ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(7)
アリョーシャの絶望と再生
ドストエフスキーは『罪と罰』において「神をつうじた人間どうしの絆」という観念を暗示していた。そのような仮説への確信をさらに深めてくれる情景が『カラマーゾフの兄弟』の一場面に描かれている。
それは、カラマーゾフ家の三兄弟の末っ子、アレクセイ・カラマーゾフ、すなわちアリョーシャにとってのクライマックスと言える場面である。
修道院に暮らす若き修道僧のアリョーシャは、自らの師であり、心から愛し、崇拝してきたゾシマ長老の臨終を看取る。
悲嘆に暮れる彼に、ある「事件」が追い打ちをかける。町の信者たちのこの上ない崇敬の対象であった長老の遺体が、思いがけず死後一日も経過しないうちに腐臭を放ち始めたのだ。
このスキャンダルは、長老の死によりもたらされる奇跡を待ち望んでいた町じゅうの好奇心を逆の形で刺激し、ゾシマ長老の権威はたちまち失墜する。
絶望のあまり信仰の揺らぎにさえ直面するアリョーシャは、友人に誘われるまま、これまで慎重に避けてきた女性に会いに行く。その女性とは、町の有力者の囲われものの身でありながら、その妖艶で悪魔的な美貌で男たちを魅了するグルーシェニカであり、まさにアリョーシャの父フョードルと長兄のドミートリーは、この女性をめぐって骨肉の争いを繰り広げていた。
アリョーシャは、自ら堕落してやろうという捨て鉢な気持ちでグルーシェニカに会うのだが、そこでアリョーシャが出会ったのは、自分を捨てた初恋の男を未だに想い続ける、傷ついた優しい女性だった。
アリョーシャは、グルーシェニカとの間に真実の心の交流が生まれるのを感じる。そして、自分を辱め、苦しめた男をすら許し、報いようとするグルーシェニカの一途な愛が、アリョーシャの心を信仰の迷いから目覚めさせる。
夜更けに僧院に戻ったアリョーシャは、ゾシマ長老の棺の前にひざまずき、一心に祈り始める。まどろみの中で、夢に現れたゾシマ長老から「自分の仕事を始めなさい」と力強く呼びかけられたアリョーシャは、歓喜に駆られて外に飛び出し、満天の星の下で地面に倒れ伏して、大地に口づけをする。そして、むせび泣きながら、大地を永遠に愛すると誓う。
アリョーシャが「歓喜に震えながら大地にひざまずき、口づけをする」という行為。ドストエフスキーの読者は、この行為に、どこか既視感のようなものを覚えるのではないだろうか? というのも、これは、まさに自首におもむく直前のラスコーリニコフの行為とそのまま重なるものであるからだ。
それぞれの小説から、該当する描写を抜き出してみよう。
ラスコーリニコフも、アリョーシャも、不意に襲ってきた燃えあがるような感情にとらわれ、いきなり大地に倒れ伏して、歓喜の涙を流しながら大地に口づけをする。
そのような感情を呼び覚ますきっかけとなったものは、ラスコーリニコフにとっては、自首を促すソーニャのきびしい言葉であり、アリョーシャにとっては、(上の引用では割愛したが)夢に現れたゾシマ長老の、「おそれずに世の中に出て行きなさい」とはげますような言葉である。
二人の人物のそれぞれの状況はまったく異なるものであるが、結果として生じたこれらの行為のあいだにはまぎれもない相似がある。
ドストエフスキーは、アリョーシャにラスコーリニコフの行為をなぞらせることによって、なにか重要なメッセージを伝えようとしたのではないか? そして、そのメッセージとは、『罪と罰』で暗示された観念が再び立ち現れるという合図だったのではなかろうか?
『カラマーゾフの兄弟』から、上に続く部分をさらに引用しよう。作家は、大地に倒れ伏したアリョーシャの心象風景を次のように描き出す。
ここに引用した描写は、アリョーシャの生涯の転機となった場面、彼の信仰がひとつの困難な試練を克服して、変わることのない強固な信念へと再生を遂げた重要な場面である。
アリョーシャは、天からの啓示にうたれたように、心の中に響く声を聞き、「揺るぎなく確固とした」存在に触れて、「一つの思想ともいうべきもの」が芽生えるのを感じる。
特に注目したいのが「数知れぬ神の世界から投じられた糸が、一度に彼の魂に集まったかのようであり、彼の魂全体が《ほかの世界に接触して》、ふるえていた」という一節である。
「数知れぬ神の世界から投じられた糸」とは、この世界のすべての存在と神とを結ぶ無数の絆を意味する、と私は考えたい。
おそらく、アリョーシャの魂は、それらの無数の絆を「自らと神との絆をとおして」同時にまざまざと感じとったのであり、それによって、あたかも、この世のあらゆる人々との絆が彼の心にいっぺんに集合し、共鳴しあうかのような響きを奏でたのであろう。
魂全体が感じとるその光景は、ラスコーリニコフを悩ませた「いっさいの人間といっさいのものから、自分の存在を鋏で切り離しでもしたよう」な感覚の対極に存在する、想像しうる限り最も美しく、感動的な、至福の光景であったに違いない。
アリョーシャにとって、この奇跡の瞬間は、まさに神の啓示であった。その啓示が意味するものは、彼が、この世のすべてのものと「神」を通じてつながっている、という直観であったのだ。その直観こそが、アリョーシャにとって、永遠に変わることのない「揺るぎなく確固とした」信仰の保証となったのだろう。
以上、第四回からここまで述べてきたことが、私の仮説、すなわち、「人と人とのあらゆる絆は天上の神を仲立ちとしたものであり、自ら神との絆を断ち切ったラスコーリニコフは、それによって他のいっさいの人間とつながるすべを失ったのだ」とする仮説に対する拙い証明である。
次回は、これまで先送りにしてきたいくつかの疑問について、立ち戻って考えてみたい。
(続く)
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