見出し画像

<いのち>に気づくマインドフルネス。【情報社会で「今・ここ」を感じる力を取り戻す】

この記事の内容は、情報社会において、あえて意識することが少ない五感に気づくことによって、<いのち>や、「今・ここ」を感じる力を取り戻すためのマインドフルネス瞑想の方法についてです(約25000字 2020年4月23日~ 250円 ⇒ 全部無料で読めます)。


画像46

日頃から、自分自身の<いのち>を感じて幸福な気分に満たされることはありますか?

あるいは、日々、生活するなかで自分自身が<いのち>によって生かされていると気づくことはありますか?


もし、自分の命というものに気づく機会が少なく、なかなか自分のいのちに感謝することができないとすれば、そこには、テレビやパソコン、スマートフォンなどに四六時中囲まれて生活することによる視覚優位の脳化社会や、速さと効率ばかりが優先される情報社会に身を置いていることで、脳が疲れきってしまっていることが理由として挙げられるのかもしれません。

画像26

たとえば、令和という新元号に変わったのに、以前と同じで、何だかうつっぽくてやる気が出ない、テレビの情報番組やSNSのタイムラインを漫然と眺めていても満たされない、生きる目的が見つからない、いまの自分自身の実生活や人間関係に関してどういうわけか不満だらけ、という方は意外とたくさんいらっしゃるかもしれません。


もしそのような場合は、「今・ここ」に生きる感覚が置き去りにされ、自分自身の<いのち>に気づいていないことが原因のひとつとして考えられます。

しかし、文明社会に馴染み、テクノロジーが発展した便利な都会で生活していれば、(その分、感覚や生命力が衰えることで)自分自身に<いのち>があるということに気づくのが難しくなってしまうのは、当然のことであるのです。


 素直な気持ちで自分自身にたずねてほしい。生を生としてじっくり味わって生きてみたことがあるかと。(古東哲明『瞬間を生きる哲学』)
 インターネットは前代未聞のツールだが、私たちはいつでもどこでもインターネットに不可能なことまで期待する。私たちはウェブからいったん離れてみるといいのだ。しばらくしてから戻ってこよう。そのときにはもう、私たちがウェブを利用する目的は、ウェブに可能なことだけになっているはずだ。

(クリスティーナ・クルック『スマホをやめたら生まれ変わった』 安部恵子 訳)


五感を意識することによって<世界>を感じる。

画像15

そして、日常生活のなかで<いのち>を感じるためには、五感によって、実は<世界>が(自分が思っているより)驚くほどに豊饒であることに気づく必要があります。


具体的には、頭で考え続けることや、一度も会ったことのない芸能人の話題など、とりあえず自分自身の「今・ここ」とは関係のない、多すぎる情報の入力をストップし、代わりに感じる力を甦らせることであり、普段から五つの感覚を意識するようにすることです。


また、五感のうち、どの感覚が発達しているかは、体質や職業、ライフスタイルなどによって、人それぞれ違ってくるのかもしれませんが、<いのち>を感じるとは、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るという、それぞれ別々の感覚が、実は感覚としては別個のものではなく混合していると気づくことでもあります。


気づきのちからを養うことが、いのちを実感することにつながる。

画像2


ですが、このように述べる私自身、気づきを増やすために、マインドフルネス瞑想やヴィパッサナー瞑想を始める以前の20代の頃は、理屈っぽく頭でっかちで、頭の中でいろいろと考えたり、すぐに家族関係や人間関係に対して思い悩んだりしてしまう性格でしたので、<いのち>を体感するのとは程遠い生き方をしていました。

基本的に部屋にこもって小説やマンガを読んだり、映画を見たり、テレビゲームをしたりすることを好み、人生が虚しいうえにあまりうまくいっていないという思いにとらわれていることもあって、どこか周囲に対して心を閉ざしていたようにも思います。


ところが、人生はやっかいごとだらけだとしても、私が生きているこの<世界>というものに対して、100%心を閉ざしてしまうことに違和感をおぼえ、20代後半くらいから、心身のバランスを整えるためにヨガを始めてみました。

すると、そのことがきっかけで自分にまず「身体」があることに気づき、さらに自然散策や読書、瞑想などを通じて生命やこころとは何かということを探求する過程で、自分自身は、「脳」ではなく、自分以外の存在、すなわち<他者>によって生かされている、ということに気づき始めたのです。


画像32

不思議なことにその頃から自分という存在に固執することは少なくなり、次第に窮屈さや息苦しさを感じていた以前と違って、自由に生きられるようになってきたように思います。

そして、私自身が、マインドフルネス瞑想を数年前から始め、少しずつ深めていく中で、見るだけではなく、これまであまり意識することがなかった聴く、嗅ぐ、触れる、味わうといったことを意識するようになり、やがて自分の<いのち>を実感できたのは、実は最近のことです。

より詳しく述べると、五感が感覚として別個のものではないということに気づき、それと同時に、その感覚を味わえるのは<いのち>あるゆえだいうことを体感したのです。


すなわち、気づきのちからを養ったり鍛えたりすること、つまり、自分から意識的に感じ取ろうとすることが、いのちを実感することにつながったのです。


 私はこれまで気づかずにきたけれど、この何かはずっと前からそこに与えられていた。私を生かし、私をあらしめ、私を成り立たしめてきた。つまりこの何かこそ、私の真実の主体なのだ。そして今、この何かがそれ自体で立っている。だからその結果、私も立っていられるのだ。

 この「何か」は「働きそのもの」である。あえて名前を付ければ<いのちの働き>とでも呼ぶよりほかない何かである。私の底の<いのちの働き>。(略)

 つまり私は、<いのちの働き>に生かされている。

(諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』p185~186)


そういうわけで今回は、<いのち>に気づくためのマインドフルネスと、情報社会で感じる力を取り戻すための具体的な実践方法について述べていきたいと思います。

ですが、あらかじめ断っておきたいことは、この有料記事の内容は、<いのち>に気づくとはいっても、特定の宗教への入信を勧めたり、スピリチュアリティに根差した生き方を押しつけたり、何かのセラピーやワークへの参加を促したりするものではない、ということです。

画像33

後半では仏教や般若心経の話題も出てきますが、ただ、マインドフルネス瞑想の実践を継続することで、これまで気づくことのなかったことに気づく機会が増え、そのことが<いのち>があることに気づくきっかけになり、最終的にそこから今を生きることの幸福や、生きる意味なるものを発見していただければ嬉しく思います。


この記事を書くために参考にした主な文献。

『マインドフルネスストレス低減法』(ジョン・カバットジン 著 春木豊 訳 北大路書房)

『ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』(地橋秀雄 著 春秋社)

『図解 マインドフルネス』(ケン・ヴェルニ 著 中野信子 監訳 医道の日本社)

『マインドフルネス入門講義』(大谷 彰 著 金剛出版)

『「今、ここ」に意識を集中する練習 心を強く、やわらかくする「マインドフルネス」入門』(ジャン・チョーズン・ベイズ 著 石川善樹 監修 高橋由紀子 訳 日本実業出版社)

『1分間瞑想法』(吉田昌生 著 フォレスト出版)


「気づく」とはどういうことか こころと神経の科学』(山鳥重 著 ちくま新書)

『味わいの現象学』(村田純一 著 ぷねうま社)

『五感の哲学』(加藤博子 著 ベスト新書)

『五感の力 未来への扉を開く』(グラバア俊子 著 創元社)

『感覚の力 バラの香りにはじまる』(コンスタンス クラッセン 著 陽 美保子 訳 工作舎』

『人体 5億年の記憶 解剖学者・三木成夫の世界』(布施英利 著 海鳴社)

『皮膚感覚と人間のこころ』( 傳田光洋 著 新潮選書)


『瞬間を生きる哲学 <今ここ>に佇む技法』(古東哲明 著 筑摩選書)

『スマホをやめたら生まれ変わった』(クリスティーナ・クルック 著 安部恵子 訳 幻冬舎)

『〈むなしさ〉の心理学』(諸富祥彦 著 講談社現代新書)

『体の知性を取り戻す』(尹雄大 著 講談社現代新書)

『原初生命体としての人間』(野口三千三 著 岩波現代文庫)

『現代語訳 般若心経』(玄侑宗久 著 ちくま新書)

『一生幸福になる 超訳「般若心経」 』(苫米地英人 著 PHP文庫)


そもそも気づくとはどういうことか?

