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精神疾患の世界で見つけたもの(前編)

※この記事は、
人生初 精神疾患との闘い(その1)および、
人生初 精神疾患との闘い(その2)の続きです。
まだ読まれていない方は、よければ(その1)からどうぞm(_ _)m


初めて迷い込んだこの世界は、思っていたよりもずっと、深くて、暗くて、冷たくて、寂しい世界でした。

気づいた時には奥底まで沈んでて、何も見えなくて。

時間が経つにつれて上へ浮いてくると、見える世界や感じる世界が戻っていきました。

海底の暗い世界から水面へ向かうように、
周りの色が少しずつ変化していく中で、いろんな自分を見つけました。

今回はすごく長くなってしまうので、2つに分けて投稿したいと思います。
まずは今までの自分の振り返りをメインに。

ぜひ最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

”強さ”とは

自衛隊入隊直後の生活


15歳で、陸上自衛隊高等工科学校へ入りました。

僕は15歳から陸上自衛隊に入隊し、その後は航空自衛隊を経て21歳になる手前で退職、合計5年半ほどを自衛隊で過ごしました。

”自衛隊出身だったらメンタル強いでしょ”

そう思われる人が多いと思います。
実際に僕自身も今の状態になるまでは、自衛隊出身だからメンタルは強い方だと思っていました。

ちょこっと、生活がどんな感じだったかを書いてみます。
が、その前に大前提を2つほど。
1、あくまで”当時”で、現在とは異なります。
2、自衛隊への批判の気持ちは一切ありません。むしろ感謝です。


自衛隊での生活はもちろん厳しく、特に1年目は毎日ベッドで目覚めるたびに「今日も生きてる」と実感するような日々でした。

ルールは簡単ですが、最初の3ヶ月は試練の日々でした。

  1. 1コ区隊(学級)約30名での団体行動。

  2. 1人の時間遅れ、ミスは全員の責任。

  3. 先輩・教官への敬礼(あいさつ)は絶対。

  4. 許可を貰えるまで自販機・売店・外出・携帯その他娯楽禁止。

  5. 先輩・教官が黒といえば黒。異議は認められない。

6時の起床ラッパが鳴った瞬間から、怒号は飛び交います。

朝ご飯は1分あれば長い方、風呂も解散から集合まで5分未満が当たり前。時間に遅れた分だけ体力錬成(腕立てや空気椅子)の時間へと変わります。

毎朝の服装点検、シワ・汚れひとつでもあれば、体力錬成の時間で清算しました。

昼休みに居室へ戻れば、整理整頓ができていないとして、ロッカーの中身も畳んだベッドも部屋中に散らかっていました。

整頓し直すのに時間がかかり、昼食の時間も5分前後です。
(稀に10分くらい取れる時もありましたが、もちろん30秒の時もありました。)

名ばかりの自由時間は1日に1時間もありません。
その時間でベッドメイク・アイロン・靴磨き・洗濯・整理整頓 全てを完了させます。

さらに「巡察ミサイル」が炸裂した時は絶望です笑

「巡察」は、3年生が担当する、全学年の生活指導係です。
基本的には1年生の隊舎(寮)と2年生の隊舎を自由時間に巡回し、整理整頓の不備を指導します。

厳しい先輩の時は、容赦も情けも無く、次から次へとボンボンボンボン物が部屋を舞います。

自由時間の途中、突然にミサイルは飛んでくるので、整理整頓して次の時間に間に合うわけがありません。

1日全体での時間遅れ・ミス等を、自習時間に体力錬成で清算する日々でした。

実家から荷物が送られてきた際も中身を点検され、本当に生活に必要なもの以外は全て没収、実家へと送り返さなければなりませんでした。

要領よく物を上手く隠そうと親に頼んでも、検問はそんなに甘くありません。
見つかった時の代償はかなり大きかったです。(同期がバレてました)

