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今更聞けない、イスラエル・パレスチナ問題を分かりやすく簡単解説!!

皆さん、こんにちは!shunGoです。

今日は、”今更聞けないパレスチナ問題” というテーマでお話ししようと思います。

皆さんはパレスチナ問題についてどれくらい知っていますか?義務教育を終えている方なら、必ず学校の社会科の授業で習っているはずなのですが笑

しかし、すでに忘れてしまっている。今から一から勉強するのは辛い。なんかとっつきにくいし。。そんな方も多いのではないでしょうか?

でも大丈夫!!

私shunGoが分かりやすく、かつしっかりポイントを絞って解説致します。なので10分間、下さい。10分で他人に説明できるくらいパレスチナ問題の理解はバッチリになります。

それでは、早速参りましょう!!

①簡単にいうと、パレスチナ問題とは??

はい、パレスチナ問題とは何ですか?と聞かれて皆さんは何と答えますか?

”イスラエルとパレスチナの紛争”
”長い歴史の間でずっと争い続けている紛争問題”
”イスラエル・パレスチナの他にもアメリカやイギリスなどの諸外国も関与している国際問題”

少し前の私だったら、こんな感じで答えていたと思うのですが皆さんの回答と近かったでしょうか??

パレスチナ問題とは、”イギリスが原因で起きた、パレスチナ地域をめぐるパレスチナ人(アラブ人)とイスラエル人(ユダヤ人)の領土争い” です。

パレスチナ人とはパレスチナ地域にルーツを持つアラブ人のことで、ここでは分かりやすく説明するため、
パレスチナ人=アラブ人、イスラエル人=ユダヤ人という認識でOKです。

ちなみにパレスチナ地域とは、現在のイスラエル国周辺地域のことを指します。下の図の青線で囲った部分あたりです。

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パレスチナ問題が "イギリスが原因で起きた" という事実を知らなかった、あるいは忘れていたという方は実は多いのではないでしょうか?

よくテレビでは、イスラエルとパレスチナの名前が多く聞かれるため2国間の問題と思ってしまいますが、全てはイギリスの最低最悪な外交から始まりました

それでは、もう少し詳しく見ていきましょう。

②聖地エルサレムの重要性

このパレスチナ問題において、聖地エルサレムの存在は欠かせません。皆さんもエルサレムのことは知っているのではないでしょうか?

キリスト教・ユダヤ教・イスラム教それぞれの宗教にとって非常に重要であるため ”聖地エルサレム” と言われています。

キリスト教にとって、エルサレムはイエスキリストが十字架に架けられ処刑された場所であり、「聖墳墓教会」にはイエスの墓があるとされておりキリスト教徒にとって特別な場所なのです。

ユダヤ教にとって、エルサレムは紀元前にユダヤ国家が存在していた場所であり”神との約束の地”とも言われています。当時の神殿の跡地である「嘆きの壁」は現在もユダヤ教徒にとって神聖な場所なのです。

イスラム教にとって、エルサレムは預言者ムハンマドが昇天し神から言葉を授かった場所であり「岩のドーム」はその跡地と言われイスラム教徒にとって欠かせない聖地なのです。

このようにエルサレムは3つの異なる宗教にとって特別で重要な地であるため、歴史上常に争いの火種となってきました。

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③紀元前・オスマン帝国支配時代〜第一次世界大戦

パレスチナ地域はアジア・ヨーロッパ・アフリカの中間に位置し、"世界のスクランブル交差点" とも呼べる非常に重要な地域のため、長い歴史の中でパレスチナ領域を支配していた国や民族は時代によってコロコロと変わっていたのですが、今回は重要ポイントのみ抑えます。

紀元前、パレスチナ地域にはユダヤ人国家であるイスラム王国がありました。しかしイスラム王国は消滅し、ユダヤ人たちは世界中にバラバラに拠点を移しました。

時を進めて16世紀。パレスチナはオスマン帝国という国に支配されていました。この時パレスチナに住んでいた多くはアラブ人でしたが、19世紀になると世界中に散らばっていたユダヤ人は各地で迫害され、彼らはユダヤ人国家を作るべくパレスチナ地域に帰ってきました