画像10

では、<いのち>に気づくとはどういうことか、について説明する前に、そもそも「気づく」とは何を意味するのでしょうか?


具体的には、「気づく」とは、<私>という存在を取り囲んでいる、すでにある「世界」に対して、注意を向けていないことに注意を向けてみる、もしくは、意識にのぼっていないことを、意識することだと考えられます。

この説明だと分かりにくいかもしれませんが、たとえば、ベランダで洗濯物を干しているにも関わらず、読書に没頭するあまり、雨が降って来たことに気づかなかったとします。

そして、だんだん雨音が大きくなってきたことで、雨が降っていることに気づいたといます。


この場合は、すでに雨が降るという出来事が起きているにも関わらず、そのことに注意が向けられていないことが、気づいていない、ということなのです。

しかし、本を読んでいる最中でも、自分が気づいていないだけで、雨粒や雨音は現象としてすでに気づく前から存在していたのです。


また、考え事をしたりスマホを眺めたりしながら歩いていると、向こうからやってきた知人のAさんにいつまでも気づかず、相手から話しかけられて、初めてその人の存在に気づいた、ということを経験したことがある方は、たくさんいらっしゃるかもしれません。

この場合も、先程の例と同様、知人のAさんは自分が気づく前からいたにもかかわらず、他の事を考えたりスマホの画面に集中するあまり、そのAさんがいることにただ自分が意識を向けていなかっただけなのです。


私自身のことを例に挙げると、例えば私自身は、森林浴をすることが好きですが、風景を眺めるのを止め、あえて聴くことだけに注意深く意識を向けると、風の音や葉擦れ(はずれ)の音のほかに、様々な鳥や虫の鳴き声もあったことに気づかされる経験をよくします。

画像16

ちなみに、神経心理学者の山鳥重氏は、『「気づく」とはどういうことか こころと神経の科学』のなかで、「気づく」ということについては、

「自分のこころの動きを自分が意識すること」

「自分の現在のこころの変化を検出するこころの働き」

だとしていますが、「気づく」ということを感覚に応用すると、「見る」ということだけに限らず、「聴く」「嗅ぐ」「味わう」「触れる」といった行為に対して、どのくらい意識するように心がけられるかが問題になってきます。


そして、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感によって、たとえば、色を見る、音を聴く、香りを嗅ぐ、食べ物を味わう、物に触れるといった体験は、別々のように感じられますが、先程も述べたように、別個のものではなく、もともとは共通した性質をもっていたと考えられています。

画像40

音に色を感じたり、味に形を感じたりする知覚現象のことは「共感覚」といわれていますが、「共感覚」までいかなくても、たとえば、料理を「美味しい」と味覚で感じるためには、色彩や香り、食感といった要素が深く関係しています。

このことからも分かるように、五つの感覚はバラバラで独立しているのではなく、相互的であることは最低限覚えておいていただきたいと思います。


 五感は、感覚器の性質によってそれぞれ違って感じられますが、もともとは共通の性質を持っていた可能性があります。

 そのことを教えてくれるのが、「共感覚」という心理現象です。

 共感覚というのは、味覚対象(食べつつあるもの)が視覚性感覚として感じられる、あるいは聴覚対象(聞こえつつあるもの)が視覚性感覚として感じられる、などという経験です。

(山鳥重『「気づく」とはどういうことか こころと神経の科学』 p52~53)


また、感覚は基本的に五つだとされていますが、「内臓感覚」に代表されるように、日々の生活においては、お腹のあたりで、言葉にはしにくい何ともいえない感覚を覚えることが、何度かあります。

たとえば妙な胸騒ぎ(不吉な予感)がするなど、理屈では説明できないような嫌な感覚が生じてきた場合は、常識ではなく直観に従って行動することも時に必要になりますが、感覚には「第六感」という働きもあるとされているように、感覚は単純に五つに分類できるものではないと思われます。


さらに、味や匂い、音、見る対象としての物などは、どうしても自分の外部にあると感じられますが、それらを感じるのは、「脳」というよりも、自分の感覚器を含めた「身体」であるため、外の環境からではなく自分の内側からやってくる感覚を心地よいものとして大切にする必要もあります。

つまり「五感」に気づくことは、内側から来る「身体感覚」を養うことでもあるのです。


このことに関して、「野口体操」の創始者である野口三千三氏は、『原初生命体としての人間』のなかで、「感覚の本質とするものは、むしろ自分の内側に向かうもの、すなわち内界の情報を受容することにある」と指摘しているのは興味深い点です。


 一般に五感と呼んでいる基礎感覚の「視・聴・嗅・味・触」は、主として外界の情報を受け容れるものである。そのために感覚とは自分の「外界に向かっているもの」という強い先入観ができている。私は感覚の本質とするものは、むしろ自分の内側に向かうもの、すなわち内界の情報を受容することにあると思う。自分自身とは、皮膚をふくめてその内側の中身だからである。中身の状態を知ることが先ずあって、はじめて、自分が生きるために必要な好ましい対象を外界に見つけて、それに接近し、それを取り入れ、生きるために好ましくない対象を外界に見つけて、それから遠ざかる生の営みが行なわれる。

(野口三千三『原初生命体としての人間』 岩波現代文庫 p260)


そのほか、冒頭で<いのち>を感じられないのは視覚優位の社会が関係しているかもしれないとほのめかしましたが、これまで自分が知らなかったことを知り、自分にとっての世界を拡張するという意味では、遠くの世界を捉えられる視覚は有効なのかもしれません。

しかし、<今・ここ>に生きることを楽しむという意味合いでは、視覚だけではなく、味覚や触覚も重要になってくるように思われます。


実際、毎日忙しい生活を送っていると、香りも含め、料理の味をじっくりと味わったり、普段、何気なく触れているものの感触を確かめたりする経験も減ってしまうように感じられます。


 知識の獲得、あるいは知ることを楽しむという点を基準にするなら、視覚が最上位にくるだろうし、それに続いて聴覚、そして触覚が続き、嗅覚や味覚は最上位におかれるだろう。それに対して、生きることを実現し、生きることを楽しむという点を基準にするなら、味覚が最上位にきて、嗅覚そして触覚が続き、聴覚や視覚は最下位におかれることになるだろう。

(村田純一『味わいの現象学』 ぷねうま社 p307)


ですが、「通常ではつい見逃されがちな刺激(物音,風景,体感など)に対する知覚がマインドフルネスによって高まる」(大谷彰『マインドフルネス入門講義』)とされているように、普段からマインドフルネス瞑想を実践することによって、これまで意識することが少なかった、味覚や嗅覚、触覚などの感覚に対して、気づきの機会が増えることは十分に考えられるのです。


感覚とは何か?

