可能なるコモンウェルス〈4〉

 たとえばもしもある国家で、「ある特定の、個別的な主権者が死んでしまった」とする。それと同時に、その国家は主権を喪失することとなるのだとしたら、どうだろうか?そのような国家は、はたして「国家と言いうるもの」なのだろうか。
 少なくともその国家は、「主権国家ではありえない」というのは明白なことだろう。ゆえに国家は、他国からの一切の干渉を受けない「主権国家」として自らを成立させ続けるためならば、とにもかくにもその特定の個別的な主権者がたとえ死のうが生きようが、国家の主権そのものは維持され保持され続けていなければならないのだ。
 繰り返すがこのことは、たとえ絶対王権であろうと人民・国民主権であろうと全く同じことなのである。王権国家であればその「歴代の王の一人一人」は、そして国民主権国家であればその「国民の一人一人」は、それぞれ個別に生まれて生きて死ぬことだろう。しかし、それでもそれぞれ「主権者としては、必ず不死でなければならない」のだ。少なくともその存在の明白性はけっして変化してはならない、なぜなら「国家の主権そのものは、けっして変化してはならない」のだから。
 そしてその限りにおいて、その国家の主権者は「一人一人の個別的な生死を無視することができる」のであり、またある意味では「その必要がある」わけである。これは、主権者がまさしく「権力主体」であるからこそ生じる可能性と必要性なのは言うまでもない。逆に言えばもしこれが「権利主体」だというのであるとしたら、その眼差しは「一人一人の個別的な生死」から外すことはけっしてできないだろう。そしてこれもまた言うまでもないが、もしそういうことだとしたらそれは、「権力機能」としては全く足枷にしかならないのである。

 また、国民国家とは一般に、「国民として措定された住民全体が国家の主体となるような国家形態に他ならない」(※1)ものとして構想され、かつ実際にその構想にもとづいて設立されたものであるというように、ここでひとまず「措定」しておくのだとして、ならばそのような国家=「人民主権国民国家」とは、その国家の「権力主体」として、国民=主権者がまさしく「全権力の掌握主体」として当の国家を「独占的に所有する」ものであり、国民=主権者は自らが独占的に所有する国家の一切を、自らの意志や目的を実現する機能=手段として「自由に」使用し、かつ利用することができるものだ、というように解釈・措定することもできよう。端的に言えば、国家は「国民=主権者の道具」であるというようにでも位置づけられるとも見なしうるわけである。
 そこで、そのような解釈措定にもとづいて、「国民共同体が自らを防衛したり、内部の秩序を守ったりするための政治機構が国家である」(※2)と定義づけることも可能なところとなる。また、それによって「国家は国民のために存在すべきであり、国民の生活を保障すべきである」(※3)とか、あるいは「国家はわれわれ国民のものであり、国民によって国民のために運営されなくてはならない」(※4)とかいったような主張や要求にも、それなりに一定の根拠が与えられるものなのだというように、国民=主権者の側においては考えられているところなのだろう。
 ただしかし、これはあくまでも「権利主体としての主張・要求」が表明されているものだ、というように見なすことも、やはりできてしまうところなのである。とすればここでもやはり、「主権者」についての観念には、明らかな転倒が生じているのだと断じなければならないだろう。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 萱野稔人「国家とはなにか」
※2 萱野稔人「国家とはなにか」
※3 萱野稔人「ナショナリズムは悪なのか」
※4 萱野稔人「ナショナリズムは悪なのか」

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