パレスチナを選んだ理由は、先ほども書いた通り紀元前にユダヤ国家があったためユダヤの故郷的な考えがあったためです。

頭が賢い民族で有名なユダヤ人は、パレスチナに帰ってくると土地の買収などで徐々に土地を自分たちのものにしていきました。

そんな中、第一次世界大戦が勃発します。ここで、全ての元凶であるイギリスが登場します。戦争開始時もパレスチナはオスマン帝国の支配下であり、そのオスマン帝国はイギリスと対立していました。

そしてイギリスは、歴史上稀に見る最悪な約束を異なる3者と結びます。これがかの有名な"イギリスの三枚舌外交"です。

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1つ目の相手はアラブ人。イギリスはアラブ人に対し、協力してオスマン帝国と戦ってくれたらパレスチナにアラブ人国家を作る手助けをしてあげると言いました。
アラブ人としては、ユダヤ人が自分たちの土地を奪っていくことを気にしていたので協力することにしました。(1915年 : フセインマクマホン協定)

2つ目の相手はユダヤ人。イギリスはユダヤ人に対し、協力して資金援助してくれたらパレスチナにユダヤ人国家を作る手助けをしてあげると言いました。
ユダヤ人としては、念願のユダヤ国家樹立に大きく近づくと期待し協力することにしました。(1917年 : バルフォア宣言)

3つ目の相手は同盟国のフランスとロシア。イギリスは両国に対し、戦争に勝ったらオスマン帝国の領土を山分けしようと言いました。フランス・ロシアは断るはずもありません。(1916年 : サイクスピコ協定)

このように、イギリスは異なる3者に対し叶うはずのない異なる約束を交わしたのです。かなり滅茶苦茶なことをしていますよね。

これを現代風に言い換えてみると、異なる3人の異性にプロポーズし結婚を約束するみたいな感じですかね笑 三股の中でも極めてクズな三股をしている感覚でしょうか笑

④第一次世界大戦後〜第二次世界大戦

第一次世界大戦でイギリスは勝利しますが、アラブ人・ユダヤ人の両者を共に裏切りパレスチナをイギリスの統治下としました。(正確に言うと、国際連盟がイギリスに統治を委任しました)。

サイテーーーーー!!!婚約破棄ですよ!!

しかし、ユダヤ人に対しては資金面の援助という強力な繋がりがあったため優遇措置をとり、パレスチナにどんどんユダヤ人が入るようになりました。そしてそんな事を許すはずがないアラブ人たち。こうして両者の溝は争いを通じて深まっていきます。

そして第二次世界大戦後、イギリスはアラブ人とユダヤ人の間で争いが激化し収拾のつかなくなったパレスチナ地域の問題解決を国際連盟に任せました。

2人の異性にプロポーズし、共に自ら婚約破棄をした挙句、その2人の後のことを結婚相談所に任せたのです!!こう聞くと、いかにイギリスが身勝手で最低最悪かが分かるかと思います。笑

⑤戦後〜オスロ合意

最低の状態で後処理を任された結婚相談所、いやいや国際連盟ですが問題を解決するため、パレスチナ地域を分割しアラブ人とユダヤ人にそれぞれ分け与えようと決めました。

そして、パレスチナ領域の20%をユダヤ人(イスラエル)に、80%をアラブ人(パレスチナ)に与えると決めました。一見不利な条件に見えるイスラエル側は合意しましたが、パレスチナ側は反対しました。

え?80%ももらえるんだから良いじゃん。

そう思いますよね。しかし、この分割の内容はユダヤ人に優遇されたものでした。豊かな土地をイスラエルに与え、荒廃した広大な土地をパレスチナに与えようとしたのです。

なぜ国際連盟はユダヤ人をひいきしたのでしょうか?