画像41

ところで「感覚」とは何でしょうか?

「感覚」についての説明は最小限に止めますが、私たちに感覚器が備わっている理由は、第一に「環境の変化や世界の違いを知るため」だと考えられます。

舌や手、皮膚など、触覚に該当するものは、近くのものを感じるためのものであり、眼や耳は、進化の過程で、より遠くのものを知覚するために発達してきたと考えられています。匂いを感じる鼻は、その中間です。


そして、色や音、香りなどを感じとるために重要な役割を果たしているのは、脳と神経です。


感覚器と運動器(骨格と筋肉)の間にある神経と脳は、感じとった情報を伝え(神経系)、情報を分析し、判断したり指令を出したりする働き(脳)をしています(参考 布施英利『人体 5億年の記憶 解剖学者・三木成夫の世界』)。

もし臭い匂いを感じたらとっさに鼻をつまみますし、聞こえてきた音が耳障りな音だったり、うるさすぎたりしたら、思わず両手で耳を塞ぎますが、とっさにこのような行動をとってしまうのは、神経系を通じて情報が脳に伝わり、脳が骨や筋肉といった運動器に、危険を回避するための指令を伝えているからなのです。


 神経系は、内臓の調整にも働きますが、そのもっとも重要な機能は行動の制御です。外の世界の変化を感覚器(目・耳・鼻・舌・皮膚など)で検出し、神経系を介して、運動(四肢・顔面・軀幹の筋など)を動かすことです。

 動物の進化に従って神経系も進化し、その機能はわれわれの想像を絶する複雑さを備えるようになりました。この複雑な神経系がこころを生み出した、と考えられます。

(山鳥重『「気づく」とはどういうことか こころと神経の科学』 p33)


五感に気づくためのマインドフルネス瞑想実践。

画像36

ではここから、五感に気づくためにはどうすれば良いのか、具体的なマインドフルネス瞑想の実践方法について、述べていきたいと思います。

まず、マインドフルネス瞑想で大切なのは、過去や未来ではなく、現在(いま)の瞬間に100%意識を集中させ、「好き/嫌い」「良い/悪い」「正しい/間違っている」といった主観的な判断を加えずに、ただ気づくようにするということです。


たとえば、ケン・ヴェルニ氏は、【マインドフルネス】とは何かについて、以下のように述べています。

■過去や未来にとらわれず、「今この瞬間」に生きること

■感覚にとらわれることなく、感じているものごとに「気づく」こと

■感じていることや失敗したことによって自分を判断するのではなく、「ありのまま」の自分を確認すること

■あらゆるものに対して幸福を感じられるようにする手段

(『図解 マインドフルネス』 ケン・ヴェルニ 著 中野信子 監訳 医道の日本社 p10)


また、吉田昌生氏の『1分間瞑想法』のなかでは、マインドフルネスについて以下のように述べられています。

 マインドフルネスは、簡単に言うと、「今、ここ」にある練習です。

 あなたの思考が、未来や過去にさまよっていることに気づいたら、今この瞬間に意識を向けていきます。

 私たちは「今、ここ」にあるときと、「今、ここ」にないときがあります。というより、「今、ここ」にある時間より、未来のことを考えているか、過去のことを思い出していることがほとんどであることに気づくかもしれません。

 マインドフルネスは繰り返し繰り返し、「今、ここ」に意識を向けていき、「今、ここ」にある時間を増やしていく取り組みです。

(吉田昌生『1分間瞑想法』p46)


マインドフルネス瞑想の基本的なやり方・方法。

画像42

マインドフルネス瞑想の基本的なやり方は、背筋を伸ばし、座った姿勢で、呼吸を繰り返しながら、自分のいまの心の状態を注意深く観察していくことです。


最初のうちは目を閉じ、無理に「正しく呼吸しなくちゃ」と焦らず、自分のペースで気持ち良く呼吸を行うことが大切になってきます。

しばらくの間、自然に呼吸をしながら気息の流れを観察してみてください。

そして、呼吸をしながら、聞こえてくる音や漂ってくる匂い、お尻のあたりの身体感覚など、心に生じてくる様々な感覚に、ただ気づいてみてください。


もし、ゆったりと呼吸したくても、頭の中に様々な想念や雑念がしきりに浮かんできてしまう場合は、呼吸の流れを言葉で実況中継してみることがオススメです。

息を吸う際に、空気が鼻腔のあたりを通り抜けていくのを感じながら、

「吸います、吸います、吸います」


また、鼻のちょうど下あたりで吐く息を感じながら、

「吐きます、吐きます、吐きます」

と実況中継すると、現在の時間に集中しやすくなります。


最初のうちは、だんだん退屈して気が散ってきますので、集中力が途切れたら、今度は腹部に手を当てて、お腹の動きを感じながら、「ふくらみ、ふくらみ、ふくらみ」、「ちぢみ、ちぢみ、ちぢみ」と実況中継していきます。


マインドフルネス瞑想のやり方のポイント

画像43

☆身体の力を抜いて楽な気持ちになる。

☆気持ちよく背筋を伸ばす。

☆正しい呼吸をしようとせず、自然な呼吸にただ気づくようにする。

☆「いま」に意識を集中し、現在の時間を実況中継する。

☆判断を中立にする(心をニュートラルにする)。

☆雑念にとらわれたら、「雑念、雑念、雑念」とサティ(気づき)の言葉を入れる。

☆スマホなどの情報機器から離れ、瞑想のための時間をしっかりと取る。

(なお、もし何らかの病気や疾患を抱えているという方は、マインドフルネス瞑想の実践は、かかりつけの医師やマインドフルネスの専門家の指示を仰いでからにしてください。)


ここまで簡単にマインドフルネス瞑想のやり方をご説明しましたが、私が考える【五感に気づくためのマインドフルネス瞑想】で共通しているのは、時間に追われてばかりで、いつもせわしない現代社会においては、五感に気づく機会が少なくなってきているため、大切なのは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚というそれぞれの感覚があることにまず気づいてみるということです。


眼を使って周囲を見渡し、見ているということに気づく。

耳を使って身の回りの音を聴き、聴いていることに気づく。

鼻を使って辺りにある香り・匂いをかぎ、嗅いでいることに気づく。

舌を使って食べ物や飲み物を味わい、味わっていることに気づく。

手を使って物や自分のからだを触り、触っていることに気づく。


視覚・見ていることに気づくためのマインドフルネス。

画像29

現代の情報社会においては、TVはもちろんのこと、インターネット上のSNSにおける画像や動画など、視ることに一日の多くの時間が費やされてれているように思います。

しかし、たとえば「テレビ」の語義は、「tele-vision」で「遠くを見る事」なのであり、テレビやスマホの画面を眺めているあいだは、遠くを見る代わりに、「今・ここ」という瞬間は遠ざかってしまっているのです。


また、私たちは何か物やテレビの映像などを見ているときは、客観的に見ているようで、かなり主観的に見ている場合が多いといえます。

画像44

具体的には、「好き・嫌い」などの判断を基に、自分にとって重要なものや必要なものだけを、選択的に見ている可能性が高いということです。


たとえばテレビ番組に出演しているアイドルグループを眺めているとき、最初に焦点を当てて眺めるのは、自分が一番好きなメンバーであることはよくあることだと思いますが、そのとき、ほかのメンバーは同じ場所にいて、視界に入っているにも関わらず、ほとんど見てはいない可能性は高いのです。

また、「木を見て森を見ず」ではないですが、コンビニエンスストアやスーパーマーケットに行った時は、売り場に数え切れない程の商品が並んでいたとしても、自分が買おうとしている目的の商品しか基本的に目に入らないものです。


