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「私訳 歎異抄」 五木寛之

「わたしたち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、他のいのちあるものたちのいのちをうばい、それを食することなしには生きえないという、根源的な悪をかかえた存在である。」



「私訳 歎異抄」 五木寛之



歎異抄たんにしょう」は、根底から考えを変えられた本でした。


それでもまだまだ理解できそうにもなく、これからも読むたびに考えが変わっていくだろうと思われ、非常に短いのに深い教えは、この先、突如襲ってくる心の不安に確実に寄り添ってくれる書になるだろうと思いました。


歎異抄は、浄土真宗開祖の親鸞しんらんに対して、弟子の唯円ゆいえんが直接話を聞いたことを記したものです。


あるとき、親鸞さまは、こう言われた


このような書き出しで唯円は語ります。


唯円は嘆いています。


親鸞の死後、親鸞の教えが誤って理解されて世間に広がっていることに。


親鸞さまは、そんなことはおっしゃらなかった。このわたしが、この耳できき、直接に教えていただいたのだから、まちがいない。


親鸞の師・法然は、貧しい人も字の読めない人も、誰もがやさしく行えるのが、教えであり念仏であると説きます。


親鸞は、その師の教えをさらにやさしく説きますが、それ故にまちがって捉えられることが親鸞の時代においても多かったのですね。


なので


唯円は、親鸞に直接聞いた教えを書き残すことにしたのです。


その歎異抄をとても読みやすく、わかりやすく現代版に訳したのが五木寛之さんです。


とても読みやすかったのですが、本当に深くて、五木さん曰く「謎に満ちた存在である」と語っているように、これからもずっと問い続けることになる書であり、事あるごとにこの書にぶち当たるのだろうと思いました。


このたび読んで一番考えたのが「傲慢」「謙虚」「おもんぱかる」ということでした。


親鸞の教えで理解が難しいと考えられるのが


「悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや」。


善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない。


どうでしょうか?


逆ではないのかと思いませんか?


「悪人ですら救われるなら、善人が救われぬわけはない」と。


僕は以前から悪人であっても「ナムアミダブツ」と口にすると、救われるのだと理解していました。


しかし


親鸞はそのように説いていないのです。


親鸞はこう言いました。


わたしたち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、他のいのちあるものたちのいのちをうばい、それを食することなしには生きえないという、根源的な悪をかかえた存在である。

山に獣を追い、海河に魚をとることを業が深いという者がいるが、草木国土のいのちをうばう農も業であり、商いもまた業である。敵を倒すことを職とする者は言うまでもない。

すなわちこの世の生きる者はことごとく深い業をせおっている。わたしたちは、すべて悪人なのだ。

そう思えば、わが身の悪を自覚し嘆き、他力の光に心から帰依する人びとこそ、仏に真っ先に救われなければならない対象であることがわかってくるだろう。

おのれの悪に気づかぬ傲慢な善人でさえも往生できるのだから、まして悪人は、とあえて言うのは、そのような意味である。


善人と言われる「自分の行いが自分の力」(自力)だと信じている人を親鸞は「傲慢」と言っているのです。それは、阿弥陀仏の救済の対象ではないのです。


それよりも、他に頼る者もなく、ただひとえに仏の力に身を任せる(他力)人は、絶望のどん底から湧き出る必死の信心があると言います。


自力におぼれる心をあらためて他力の本願にたちかえるのなら、真の救いがあると親鸞はそう言うのです。


本書を読んで自分が一番に感じたのは、先ほど申し上げたような「傲慢」になるのではなく、「謙虚」になり、相手を気持ちや言葉で「慮る」ことなのではないかと感じたのです。


そのように考え、感じることができる人が周りに増えれば、きっと不安というのは小さくなるのではないでしょうか?


また


「悪人正機」という教えのまちがった解釈について。


悪をなす者を救うのが阿弥陀仏であるというなら、わざと悪事を行うほうが浄土に行くにはよいと主張する者がいて、世間から大いに非難されたことがあった。

そのことが親鸞さまの耳に届いたとき、親鸞さまが手紙で「薬があるから大丈夫といって、わざわざ毒を飲むことをすすめたりするのは愚かなことである」とおたしなめになったのは、そのまちがったかんがえをただすためのことであった。


そのように語った上で


「どんな人間でも阿弥陀仏によって救われるのと同様、みずからの業縁によれば、どんな悪行でもする可能性がある」と。


自分を善人だと思っていても、いつダークサイドに落ちるかもしれません。


「自力」という自惚れをなくし、「人は自分のためではなく、人のために生かされているのだ」という謙虚さを持てば、何かが変わっていくのではないでしょうか。



【出典】

「私訳 歎異抄」 五木寛之 PHP文庫


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