ここで出てくるのが大国アメリカです。当時、アメリカ国内の富裕層の多くはユダヤ人であり、大統領選挙においてユダヤ人富裕層を味方につけることは勝利に近づく事を意味していました。そのため当時大統領候補であったTruman氏は国際連盟に働きかけ、ユダヤ人に有利な分割をするよう伝えたという訳です。

分割内容に反発したアラブ人たちは周辺のアラブ諸国の協力を得て土地を取り返すためイスラエルに戦争をふっかけ、第一次中東戦争が勃発します。しかしアラブ人は敗戦します。数的有利だったはずのアラブ人たちが負けた理由、それはイスラエルの後ろにはアメリカという最強のバックアップの存在があったためです。

この戦争後ユダヤ人たちは、1948年にイスラエル国を建国します。

パレスチナ人からしたら、ついに自分たちの土地に他の国の旗が立ってしまったのです。

1967年には第三次中東戦争が勃発しますが、再びイスラエル側が勝利しました。イスラエルはパレスチナの領土であったガザ地区とヨルダン川西岸地区を自国のものにするかどうか考えた結果、この2つの地区はパレスチナに返還しました。

そしてどうにかパレスチナと上手くやっていこうとするのですがパレスチナ側は常に拒否をしていました。パレスチナとしては、ユダヤ人が気に食わず、100%土地を取り返したかったのでしょうか。

その後第四次中東戦争も起こりますが、アラブ人が勝つことはなく、イスラエルによる支配が拡大していく一方となりました。そして、アラブ人たちは住む場所を失い、パレスチナ自治区とされるガザ地区やヨルダン西岸地区や周辺国に難民として逃れるような厳しい状況となってしまいました。

1980年代、そんな状況に耐えきれなくなったアラブ人(パレスチナ人)の怒りがピークに達し、”インティファーダ”と呼ばれる大規模なデモやストライキが行われました。小さい子供が戦車に向かって石を投げつけている写真は、かなり有名です。

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そんな中、1993年にアメリカのクリントン大統領が見守る中、イスラエル国のラディン首相とパレスチナ代表のアラファト議長が ”ガザ地区とヨルダン西岸地区をパレスチナの暫定自治区として認める” ことで合意しました。これはオスロ合意と呼ばれ、長く続いたイスラエルとパレスチナの関係改善が期待された歴史的な瞬間でした。

⑥90年代後半〜現在

このまま問題解決に前進していくかと思われましたが、イスラエル軍によるパレスチナ自治区の実効支配や、パレスチナ側の過激派組織による自爆テロ、さらにはそのテロに対する報復行為としてまたイスラエルがパレスチナに攻撃したりと状況は一向に改善しませんでした。

2007年にはパレスチナ過激派組織のハマスがイスラエルにテロ攻撃したり、2014年には反撃としてイスラエルがパレスチナのガザ地区へ侵攻し多くの犠牲者を出しました。

このように、現在でも両者の間に深い深い溝があり、関係悪化を辿る一方になっています。そして2018年、アメリカのトランプ大統領がイスラエル国内のアメリカ大使館をエルサレムへ移転すると発表し、さらにはエルサレムをイスラエルの首都であると認めました。

この行為にパレスチナ人は当然黙っておらず、ガザ地区では再び大規模な抗議デモが行われました。

現在、パレスチナ地域の領土はどのような構図になっているかというとこの通り。ガザ地区とヨルダン川西岸地区という2つの離れたエリアがパレスチナ暫定自治区とされています。

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しかし、イスラエル軍の徹底された監視や武力行使などにより実際はイスラエルの支配下と言ってもいい状況にあります。

イスラエルとパレスチナの間には高さ約8mの壁が存在し、パレスチナ人は壁の中に押し込められるようにして不自由な中で生活しています。”世界で最も大きな監獄” と呼ばれているほどです。

アニメ好きの方なら想像しやすいかもしれませんが、「進撃の巨人」の世界観に近いかもしれません。

当然、壁の外との人やモノの行き来はイスラエル側が徹底的に管理しており、本当に日本に住む我々からは到底想像つかないような生活が現在も続いているのです。



以上!!

”今更聞けないパレスチナ問題”というテーマでお話ししました!

いかがだったでしょうか?

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では、また!!!!!


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