「見ている」ことを意識しながら、普段、当たり前すぎて見ていないものを見るようにする。

画像45

したがって、日常生活のなかで、見ていることに気づくワークとしては、まぶたを閉じたあとにまぶたを開けてみることが挙げられます。

一度まぶたを閉じると、目の前には暗闇が拡がりますが、その暗闇をしばらく見つめたあと、再びまぶたを開けると、改めて現実世界が目の前に現れます。


そしてその時に、「見ている」ということを意識しながら、周囲を眺め、当たり前すぎて、普段あえて意識することがなかった物が「ある」ことに気づいてみてください。


さらに、食器や家具など、日頃から見慣れているものであっても、「色」や「光」の当たり方、「かたち」といった観点から、注意深く観察してみると、いつも自分がいる世界が違って見えてきます。

そのほか、<世界>に対していつもと違った見方をするために、時々美術館に足を運んで、アートを鑑賞する習慣をもってみるのもオススメです。

画像46


眼を使って目の前を見て、見ていることに気づきながら、(「きれい/きたない」「好き/嫌い」)などの主観的判断をせずに)

「見ています、見ています、見ています」

もしくは、

(視覚によって)「感じています、感じています、感じています」

と言葉にしてみる。


聴覚・音を聴くことのマインドフルネス。

画像28

ふと耳を澄ましてみると、日常には様々な音があることに気づかされます。

自然のなかに身を置けば、鳥や虫の声が聞こえてきますし、街の中を歩いていれば、風の音や、足音、人々の話し声、自動車のエンジン音など、時にわずらわしい・やかましいと感じる騒音も含め、360度、たくさんの音で溢れ返っていることに気づきます。


また、ヒーリングミュージックや音楽療法などがあることから分かるように、音楽や歌、踊り・ダンスなどは、人類の始原から受け継がれてきた貴重な文化であり、意識的であれ、無意識的であれ、音や声によって人はストレスを解消したり、癒されたりしている側面は大きいといえます。


さらに海から聴こえてくる波の音や、川のせせらぎ音といった自然音がもつ幅の広い周波数には、CDから聞こえる音とは格段に違ったリラックス効果やストレス解消効果が期待できます。

反対に警報のためのサイレンや叫び声などの甲高い声を聞くと、つい耳を塞ぎたくなってしまいますが、(良い・悪いを含め)音の周波数が私たちの心身に影響を与えているのも確かです。


ただ音を聴くためのレッスン。

画像30

このように、私たちは音に囲まれて生活しているわけですが、マインドフルネス瞑想によって音を感じるためには、第一に、身のまわりの音に対して、注意深く耳を澄ますようにすることが大切です。


そういうわけで、ここでは音を聴くためのマインドフルネス瞑想として、吉田昌生氏の『1分間瞑想法』(フォレスト出版)から、「聴覚瞑想」をご紹介したいと思います。

1.注意を音に向ける
2.近くの音に耳を澄ます
3.遠くの音の音に耳を澄ます
4.音と音の間にある静寂にも耳を澄ます

 コツは、今この瞬間の音にすべての注意を向けることです。そして、聞こえてくる音を判断せず、快不快に分けたり、分析したりしないで、あるのまま受信してみましょう。

 空気の振動のみを感じとり、鼓膜だけでなく、身体全体で音を感じとってみてください。

(吉田昌生『1分間瞑想法』 p60~61)


大切なのは、ただ<音>に耳を澄ますこと。

画像31

たとえば近くの公園でマインドフルネス瞑想を実践している時に、大声で騒いでいる子供のはしゃぐ声が聞こえてきたり、大音量でアナウンスする選挙カーが近くの道路を通ったりしたら、瞑想が妨げられて、つい「うるさい」と思ってしまいます。

ですが、「うるさい」「やかましい」という思いが心に浮かんでくると、主観的な判断が加わってしまうことになるため、たとえイヤな音だと感じたとしても、「音、音、音」とラベリングすることで、音自体を客観的に観察するようにしてください。


(「うるさい」「いやな音」など主観的な判断をせずに)

「聴いています、聴いています、聴いています」

「音、音、音」

と実況中継する。


<嗅覚>匂いを嗅ぐためのマインドフルネス。

画像23

近年は、汗の匂いや「体臭」などがイヤな臭いとされて嫌われ、すぐに「消臭」する世の中になっているような気がしますが、匂いに関しては、常に感じているわけではなく、日常生活においては、いい香りもイヤな臭いも、ふとした瞬間にフッと漂ってくるのを感じるのではないでしょうか?


たとえば、秋の季節に漂ってきた金木犀(きんもくせい)の香りや、喫茶店に入った時に感じられるコーヒーの香りも、時間が経つにつれて次第に気にならなくなります。

しかし、匂いを感じ続けることは難しいとしても、匂いは常に私たちの生活に彩(いろど)りや味わいを与えているのだと考えられます。


このことは例えば、風邪を引いて鼻が詰まっているときに食事をすると、料理の味がいつもより感じにくくなることからも分かります。

画像24

また、嗅覚は危険を回避するためのセンサーでもあるため、思わず鼻をつまんでしまうような嫌な臭いをすぐに感じ取れるようになるということは、毒性の化学物質を吸い込んでしまう危険を回避することにつながります。


そのため、嗅覚を少しでも敏感にするためには、日頃から意識的に匂い・香りを感じてみるようにするのがオススメです。

たとえば、街中を歩いている時、呼吸する際に、なるべく匂いを感じ取るつもりで、鼻腔のあたりに意識を集中させると、嗅覚が敏感になります。


 匂いのマインドフルネスを練習していると、自分の周囲にじつにさまざまな香りが存在するのだと気づかされます。明らかなもの(コーヒー、シナモンロール、ガソリン、スカンクなど)も、ごくかすかなものも(戸外に出たときの新鮮な空気の匂い、自分の顔の石鹸やシェービングクリームの香り、洗い立ての匂いなど)もあります。また、匂いが感傷、欲求、嫌悪などを呼び覚ますことにも気づきます。

(ジャン・チョーズン・ベイズ『「今、ここ」に意識を集中する練習 心を強く、やわらかくする「マインドフルネス」入門』 高橋由紀子 訳 日本実業出版社 p168)


アロマオイルやお香で香りの変化を感じる。

画像22

また、お気に入りのアロマオイルを見つけて、布に数滴垂らしたり、お香を燻(くゆ)らせたりするだけで、香りによって何気ない日常生活に変化が感じられるようになります。

そのため、アロマオイルやお香などの使用は、匂いというものをライフスタイルの一部にすることで、嗅覚をあえて意識するためにオススメです。


匂いを嗅ぎながら、

「嗅いでいます、嗅いでいます、嗅いでいます」

「感じています、感じています、感じています」

と実況中継する。


<味覚>食べ物を味わうためのマインドフルネス。

画像17

現代は「飢餓」よりも「飽食」の時代と呼ばれ、一度食べたらやめられなくなるような、化学調味料による刺激的な味付けがなされている食品がありふれています。

ところが、コンビニエンスストアやスーパーマーケットで食べ物をすぐに便利に購入できるようになった一方で、「食べる」ということをあえて意識したり、食べる事の意味を考えたりする機会は減っていっているのではないでしょうか?


