとき、斧の鋭い刃先は、神が存在する天上をめがけて、真っ直ぐにくうを裂いた、とみることができないだろうか。そして、主人公は、その瞬間、無意識のうちに、神に背き、自ら神との間に結ばれていた紐帯を断ち切ったのではないだろうか。

前回書いたように、ここで「天上」を「神の居場所」とするのは、あくまで象徴的、図式的な約束事であるが、もし、そのような象徴性を認めてもらえるなら、ラスコーリニコフという姓には、神との絆を「断ち割るラスコローチ」者というイメージが重ねられている、と考えることが可能となるのだ。

 以上が、私の仮説のための第一の傍証である。

 では、ラスコーリニコフが第二の犯行に際して斧の「刃」を、直接、被害者に向けたのはなぜなのか? そこにどんな意味があるのだろうか?

この点については、いずれ、あらためて私見を述べたいと思っている。

(続く)

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