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ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(7)

目次
問題の所在
様々な解釈
仮説
断ち割る者
糸杉と銅の十字架
ギリシャの神々

ソーニャの直観
アリョーシャの絶望と再生
ラスコーリニコフと神
リザヴェータはなぜ殺されたのか?
エピローグ
終わらない「問い」

前回までの要約
ラスコーリニコフの「無限の孤独と疎外の感覚」の正体は、自ら神との絆を断ち切った結果として、必然的に世界の誰ともつながることができなくなったことを、直観的に、皮膚感覚として突きつけられたものであった。
この仮説を裏付ける証拠として、筆者はこれまでに次の事柄を挙げた。
・「ラスコーリニコフ」という姓に「神との絆を断ち割るラスコローチ者」という暗示が読みとれること
・ラスコーリニコフが老婆の首から紐で吊るされた財布を奪い取ったときに、いっしょにくくりつけられていた十字架と聖像、すなわち「神への信仰のしるし」を死体の上に投げすてたこと
・ラスコーリニコフのファーストネーム・ロジオンの語源はギリシャ語の「英雄ヘーロース」であり、その命名の由来となった可能性があるシラーの詩「ギリシャの神々」の中に、「英雄と神と人間との絆」を意味する詩句があること
・ラスコーリニコフが「神から離れ、それによって人間を失った」ことを、ソーニャが直観的に見抜いたこと

アリョーシャの絶望と再生

ドストエフスキーは『罪と罰』において「神をつうじた人間どうしの絆」という観念を暗示していた。そのような仮説への確信をさらに深めてくれる情景が『カラマーゾフの兄弟』の一場面に描かれている。

それは、カラマーゾフ家の三兄弟の末っ子、アレクセイ・カラマーゾフ、すなわちアリョーシャにとってのクライマックスと言える場面である。

修道院に暮らす若き修道僧のアリョーシャは、自らの師であり、心から愛し、崇拝してきたゾシマ長老の臨終を看取る。
悲嘆に暮れる彼に、ある「事件」が追い打ちをかける。町の信者たちのこの上ない崇敬の対象であった長老の遺体が、思いがけず死後一日も経過しないうちに腐臭を放ち始めたのだ。
このスキャンダルは、長老の死によりもたらされる奇跡を待ち望んでいた町じゅうの好奇心を逆の形で刺激し、ゾシマ長老の権威はたちまち失墜する。

絶望のあまり信仰の揺らぎにさえ直面するアリョーシャは、友人に誘われるまま、これまで慎重に避けてきた女性に会いに行く。その女性とは、町の有力者の囲われものの身でありながら、その妖艶で悪魔的な美貌で男たちを魅了するグルーシェニカであり、まさにアリョーシャの父フョードルと長兄のドミートリーは、この女性をめぐって骨肉の争いを繰り広げていた。

アリョーシャは、自ら堕落してやろうという捨て鉢な気持ちでグルーシェニカに会うのだが、そこでアリョーシャが出会ったのは、自分を捨てた初恋の男を未だに想い続ける、傷ついた優しい女性だった。
アリョーシャは、グルーシェニカとの間に真実の心の交流が生まれるのを感じる。そして、自分を辱め、苦しめた男をすら許し、報いようとするグルーシェニカの一途な愛が、アリョーシャの心を信仰の迷いから目覚めさせる。

夜更けに僧院に戻ったアリョーシャは、ゾシマ長老の棺の前にひざまずき、一心に祈り始める。まどろみの中で、夢に現れたゾシマ長老から「自分の仕事を始めなさい」と力強く呼びかけられたアリョーシャは、歓喜に駆られて外に飛び出し、満天の星の下で地面に倒れ伏して、大地に口づけをする。そして、むせび泣きながら、大地を永遠に愛すると誓う。

アリョーシャが「歓喜に震えながら大地にひざまずき、口づけをする」という行為。ドストエフスキーの読者は、この行為に、どこか既視感のようなものを覚えるのではないだろうか? というのも、これは、まさに自首におもむく直前のラスコーリニコフの行為とそのまま重なるものであるからだ。

それぞれの小説から、該当する描写を抜き出してみよう。

 ふいにソーニャの言葉が思い出された。『十字路へ行って、みなにお辞儀をして、大地に接吻なさい。あなたは大地にたいしても罪を犯したのです。それから世界じゅうに聞こえるように言いなさい、私は人殺しです! と』この言葉を思いだしたとたん、彼の全身はがたがたとふるえだした。この間からずっと、とりわけこの数時間はとくにはげしく、彼を抑えつけてきた出口のない哀傷と不安があまりにも大きかったせいだろうか、彼はこの新しい、なんの欠けるところもなく充実した感覚の可能性に、文字どおり身をゆだねた。その感覚は、ふいに、発作のように、彼を襲った。心の底に、ひとつの火花のように燃え立つと見るまに、それは火のように燃えあがって、彼の全身をとらえた。彼の内部のいっさいが一時にやわらげられ、涙が目にあふれてきた。立っていたそのままの姿勢で、いきなり彼は大地に倒れ伏した……。
 広場のまんなかにひざまづいて、彼は地べたに頭をすりつけ、歓喜と幸福にむせびながら、この汚れた大地に口づけした。立ちあがって、もう一度お辞儀をした。(第六部 八)

『罪と罰』江川卓訳, 岩波文庫 下巻 pp.359-360.