そのため、味覚をマインドフルに感じるためにすべきことは、生きる糧(かて)としての食べ物があることに感謝するとともに、ゆっくりと味わうことです。

画像20

もちろん、そうしたくても、毎日仕事で忙しく、時間に追われてばかりで、食べ物をじっくりと味わう暇がないという方は多くいらっしゃると思います。

しかし、通学や出勤前は時間の余裕がないとしても、休日や、比較的時間に余裕がある夕食の機会を利用して、食べ物の風味をマインドフルに感じられるようトレーニングすることはできます。

たとえば、ジョン・カバットジン『マインドフルネスストレス低減法』の中では、食べる瞑想に関して、一粒のレーズンが用いられ、時間をかけて十分に噛み、感触を確かめながらのみ込むようにすることが推奨されています。


ですが、レーズンを用意しなくても、どんな食材であれ、ひとくち口のなかに入れるたび、舌に意識を集中させ、ご飯でもお米の一粒一粒よく咀嚼し、味だけではなく香りも含めた風味と食感を楽しむようにすることが出来ます。

このことに関しては、瞑想講師のジャン・チョーズン・ベイズ氏が『「今、ここ」に意識を集中する練習』のなかで述べている通り、食べることに専念する事が大切で、テレビを見ながらや、スマートフォンを側に置きながら、といった「ながら行為」が当たり前の食事では、「食べること」を意識することは難しいのです。


 食べ物にまったく注意を払っていなければ、その食べ物がそこにないも同然です。お皿にあるものすべてを平らげても、まだ満たされない思いが残ります。すると、さらに食べ続けてしまい、お腹が苦しくなるまで止められません。

 マインドフルに気持ちを込めながら食べれば、たとえひと口でも、食べることが豊かで多彩なものになります。

(ジャン・チョーズン・ベイズ『「今、ここ」に意識を集中する練習 心を強く、やわらかくする「マインドフルネス」入門』 高橋由紀子 訳 日本実業出版社 p59)


そのため、食事の際は、テレビを消し、目を閉じ、口のなかに意識を向けて、食べる事の瞬間や喜びを味わうようにしてみてください。


食べ物に感謝するための「半日断食」で幸福感を感じる。

画像18

また、先程現代は「飽食」の時代だと述べましたが、動物や植物の命をいただいているという意味で「食べ物」のありがたみを感じたり、一回の食事に感謝の気持ちを持ったりするためには、時々、半日程度、断食(ファスティング)の期間を設けてみることもオススメです。


程よく空腹を感じたあとに、お菓子などの加工品ではなく、野菜や果物などの素材を活かした料理を口にすれば、いのちが喜ぶような、いつもとは違った幸福感や満足感が心に拡がりますし、このような普段から食べ過ぎないような習慣をもつことは、肥満解消やダイエットにもつながっていきます。


 過去のことを考えたり先のことを心配したりして、心がどこかほかのところにいっていると、食べ物の味は半分もわかりません。意識を口のなかに向け、その瞬間に心を置いて、ゆっくりとひと口ずつ食べれば、それぞれが最初のひと口と同じように豊かな味わい深いものになります。生活のなかにある無数の「小さな瞬間」に気持ちを込めることによって、今を生きる喜びが花開くのです。

(ジャン・チョーズン・ベイズ『「今、ここ」に意識を集中する練習 心を強く、やわらかくする「マインドフルネス」入門』 高橋由紀子 訳 日本実業出版社 p141)


目を閉じ、舌や口のなかに100%意識を向け、食べることの喜びを味わうようにして、

「食べています、食べています、食べています」

(味を)「感じています、感じています、感じています」

と実況中継する。


<触覚>触れるためのマインドフルネス。

画像21

外と内の境界であり、「第三の脳」ともいわれる皮膚の感覚は、<快>や<不快>など、わたしたち人間の心のあり方と深く関わっており、<いのち>に触れるという意味合いでも、皮膚や触覚は非常に重要な役割を果たしています。

そのため、普段使いなれている道具などを含め、何かに触れるたび、皮膚に与えられた感覚をじっくりと確かめるようにすることは大切です。


さらに、触覚によって<いのち>を感じるためにすぐに行えるのは何かといえば、自分の手の感覚に意識を集中させながら、胸のあたりに手を当ててみることです。

そして、しばらくのあいだ、手のひらを通して心臓の鼓動を感じてみることです。


もしくは、胸の前で合掌して、手のひらと手のひらの間から感じられる暖かみをしばらく感じてみてください。


画像47

また、家族や友人、恋人とスキンシップを行ない、手をつなぐことなどによって気軽にいのちのぬくもりを感じ合うことが出来ればそれに越したことはありません。

ですが、すぐにハグしあう欧米人と比べると、日本人はスキンシップによるコミュニケーションが苦手だといわれています。


画像49

したがって、肌と肌をくっつけることに何となくためらいが生じたり、スキンシップをする相手がいなかったりする場合は、犬や猫などの動物に触れることでいのちの温もりを感じてみるのもオススメです。


画像48

ほかにも、顔や腕など、皮膚の感覚に意識を向け、外出した際に、時々吹きつけてくる風や日差しの暖かみを感じるようにするのも、触覚に気づくためのトレーニングとして最適ですし、普段から、シルク(絹)など肌触りのよい衣類を身につけるようにすることも、心地よい皮膚感覚を感じることにつながります。


歩きながらのマインドフルネスで足裏感覚を養う。

画像15

そのほか、スニーカーなどなるべく靴底が薄い靴を履き、足裏の感覚を意識しながら、でこぼこした道を歩くようにすることは、地面や大地に触れている感覚に気づくためのトレーニングとして最適です。


まず歩く時、片足を上げた際には、

「上げます、上げます、上げます」

足を下ろす時には、

「下げます、下げます、下げます」

と、頭の中で実況中継するようにします。


そして、足の裏をゆっくりと地面に着け、足裏感覚を確認できたら、

「感じています、感じています、感じています」

と気づき(サティ)の実況中継を行ないます。


そうしたら、次はもう片方の足をゆっくりと上げていき、足裏が地面から離れていく感覚を意識しつつ、再び先程と同じように、「上げます、上げます、上げます」、足を下ろす時には、「下げます、下げます、下げます」と、実況中継していきます。


毎日忙しすぎるあまり、気持ちが前のめりになっていると自分で感じている方は、いつもよりゆっくりと歩くことを心がけてみてください。


またこの歩きながら行う<歩行瞑想>を自宅で実践する場合は、人の目を気にする必要はないので、裸足になり、かかとやつま先なども含めた足裏感覚に意識を集中させながら、なるべくスローな速度で歩いてみるのがオススメです。


そのほか、散歩やウォーキングを行っている際であれば、歩いている間に、足裏の感覚に意識を集中させ、地面に右足が着いたら「右、右、右」、左足が着いたら「左、左、左」と実況中継することで応用が可能です。


  足の裏のかすかな知覚を意識すると、常に移り変わる知覚の流れが心に満たされ、思考が入り込むすきがなくなる、ということがわかります。頭でっかちが解消され、どっしり根を下ろした感じがして、思考や感情に振り回されないようになります。足の裏まで意識を下ろしていくと、心がすっきりとして、不安が晴れていくのが感じられます。

(ジャン・チョーズン・ベイズ『「今、ここ」に意識を集中する練習 心を強く、やわらかくする「マインドフルネス」入門』 高橋由紀子 訳 日本実業出版社 p132)


「いのち」のぬくもりに触れたり、皮膚にあたる風を感じたり、でこぼした道を歩いたりしながら、

「触れています、触れています、触れています」

(いのちあるゆえに)「感じています、感じています、感じています」

と言葉によって実況中継してみる。


「身体」があるからこそ五感によって<世界>を感じとることができる。

画像14

ここまで五感によるマインドフルネス瞑想のやり方について述べてきましたが、「五感」のちからを甦らせるには、「身体」というものの存在が重要になってきます。

しかし「身体」というと、どのような形や姿をイメージするでしょうか?


