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尹雄大『体の知性を取り戻す』は、からだで不安や葛藤を乗り越えるきっかけになる一冊。

近頃、身体感覚について考えるために、尹雄大『体の知性を取り戻す』という本を読んだ。

尹雄大(ユン・ウンデ)氏の著作は、この『体の知性を取り戻す』以外にも、以前、甲野善紀氏をはじめとした身体論を探求する過程で『FLOW 韓氏意拳の哲学』を手に取ってみたことがあった。

『体の知性を取り戻す』もそうだが、韓氏意拳という武術を通して、身体という不可解な領域についての、思索と実践のあわいを歩むような叙述が印象的だったのを憶えている。


「身体」は、「自然」と同様、意識の常に先を行っているという意味で、簡単に捉えきれないし、追いつけない(「意識」はいつも遅れており、気づいた時にはもう遅い)。

だから、「身体」に対して、厳密な正しさやトリセツというものはないし、そもそも簡単に言葉にすることもできない。

しかし、身体への、アナログ感覚としての、精妙な気づきを怠れば、凝り固まった頭が、アルゴリズムのごとく命令するように体を従わせるようになり、やがて心身のバランスが崩れるとともに、本来の、自由自在であることの喜びへの実感も失われてしまう。

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ちなみに個人的な話になるが、私は学校の「体育」の授業や、そこで教えられるスポーツ全般が苦手だった。

率直にいえば、体育の授業で自分の運動神経が鈍いことを痛感し、そのことに長い間劣等感を抱いていたわけだが、今は、呼吸とともに、ヨガや整体、気功などの動きを通じて、瞬間瞬間の気づきを増やすという身体へのアプローチによって、生きることの苦しさ、すなわち息苦しさがだいぶラクになった。


それゆえ、この『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)に書かれる、著者の柔道やキックボクシングから、古武術、韓氏意拳へとたどり着いた過程の部分を読むと、身体そのものを捉えることは難しいとはいえ、学校教育で教えられる身体観のみによって、自分自身のからだの動きを「そもそもこういうものだ」と狭く捉えてしまうことは、身体への可能性を狭めるという意味で、非常にもったいないと思うのである。


 自分にとっての何気ない普通のありのままが、あるがままの自然とは限らない。むしろ、これまでの人生で「これが正しい」「これがいいことだ」と思い、自分の体をいじくってきのだ。体がもっている構造から外れた動きをして、偏りがついているのに、それを自然に感じてしまっている可能性のほうが高いだろう。

(尹雄大『体の知性を取り戻す』 講談社現代新書 p135)
 頭で体をコントロールする。それが生きることだと私たちは思い込んでいる。それでも台風のような自然現象に出くわすとき、ふと気づく。私たちの体も本当は制御できない自然の側に属するのだということに。体が嵐のように吹き荒れ、たかぶるときもあれば、穏やかなときもある。それは思いや考えの外にある現実そのものと言える。

(尹雄大『体の知性を取り戻す』 講談社現代新書 p38)
 意拳の特徴は、自分の行いを「ただ見つめ」「感じる」ところにある。特別な動きのモデルを自分に当てはめ、うまくできるかどうかを評価して矯正するのではない。自分がただ手を前後や左右に振ったとき、どういう感じがするかを観察する。判断せず目撃に徹する。

(尹雄大『体の知性を取り戻す』 講談社現代新書 p113)


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なお、尹雄大氏の『体の知性を取り戻す』を読んでいるあいだは、からだのことだけではなく、人生の歩み方や、生き方そのものについて、ハッと気づかされることも多かった。

思うに、この本に書かれていることを深く理解することは、自分のなかの、暗闇のような、生きることの分からなさ、不安や葛藤、自己否定と向き合い、そのことを、<身体感覚>を通じて模索しつつも、やがて乗り越えるきっかけにもなるはずだ。


 自分の持ち前の能力をただ表現すればいい。そういうふうに努力なく生きることを私たちは信じられない。けれども、生命の根幹にあるのは何かと言えば、感じることであり、それがこの世界を生き抜く、汲めども尽きせぬ源泉になっている。これは努力なしに始まった、あらかじめ私たちにインストールされた能力だ。

(尹雄大『体の知性を取り戻す』 講談社現代新書 p163)


 過去に成功した知識や技法をどれだけ身につけても、いざというときには役に立たない。生死を分ける瞬間は、いつだって想定の外からやって来る。直ぐな身と心でいないと、変化に応じられず呆気なく殺される。一寸先は闇というわからなさに対し、無邪気に素直でいられるかどうかが生死を分ける。

(尹雄大『体の知性を取り戻す』 講談社現代新書 p168)


丹念に考え、行動したところで、正しさの根拠はどこにもない。私たちが生きていく上で必要なのは、正しい行いでも、正確な知識の獲得に血道をあげることでもない。

 ただ歩みを進め、身を乗り出すこと。

 つまり初めて立ち上がり、歩み始めたときのように体を前へと運び、可能性の広がるほうへ伸びやかに歩みを進めることだ。

(尹雄大『体の知性を取り戻す』 講談社現代新書 p169)


尹雄大『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書) 目次

第1章 「小さく前へならえ」で私たちが失ったもの

第2章 渾身のパンチより強い、手応えのないパンチ

第3章 「基本」とは何か

第4章 動かすのではなく、ただ動く

第5章 感覚こそが知性である



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