ラスコーリニコフの孤独―『罪と罰』私論―(9)
リザヴェータはなぜ殺されたのか?
第6回で述べたように、ラスコーリニコフはソーニャへの罪の告白によって、束の間、自己を脅かす苦悩から癒され、息を吹き返す。
それは、あらゆる人間から切り離され、もはや誰ともつながることができないと感じていた主人公が、ソーニャとの間で人間的なつながりの回復を実感したためにほかならない。
なぜそのような「奇跡」が生じ得たのだろうか?
実は、そこに「リザヴェータが殺された意味」が絡んでいるのではないか。
今回は、そのことを考えてみたい。
リザヴェータは、ラスコーリニコフの犯行計画の標的であった老婆の腹違いの妹である。
作品の中では「三十五になる未婚の娘で、臆病でおとなしく、少し頭が足りない」ようで、「姉の家にいて、夜昼なく奴隷のようにこき使われ」ていると、描かれている。
彼女は、老婆が殺害された直後に帰宅し、その現場を目撃したために、哀れにも第二の犠牲となってしまう。これは、ラスコーリニコフにとっても、まったく予定外の殺人だった。
このリザヴェータはソーニャと深いつながりがあった。
ラスコーリニコフは、はじめてソーニャの部屋を訪れたときに、たんすの上の新約聖書を手にとり(リザヴェータから贈られたものだ)、なぜか唐突に、ソーニャに向って福音書の「ラザロの復活」の箇所を読んでくれと頼む。
しかし、ラスコーリニコフの信仰心を疑うソーニャは、読むことをためらう。
この場面では、ラスコーリニコフから見たソーニャとリザヴェータの同質性が強調されている。
リザヴェータとソーニャは仲の良い友だちどうしだった。
ソーニャが手元に置いていた聖書はリザヴェータから贈られたものであったし、ソーニャはリザヴェータと十字架の交換までしていた。
しかも、ラスコーリニコフは、リザヴェータもソーニャと同様に「ユロージヴァヤ」であったことを「発見」する。
リザヴェータはなぜ殺されなければならなかったのだろうか?
この二人目の殺人が『罪と罰』という作品を成立させるために、必要不可欠な構成要素であったのだとすれば、そこにどのような意味が込められていたのだろうか?
作家は、本来の計画になかった無用な殺人を犯させることで、主人公の苦悩を、より深刻な、悲劇的なものとすることを意図したのだろうか?
ところが、不思議なことであるが、犯行後のラスコーリニコフの苦悩は、リザヴェータの予期せぬ殺害によって、必ずしもより強められてはいないかのようだ。
リザヴェータを思い出す場面で、ラスコーリニコフは次のように独白している。
きわめて突飛で、馬鹿げた冗談に聞こえるかもしれないが、リザヴェータは、ラスコーリニコフが再生する契機となるために殺されたのではないだろうか? 読者は、実際に、そのような不可解な思いに立ち至る場面に遭遇するのだ。
以下に引用するのは、ラスコーリニコフが、リザヴェータを殺害したのは自分であることを、遠回しにソーニャにほのめかした直後の場面である。
しばらく、ラスコーリニコフと互いに顔を見つめあっていたソーニャは、ようやく事の真相を悟る。
ラスコーリニコフからリザヴェータの死の真相を知らされたとき、ソーニャが見せた反応、そのたよりない防御のしぐさと恐怖の表情は、死に直面したリザヴェータとそっくりそのまま同じであった。ラスコーリニコフは、そんなソーニャの姿に「リザヴェータの亡霊」を認め、リザヴェータの恐怖を追体験する。そして、まるで、ソーニャの恐怖が伝染したかのように、ソーニャとラスコーリニコフの間に奇妙な共感が生じるのだ。
小林秀雄は、前述の評論において、上の場面を引用し、次のように論じている。
あらゆる人間とつながるためのルートが閉ざされていたはずのラスコーリニコフとソーニャとの奇跡的な交感! その絆を媒介したものは、実は、リザヴェータの亡霊だった。
ここで思い起こしてほしいのは、ラスコーリニコフが、リザヴェータの殺害に、あえて斧の刃を用いたことである。
ひとつの仮説が成り立つ。ラスコーリニコフがリザヴェータに刃を向けたのは、彼女が、ユロージヴァヤ、すなわち「神がかりの狂人」あるいは「神のお使い」であったためではないか、という仮説だ。
これは、老婆を斧の峰打ちで殺害したときに、斧の刃が天に向けられたこととも符合する。
そして、この仮説に基づくなら、すなわちリザヴェータが「神のお使い」であったとすれば、ラスコーリニコフとソーニャとの絆を仲立ちしたものは、まさに「神」であったと考えられるのだ。
ここで生じた一瞬の絆は、さらに、ラスコーリニコフにとって意外な展開を導く。
ソーニャの恐怖は、彼女がラスコーリニコフを拒絶し、あるいは彼から逃れ去るという当然の成り行きへ向かわない。
ソーニャは「へたへたと寝台に倒れ、枕に顔を埋めた」。だが、つぎの瞬間、さっと起き上がり、ラスコーリニコフの「両手をつかみ、自分の細い指でひしとばかり握りしめた」。そして、「最後の希望」を見つけ出そうとでもするように、ラスコーリニコフの顔をじっと見つめるが、もはや「疑いの余地がない」ことをはっきりと見てとる。
ラスコーリニコフの告白を受ける直前まで、不幸な孤立無援の境遇にあるソーニャにとって、彼は、心からの感謝を捧げるべき恩人であった。
ラスコーリニコフは、ソーニャの父マルメラードフが泥酔のあげく路上で馬車にひかれた事故現場に行き合わせ、率先して瀕死の怪我人を家まで運ぶように尽力したり、医者を呼んだりと親身に世話を焼く。そして、その最期を見届けると、残された未亡人に対して、葬儀費用の足しにと、母からの仕送りであるなけなしの二十ルーブリ(かつてのマルメラードフの俸給に匹敵する額だ)を渡すなど、無思慮とも思える手厚い弔意を示す。
また、その葬儀後に行われた会食の場面では、卑劣な策略から窃盗の濡れ衣を着せられたソーニャを窮地から救っている。そのような経緯もあり、ソーニャにとってラスコーリニコフは、すでに特別な存在であったことは疑いない。
それにしても、リザヴェータの死の真相を告げられたソーニャの心からの同情が、リザヴェータよりも、むしろ憎むべき犯人であるラスコーリニコフに向けられたのは驚くべきことだ。このようなソーニャの偽りのない心情が、絶望的な孤独に陥っていたラスコーリニコフの心に橋を架けるのである。
上に続く場面で、前述(第6回)のように、ソーニャはラスコーリニコフに自首するよう促し、ラスコーリニコフはそれを拒む。
ラスコーリニコフは、なおもしばらく決着を引き延ばすが、結局は、ソーニャに指し示されたとおりに、広場のまんなかで地べたにひざまずき、大地に口づけをして、そして自首におもむく。
一瞬の奇跡から生じたソーニャとの一体感が、ラスコーリニコフの再生に向けた第一歩となったとすれば、彼の再生への道すじは、まさにリザヴェータとソーニャによって照らされたものであったと言えるだろう。
(続く)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?