たとえば整体師やヨガのインストラクター、武術家など、からだを専門に扱う職業に就いていない限り、たいていの場合は、眼で見た一般的な体の形を思い浮かべるのかもしれません。

画像50

ですが、実際の「身体」は視覚だけでは捉えられないものなのであり、変化に富んだ<自然>と同様、「頭」による思考の常に先を行くものなのです。


 頭で体をコントロールする。それが生きることだと私たちは思い込んでいる。それでも台風のような自然現象に出くわすとき、ふと気づく。私たちの体も本当は制御できない自然の側に属するのだということに。体が嵐のように吹き荒れ、たかぶるときもあれば、穏やかなときもある。それは思いや考えの外にある現実そのものと言える。

(尹雄大『体の知性を取り戻す』 講談社現代新書 p38)


画像25

この<身体>というものと感覚に関して、たとえば村田純一氏は、『味わいの現象学』のなかで、「身体は根源的に、触覚を中核に含むマルチモーダルな相互感覚物」だと述べていますが、様々な感覚をマルチモーダル(多感覚的・相互感覚的)に感じとれるのは、「身体」があるゆえだと考えられます。


 身体といえば、最初に思い浮かべるのは、多くの場合、四肢を備えた姿であろう。そして、身体を見るという場合、視覚に現れるのはかたちや大きさ、色などを備えた姿である。しかし、視覚に現れた姿のみでは、身体は物体と変わりがないあり方をしているのであり、身体が身体たるゆえんを見て取ることはできない。身体が身体たるゆえんを作っているのは触覚であり、触覚と不可分な自己受容感覚なのだ。(略)この意味で、身体は根源的に、触覚を中核に含むマルチモーダルな相互感覚物なのである。

(村田純一『味わいの現象学』 ぷねうま社 p265)


身体を使ったゆっくりとした運動で<からだ>の変化に気づく。

画像13

そのため、視覚だけによるのではない<身体>があることを体感するためには、ランニングやサイクリングといった有酸素運動よりも、ゆっくりとした運動によって、普段、感じる機会が少ない体の部分に、気づいてみる必要があります。

一方、一日中、デスクワークをしたり、パソコンやスマホを操作したりしていると、肩や首が凝るだけではなく、決まった動作しか出来ず、身体にいつもとは違った変化がもたらされにくくなります。


画像51

したがって、自分の<身体>に気づくことに関心がある方は、まずはヨガやストレッチ、体操といった運動のなかから、自分が毎日続けやすいと思うエクササイズを見つけてみてください。


そして、ねじる、そる、伸ばすなどの動きを、今・ここに注意を集中させながら、ゆっくりと行い、肩やひじ、ひざや足首など、自分の身体の様々な部分に起きている小さな変化を感じとるようにしてみてください。


画像19

その際、大切なことは、無理に正しいポーズを取ることを目的にせず、瞬間・瞬間に注意を向けながら、穏やかにからだを動かすことです。


また、競争しようとはせず、自分のからだを優しくいたわるようにしながら、硬くなっている体を動かすことで生じる痛みも少しくらいは受け容れるつもりで、からだの変化に注意を向けてみてください。


もしこれまでとは違ったかたちで、自分自身のからだを感じとれるようになってきたら、さらにそこから、整体や太極拳、気功、ピラティス、アレクサンダーテクニーク、野口体操やきくち体操など、身体を感じることができる運動を本格的に始めてみるのもオススメです。


 自分の持ち前の能力をただ表現すればいい。そういうふうに努力なく生きることを私たちは信じられない。けれども、生命の根幹にあるのは何かと言えば、感じることであり、それがこの世界を生き抜く、汲めども尽きせぬ源泉になっている。これは努力なしに始まった、あらかじめ私たちにインストールされた能力だ。

(尹雄大『体の知性を取り戻す』 講談社現代新書 p163)


「ボディ・スキャン」によるマインドフルネスで「身体」があることに気づく。

画像11

そのほか、マインドフルネスによって身体があることに気づく方法としては、「ボディ・スキャン」というものがあります。

このボディスキャンとは、ジョン・カバットジン『マインドフルネスストレス低減法』に詳しいですが、左足に始まり、呼吸を行ないながら、身体の部位に注意を向け、細かく観察していくことです。


まずは床やベッドに仰向けになり、余計な力を抜きます。目は閉じても開いても構いません。閉じていたほうが身体の感覚に注意を向けやすいですが、目を閉じているとそのまま眠ってしまうという方は、開いたまま行ってみてください。

自然に呼吸を行なったあと、<からだがあること>を確認し、普段何気なく行っている頭による思考から離れるつもりで、注意を左足の指に向けます。


そして、呼吸を何回か繰り返しながら、左足の指の感覚を感じとるようにします。そして30秒を目安にじゅうぶんに感覚を感じとったら、


踵(かかと)
足首

ひざ
太もも

へと、同じように呼吸を繰り返しながら進んでいき、骨盤へ達したら、次に右足に移り、同様に、ひとつひとつの部位を注意深く観察していきます。


さらに、


腹部
背中





といったように、やはり呼吸を繰り返しながら、身体の部位の感覚を丁寧に観察していきます。


もしボディスキャンの間に、からだの部位に痛みや痒みを感じたら、無理に痛みや痒みを止めようとしたり、逃れようとしたりせずに、ただ受け容れ、観察しようと努めることが大切になってきます。

また、ボディスキャン中に、注意が散漫になったら、最初の呼吸の観察に戻ってください。


ボディスキャンによるマインドフルネスを実践する際の注意点。

画像12

このボディスキャンによるマインドフルネスは、まずは1回につき30分を目安に、1日1回、週に3、4日程度行ってみてください。

しかし、ここでご紹介した内容は、身体の部位の分類がかなり大ざっぱですので、実践を続けて慣れてきたら、たとえば足の裏だったら土踏まずや指の付け根の部分、顔だったらこめかみや頬、額、眉間など、より精密に細かく、身体の各部位に注意を向けてみてください。


なお、病気や何らかの疾患、重度のトラウマなどを抱えている場合は、からだに注意を向けるボディスキャンを行うことによって、痛みやかゆみなどの症状がひどくなったり、抑圧していた記憶が甦ってきたりすることが考えられます。

そのため、からだの病気や怪我、精神疾患などを抱えている方は、ご自身でボディスキャンは行なわず、もし行いたい場合は、必ず専門家の指導のもとで行ってください。


マインドフルネス×森林浴は五感を活かすための総合実践。

画像8

都会での生活とは正反対に、五感を活かすことができるのは、自然のなかで行う森林浴です。

というのは、パソコンやスマホから離れ、自然のなかを現在(いま)に集中してゆっくりと歩くだけで、五感に気づきやすくなるからです。


視覚・・・自然の様々な変化や移ろい、色、光の当たり方などを注意深く観察するようにする。

聴覚・・・風の音や葉擦れの音、鳥、虫の鳴き声、小川の水が流れる音などを感じるようにする。

嗅覚・・・木々や花々、風、土の香りを感じるようにする。

触覚・・・手で樹の幹や土の感触を確かめてみる。また、足元に注意しながら、でこぼこの道を歩くたび足裏感覚を意識する。

味覚・・・自然のなかでゆっくりと味わうことで、飲み物や食べ物のいつもとは違った風味を感じる。


森林浴×マインドフルネス瞑想ならば、慢性的なストレスからも解放される。

画像9

また、自然のなかを散策することは、五感を養うことだけではなく、身体感覚や空間把握能力を鍛えることにもつながっていきます。

ぜひ、森林浴や自然散策を行っている間は、五感を研ぎ澄まし、自然そのもの=今の瞬間を感じることに集中してみてください。


ちなみにマインドフルネス瞑想や森林浴には、ストレスを低減する効果があるとされており、森林浴とマインドフルネス瞑想をうまく組み合わせるだけで、仕事や人間関係による慢性的なストレスから解放され、心身ともに爽快な気分になり、かなりのリラックス効果も得られます。