毎日毎日、教官や先輩からの激しい指導がありました。
足が攣ろうとも、地面に伏しても、関係ありません。

それでも自分で選んだ道だったので、絶対に負けたくありませんでした。

絶対に負けない。負けてたまるか。

体力錬成が何時間続こうとも、
意地でも食らいついてやる。

何回でもやってやる。絶対に負けない。

その思いで、何時間にも及ぶ体力錬成指導にも耐え、同期と共に歯を食いしばる日々を過ごしていました。


ここまでサクッと、入隊後3ヶ月の振り返りをしてみましたが、マジでめちゃめちゃキツかったです。

もちろん3カ月過ぎても定期的に色々とシバかれてました笑

今の僕だったらまともな食事を取らずに何時間も腕立てできませんし、あの時の闘志は異常だったと思います。

でも8年後、もっと自由のある世界で潰れちゃいました。

直属上司との関係

仕事って大変だね。

今はもう人事異動で別の部署へ異動されましたが、課長補佐Aさん(50代女性)との関係が良くなかったのも潰れた要因でした。

僕は令和3年度入社なので、今年度で2年目の新人です。

配置された課は、3本の業務ラインに分けられていて、僕はその3本のライン全てを兼任するオールラウンダーような形で業務を分配されました。

人員は計7名で、幹部3名・一般職4名です。
課長・課長補佐2名(Aさん・Bさん)/再任用の係長級(元部長)・副係長級(D先輩)・平社員(E先輩)・平社員補(僕)
僕は高卒なので2年目も平社員補というランクです。
ちなみに課長とE先輩は、今年度から僕の課に配属された新任です。

1つの課として考えると非常に業務範囲が広く、民法をはじめとする多くの法律知識が幅広く、時には深く求められます。

また3本の業務ラインのうち、
あるラインでは、「ベテランになるには10年はかかる」とも言われたり、
あるラインでは、ベテランが異動するとその移動先の課へ業務が移動したこともあったりしたような、どのラインも専門的な知識が求められる業務内容です。

そのほか、一度誤って処理してしまうと、修復するのにかなりの時間がかかってお客様にご迷惑をかけたり、ひとつの失敗がメディアで報道されるような特性もあります。

振り回される1年目を終え、2年目を迎えた僕はより戦力になりたい一心で、業務に関する知識を着実に身につけてきました。

Aさんとの関係が悪かったのは去年からですが、今年の夏に入ってから更に悪化しました。



今年の夏は1年に1回あるか無いかのビッグイベントがあり、僕の課は繁忙期でした。
毎日の窓口業務が終わったら、そのイベントのための準備で残業が続くので、その時期の残業時間は月100時間前後にも及びます。

その繁忙期の日中、窓口対応を終えて自分のデスクに戻ると、Aさんからイベントの進捗状況を尋ねられました。

僕はなんでも係なので、基本は窓口対応に出ています。
もちろん進められるわけがないので、進んでいませんと答えると、すごくイライラした態度で「もういいわ、私がやる」となぜか一方的に仕事を取り上げられました。

また別の日は、イベント準備のための事務でわからないことがあったため、Aさんに指示を仰ぎました。
すると、「もうそれいいから。『E先輩』にやってもらうから。」と。
仕事を取り上げられました。

また別の日には、Aさんから「〇〇の作業やっといて」と言われたので指示通りやっていたら、「なんでもっと別のことに時間かけられないの!?もうそれやらなくていいから置いといて!」と。
またまた仕事を取り上げられました。

書き出したらキリがないのですが、理由もなく一方的に仕事を取り上げられる日々。

なんとか一大イベントがようやく終わったので、別の業務ラインの仕事内容をD先輩から教えてもらっていました。

すると、いきなりAさんが怒鳴り込んできて、D先輩に説教を始めました。

「まだ何もわかってない新人に教えて、失敗したらどうするの!?しかも1人だけに教えるんじゃなくて、他の新任職員にも教えなさいよ!こっちはこっちでやることあるのに!今はそれさせるから!!」