 何かがアリョーシャの心の中で燃え、何かがふいに痛いほど心を充たし、歓喜の涙が魂からほとばしった……彼は両手をひろげ、叫び声をあげて、目をさました……
 <中略>
 彼は表階段にも立ちどまらず、急いで下におりた。歓喜に充ちた魂は自由を、場所を、広さを求めていた。頭上には、静かな星をこぼれるばかりにちりばめた空の円天井が、見はるかすかなたまで広々と打ちひらけていた。<中略> アリョーシャはたたずんで眺めていたが、ふいに足を払われたかのように地べたに倒れ伏した。
 何のために大地を抱きしめたのか、彼にはわからなかったし、なぜこんなに抑えきれぬほど大地に、大地全体に接吻せっぷんしたくなったのか、自分でも理解できなかったが、彼は泣きながら、嗚咽おえつしながら、涙をふり注ぎながら、大地に接吻し、大地を愛することを、永遠に愛することを狂ったように誓いつづけた。……(第三部 第七編 四)

『カラマーゾフの兄弟』原卓也訳, 新潮文庫 中巻 pp.245-247.


ラスコーリニコフも、アリョーシャも、不意に襲ってきた燃えあがるような感情にとらわれ、いきなり大地に倒れ伏して、歓喜の涙を流しながら大地に口づけをする。
そのような感情を呼び覚ますきっかけとなったものは、ラスコーリニコフにとっては、自首を促すソーニャのきびしい言葉であり、アリョーシャにとっては、(上の引用では割愛したが)夢に現れたゾシマ長老の、「おそれずに世の中に出て行きなさい」とはげますような言葉である。
二人の人物のそれぞれの状況はまったく異なるものであるが、結果として生じたこれらの行為のあいだにはまぎれもない相似がある。

ドストエフスキーは、アリョーシャにラスコーリニコフの行為をなぞらせることによって、なにか重要なメッセージを伝えようとしたのではないか? そして、そのメッセージとは、『罪と罰』で暗示された観念が再び立ち現れるという合図だったのではなかろうか?

『カラマーゾフの兄弟』から、上に続く部分をさらに引用しよう。作家は、大地に倒れ伏したアリョーシャの心象風景を次のように描き出す。

……『汝の喜びの涙を大地にふり注ぎ、汝のその涙を愛せよ……』心の中でこんな言葉がひびいた。何を思って、彼は泣いたのだろう? そう、彼は歓喜のあまり、無窮の空からかがやくこれらの星を思ってさえ泣いたのであり、《その狂態を恥じなかった》のである。さながら、これらすべての数知れぬ神の世界から投じられた糸が、一度に彼の魂に集まったかのようであり、彼の魂全体が《ほかの世界に接触して》、ふるえていたのだった。彼はすべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、みずからも赦しを乞いたかった。ああ、だがそれは自分のためにではなく、あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことに対して赦しを乞うのだ。『僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる』ふたたび魂に声がひびいた。しかし、刻一刻と彼は、この空の丸天井のように揺るぎなく確固とした何かが自分の魂の中に下りてくるのを、肌で感ずるくらいありありと感じた。何か一つの思想ともいうべきものが、頭の中を支配しつつあった。そしてそれはもはや一生涯、永遠に続くものだった。大地にひれ伏した彼はかよわい青年であったが、立ちあがったときには、一生変らぬ堅固な闘士になっていた。そして彼は突然、この歓喜の瞬間に、それを感じ、自覚したのだった。アリョーシャはその後一生を通じてこの一瞬を決して忘れることができなかった。「だれかがあのとき、僕の魂を訪れたのです」後日、彼は自分の言葉への固い信念をこめて、こう語るのだった……(同上)

同上 pp.247-248.

ここに引用した描写は、アリョーシャの生涯の転機となった場面、彼の信仰がひとつの困難な試練を克服して、変わることのない強固な信念へと再生を遂げた重要な場面である。

アリョーシャは、天からの啓示にうたれたように、心の中に響く声を聞き、「揺るぎなく確固とした」存在に触れて、「一つの思想ともいうべきもの」が芽生えるのを感じる。

特に注目したいのが「数知れぬ神の世界から投じられた糸が、一度に彼の魂に集まったかのようであり、彼の魂全体が《ほかの世界に接触して》、ふるえていた」という一節である。

「数知れぬ神の世界から投じられた糸」とは、この世界のすべての存在と神とを結ぶ無数の絆を意味する、と私は考えたい。
おそらく、アリョーシャの魂は、それらの無数の絆を「自らと神との絆をとおして」同時にまざまざと感じとったのであり、それによって、あたかも、この世のあらゆる人々との絆が彼の心にいっぺんに集合し、共鳴しあうかのような響きを奏でたのであろう。
魂全体が感じとるその光景は、ラスコーリニコフを悩ませた「いっさいの人間といっさいのものから、自分の存在を鋏で切り離しでもしたよう」な感覚の対極に存在する、想像しうる限り最も美しく、感動的な、至福の光景であったに違いない。

アリョーシャにとって、この奇跡の瞬間は、まさに神の啓示であった。その啓示が意味するものは、彼が、この世のすべてのものと「神」を通じてつながっている、という直観であったのだ。その直観こそが、アリョーシャにとって、永遠に変わることのない「揺るぎなく確固とした」信仰の保証となったのだろう。


以上、第四回からここまで述べてきたことが、私の仮説、すなわち、「人と人とのあらゆる絆は天上の神を仲立ちとしたものであり、自ら神との絆を断ち切ったラスコーリニコフは、それによって他のいっさいの人間とつながるすべを失ったのだ」とする仮説に対する拙い証明である。

次回は、これまで先送りにしてきたいくつかの疑問について、立ち戻って考えてみたい。

(続く)

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