原始仏教の教えとは、感覚によって世界をダイレクトに感じること。

画像37

最後にマインドフルネス瞑想が、五感によっていのちに気づくことと、どう関わってくるのかについて述べたいと思います。

近頃、雑誌やテレビ番組などで、「マインドフルネス」が特集されると、よくマインドフルネス(Mindfulness)は科学的な手法に基づき、宗教とは無関係だと説明されていることが多いですが、そもそもアメリカから入ってきた「マインドフルネス」の起源はブッダ(釈尊)と原始仏教にあるのです。


日本では仏教の瞑想というと、中国から入ってきた「禅」を想起してしまいますが、東南アジアに拡がっているテーラワーダ仏教で実践されているのは、「ブッダの瞑想法」である「ヴィパッサナー瞑想」です。

この「ヴィパッサナー瞑想」とは、大ざっぱに説明すると、身体の動きや心の流れのあるがままを、丁寧に観察し、瞬間瞬間に気づき、そのつど、言葉によるラベリングをしながら、現在を実況中継していくという瞑想法です。

この時大切になるのは、マインドフルネスの実践と同様、思考や(好きや嫌いなどの)主観的判断を介さずに行うということです。


それゆえ、およそ2500年前に生まれた仏教の教えは、何でも頭で考えすぎてしまう今の情報社会とは正反対の、五感をフルに活かして世界を感じとるためのもの、なのだと言えるかもしれないのです。


般若心経はいのちを体感するためのお経だった。

画像7

先程、マインドフルネスの源流は仏教にあると述べましたが、五感によって「いのち」に気づくとはどういうことかについて説明されているのは、日本でもスタンダードなお経である「般若心経」です。


「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空」(かんじーざーぼーじーはんにゃーはーらーみーたーじーしょーけんごーうんかいくう)

から始まる「般若心経」は「無」と「空」を混同するなど、正しくお釈迦さまの教えを伝えているとはいえないのですが、般若心経のなかにでてくる「色即是空」の意味をある程度理解したうえで毎日唱えるようにすることは、「いのち」を感じるために有効だと思われます。


実際、僧侶で作家でもある玄侑宗久住職は、『現代語訳 般若心経』(ちくま新書)のなかで以下のように述べています。

 『般若心経』、とりわけあの咒文の部分を唱えていて最近私が感じるのは、「再生」あるいは「再出発」の喜びのようなものである。いつからということもなく、とにかくあれを唱えるそのたびに「再出発」する気分になる。むろんそのような言葉で思うのではなく、ふつふつと「いのち」に湧きあがる実感として感じるのだ。

(玄侑宗久『現代語訳 般若心経』 ちくま新書 p218)


「色即是空」の意味とは?

画像6

では、「色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」とあるように、般若心経が説く「色即是空」とは、一体何を意味するのでしょうか?

まず、「色」とは一般的には物質もしくは「物質的現象」のことを指しますが、仏教的にいえば、「色」とは「五蘊」(ごうん)のことです。


その「五蘊」とは何かといえば、

「私たちの身心を構成する五つの集まり」である「色、受、想、行、識」のことです。(参考 玄侑宗久『現代語訳 般若心経』 p28)


般若心経には「無色無受想行識」とありますが、この「色・受・想・行・識」とは、分かりやすく言えば、身の回りにある様々なものを私たちが認識するまでのプロセスのことです。

たとえば、遙か遠くのぼんやりとした人影のようなものとの距離が縮まるにつれて、その正体が、昔の友人であることに気づく、といったようなことです。

もしくは、ふと足の甲にある赤みに気づき、よく見たら蚊に刺された跡だった、といったことです。


ちなみに、ここでいう五蘊の「色」は、「色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)」という六境のうちの「色」とは違います。

画像51

般若心経には「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」とありますが、この六境は、「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)」という六根に対応しています。


つまり、五蘊の「色」は物質的現象のことを指しましたが、六境でいう「色」とは、視覚のことを指すのです。

また、六根・六境とは、大まかにいえば、五感と心の働き(意・法)のことだと説明できます。


物質的現象である「色」をあるがままに捉えるのは難しい。

画像52

先程、「色即是空」の「色」とは「五蘊」のことだと述べましたが、大ざっぱにいえば、「色」とは、私たちが普段捉えている現実の姿(世界像)といっても良いかもしれません。


たとえば玄侑宗久氏は『現代語訳 般若心経』のなかで、

「「色」というのは、六境と六根が出逢い、感覚器と脳とで把握した現象のこと」

と述べています。


しかし、間違ってはいけないのは、私たちは物質的現象としての「色」をそのまま「色」として受けとっているわけではないということです。


つまり、物質としての色を、感覚器が情報として受け取ったとしても、神経系を通じて脳に伝えられた段階で、経験や記憶などをもとにして編集が加えられてしまうのです(「想「行」「識」)。

そのため、たとえばリンゴ農家の木村さんとリンゴがあまり好きではない消費者の佐藤さんが、目の前の机の上にある同じリンゴを眺めていたとしても、現象としてのリンゴの捉え方は、それぞれ違ってきます。

また、感覚器が人間と違う生物からすれば、人間が認識しているリンゴの姿・形は、まったく違うものとして捉えられていることは言うまでもありません。


すなわち、「感覚器と脳とで把握した現象のこと」である「色」は、

「受⇒想⇒行⇒識」

というプロセスを経ることで、誰にとっても同じものであるわけではなくなる、ということなのです。


そして肝心の「色即是空」とは、物質的現象である「色」は、「空」であり、すなわち「実体はない」ということなのです。

しかし「実体はない」といっても、ただ単に「無」であるわけではなく、「無」であり「有」でもあるというのが「空」なのです。


つまり般若心経では「空」と「無」を同じものとして捉えていますが、「空」とは「無」と「有」を包摂しているのであり、決して「空っぽ」で「空しい」わけではないのです。


画像5


以上、ここまで内容をまとめますと、「物質的現象」である「色」とは「五蘊」(ごうん)のことであり、その「五蘊」とは何かといえば、認知プロセスともいうべき「色、受、想、行、識」のことです。

しかし私たちが物質的現象として捉えている世界(「色」)は、「実体がない」(「空」)というのが「色即是空」の意味なのです。


ですが、先程も述べたように「空」とは「空っぽ」で「むなしい」わけではなく、苫米地英人氏が『一生幸福になる 超訳「般若心経」 』のなかで言うように、

「「空」とは「有」と「無」の両方を包摂する、一つ視点の高い概念」

なのであり、「「在るともないとも言える」のが「空」なのです。

(注 脳機能学者の苫米地英人氏が書いた『一生幸福になる 超訳「般若心経」 』は、以前にnoteでも取り上げましたが、「空」とはからっぽというよりも、むしろ、エネルギーが充満している感じ(フルネス)なのです)。


そして、この「空」こそが「いのちの全体性」や「宇宙の創造原理」といったものとも関係してくるため、「色即是空」の意味を正しく理解したうえで、般若心経を唱え続ければ、「いのち」を体感することにつながるかもしれません。


 自分の声の響きになりきれば、自然に「私」は消えてくれるはずです。繰り返しになりますが、要は全体の記憶やその保持が、最終的には「私」によってなされるのではない、ということです。少なくとも、「陀羅尼」を唱えているときの「私」の殻は、少しずつ薄くなっていくはずです。その薄くなった殻を透かして、私たちは「空」という本当の関係性に気づいてゆくのです。

 声の響きと一体になっているのは、「私」というより「からだ」、いや、「いのち」と云ってもいいでしょう。むろんそれは宇宙という全体と繋がっています。

 思えば世尊が繰り返し説かれたのも、自分で作った「私」という殻がいかに「苦」を生みだすものであるか、ということではなかったでしょうか。

(玄侑宗久『現代語訳 般若心経』 ちくま新書 p199)


般若心経×マインドフルネスで<いのち>を感じる。

画像38

ここまで、【般若心経】について述べてきましたが、<いのち>を少しでも体感するつもりで、<般若心経>をマインドフルに読経してみることはオススメです。


マインドフルネス×般若心経の読経のやり方は単純で、般若心経を唱えることと、現在の瞬間に意識を集中させるマインドフルネス瞑想を組み合わせるだけなのですが、実際に実践してみると意外と難しいことに気づかされます。


まず、ただ一人で読むようにすると、なかなか続けられませんので、書店で般若心経のCDが付いている本を買うか、インターネットでのYouTube動画を利用するかして、般若心経の読経の音声を用意します。

また、音読する際に、般若心経の全文が書かれたテキストが必要になりますので、般若心経の経文が載っている解説本やプリントアウトした印刷物なども手元に用意します。


般若心経×マインドフルネスの方法

画像39

姿勢は胡座でも椅子に座るのでも構いませんが、両肩の力を抜き、胸を軽く張る感じで、背筋を気持ちよくスッと伸ばすようにします。

そして実際に音声に合わせて般若心経を音読していきますが、その際、雑念が入りこまないように、262文字の一文字一文字を、しっかりと見つめながら読むようにします。


また、般若心経を全文暗唱しているのであれば、音声と自分の声を聴くことに集中しながら、唱えるようにします。

そしてその声を感じたり、観察したりするようにしてみます。

ちなみに般若心経の全文を憶えていないという方でも、何十回と唱えているうちに、歌の歌詞を憶えるのと同じで、(意味は理解できなくても)次第にテキストを見なくても唱えられるようになってきます。


しかし、集中力が途切れたり、般若心経を唱えることに慣れてきて、余裕が出てきたりすると、どうしても唱えている間、頭の中に雑念が浮かんできてしまいます。


そのため、マインドフルネス瞑想と般若心経の読経を組み合わせるための秘訣は、経文を見ている場合は、一字一字の漢字に、暗唱している場合は、CDなどの音声や唱えている自分の声を聴くことに、100パーセント集中するよう心がけることです。

もし、般若心経を唱えている間に、何らかの思考や思いが浮かんできたら、

「思考、思考、思考」

「雑念、雑念、雑念」

「妄想、妄想、妄想」

などとラベリングすることで対処し、再び、般若心経の読経に意識を集中させるようにします。


般若心経をマインドフルに唱えれば、<いのち>につながる。

画像40

では、般若心経の読経とマインドフルネス瞑想を同時に実践すれば、なぜ<いのち>を感じることができるのでしょうか?

その理由は、ひたすら現在に集中しながら般若心経を唱えることで、過去の後悔や未来への不安のことに関して、悩んだり考え込んだりする暇が無くなるからです。


反対にいえば、もし般若心経を唱えている間、何らかの悩みや苦しみが浮かんで来たり、考え込んだりしてしまうならば、その時は般若心経を読むことに100パーセント集中していないということになります。


もちろん、マインドフルネス瞑想と同じで、油断すると注意が散漫になり、頭の中に何らかの想念が浮かんでくるのは仕方がないことですし、雑念が浮かんでくることは心の性質として当たり前のことです。


そのため、うまくいかないといって自分を責めることはせず、現在に集中していのちを体感するための訓練だと思って、最低でも30分、できれば60~90分を目安に、毎日続けてみてください。

画像53

もし、般若心経を唱えている間、思考をストップし、五感をフルに活かしながら唱えることができるようになれば、次第に、普段はなかなか気づくことのなかった、「今・ここ」を生きているという意味での<いのち>が感じられるようになってきます。



ちなみに<般若心経>の最後には、

「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」(ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそうぎゃーてー ぼーじーそわか)

というマントラが配置されていますが、マントラを唱えることによるご利益を期待するよりも、まずは現在に集中し、自分の声をからだに響かせながら、繰り返し唱えることで、効果を発揮するように思います。


マインドフルネス×般若心経のポイント。

現在(いま)に100%意識を集中させながら般若心経を唱える。

からだ全体に声を響かせるように気持ちよく唱える。

色即是空を正しく理解したうえで唱えるとより臨場感が増す。


 さあ、陀羅尼としての「般若心経」を唱え、「いのち」の響きのうちに少しずつ「私」を霧消させてやすらぎを感じとってください。

 むろん初めからやすらぎは無理でも、とにかく「いのち」の響きと「全体」に潜在する意味とに静かに身を委ねるのです。そして「花」も「私」も自立的でも恒久的でもなく、隔てなく融合しながら同じ「いのち」の「縁起」のなかにあることを感じとってください。

 これは自分というものが真の意味で変革される最上の方法です。

 「全体」との本当の関係性のなかで、自分が再生していく道なのです。

(玄侑宗久『現代語訳 般若心経』 ちくま新書 p201)


五感によって<世界>を感じられるのは<いのち>あるゆえ。

ここまで、「<いのち>に気づくマインドフルネス 情報社会で「今・ここ」を感じる力を取り戻す」というタイトルで、有料記事を書かせていただきました。

画像34

もしかしたら内容にご満足いただけなかったかもしれませんが、この記事で一番述べたかったことは、たとえ毎日のつらいことの連続だったとしても、<いのち>があるからこそ、つまり生きているからこそ、感覚によって世界を味わうことができるのだということです。


もし、今日という日に、どのような境遇に置かれながら生活しているかは、人それぞれですし、長い人生のなかで、自分は不運の連続だと絶望したり、不条理な出来事に遭遇してひどく落ち込んだりすることも多くあると思います。


かくいう私自身も、毎日がハッピーな出来事の連続であるわけではなく、予測不可能な時代のなかで、時に、八方ふさがりの状態に陥り、何の希望も見出せない精神状態になることは時々あります。

画像35

ですが、そういう時は、あえて何かをしようとするのではなく、マインドフルネス瞑想を実践しながら、先程述べた、<いのち>があるからこそ、つまり生きているからこそ、感覚によって世界を味わうことができるのだ、ということに気づくようにしています。


頭の中で考えたり、悩み過ぎたりしてしまうと、そのことに気づくことが難しくなりますが、最終的に自分自身に<いのち>があることに気づき、<いのち>に感謝できれば、また新しく生き直そうという気持ちになれます。


よろしければ、この記事で書いた五感に気づくマインドフルネス瞑想を試しに実践してみてください。

この度は、有料記事をご購入くださり、本当にありがとうございます。


もしサポートしていただいた場合は、令和の時代の真の幸福のための、より充実したコンテンツ作りに必ず役立てます。