そして、Aさんから言われた仕事をすることになりました。

去年からずっとそうだったんですけど、

  • Aさんから教えてもらったやり方で仕事をしていたら、そのやり方は違うとキレられる。

  • 仕事を覚えようとするとキレられる。

  • 仕事が分からなくて聞きに行ったら、仕事を取り上げられる。

  • 別の人に聞いていたら、そこに怒鳴り込んできてキレられる。

  • 指示された仕事をしていたら、キレられる。

  • もちろん操作を失敗したら、めちゃめちゃキレられる。

  • Aさんから何も申し送りが無かった仕事で、Aさんが休みの日に僕が対応することになり、法律に基づいて問題なく対応したら、その対応の仕方は間違ってるとキレられる。

  • Bさんに「今日のこの会議出て、レポートまとめて。これ優先。」の指示に従っていたら、Aさんから「イベントの準備をしろ」と言われ、指示がごっちゃになる。

僕がすること一つひとつに言いがかりをつけられ、振り回されました。


こんなのがずーっと続いてたんですよね。

ちなみにAさんの理不尽マサカリは、時々僕だけにとどまらず、Aさんより実務経験の浅いD先輩やE先輩、そして課長に対しても振りかざされました。

完全なる二次被害ってやつです。他の先輩方、すみません。

でも今思うと、誰にも当たらず笑顔でよくやってたなって思います。
これはこれで、腕立て何時間とは違うキツさがあります。

前の記事でも書いたんですけど、家帰っても「頑張りなさい」としか言われないのであんまり仕事の話はしませんでした。
たまに心配してくれる時もありましたが、「まぁぼちぼち」って、あんまり会話が広がらないようにしていました。

地元の友達と飲みに行くこともよくあったんですけど、職場環境も違うのに1から説明して色々話すのも時間かかるし、相手にも気遣うなって思ってあんまり言いませんでした。

ストレスが溜まってモヤモヤした分ジムに行って筋トレして、何も考えられなくなるくらい追い込んで、仕事のことを忘れました。

繁忙期みたいに残業時間が長くなってくると、やっぱりどんどん体力的にキツくなってきます。

体力的にも、精神的にもすごく消耗する中で、自分の完璧主義な性格がまた自分を苦しめてしまいました。

完璧主義の沼

抜け出せず、溺れていく僕。

今回自分が適応障害になったのは、自分が弱い人間だからじゃないか。

そんなこともよく考えましたが、なぜか腑に落ちなくて。

なんで自衛隊の生活が耐えれて、
今の職場で潰れたんだろう。

まだ休職する前、日に日に弱っていく自分を感じながら、ずっと疑問でした。

なんで、こんなに力が出ないの。
なんで、あの時出せた闘志が
どこからも出てこないの。

こんなので負けちゃダメなのに。

なんで、自由な生活なはずなのに
喜びを感じられないの。

あの時と比べたらなんて事ないのに。

なんで、こんなに弱くなっちゃったの。
もっと強くないといけないのに。

過去の自分の強かった部分と、今の自分の弱い部分を比べて、無駄に自分を責めてしまう毎日でした。

十分体は疲れてるのに、SOSなんて無いと自分に嘘をつき続けるように、自分の限界を無視し続けました。

ストイックで完璧主義。
この性格は、学業や成績ではある程度いい効果を発揮していました。

こんなんじゃダメだ。もっとできる。まだいける。まだやれる。
満足したら終わりだと思え。他よりも努力して結果を出す。

当時はそれなりに結果も出て、自信も付いていて。
周りには、同じ釜の飯を食う兄弟同然の同期達がいて。

何気ない会話でみんなで笑ったら、どこからか力は湧き出てきました。

もちろん当時は兄弟同然の同期がいてくれたので本当に心強かったです。
それがなくなった今、どうしても心細いのは仕方ありません。

今の職場でも本当に良くしてくれる先輩が多いのに、なぜか寂しさがずっと残るのは、同期の存在をどこかで探していたからなんだって気付いたのも、この世界に入ってからでした。

またどうせキレられるんだろうな。
今日もいちいち顔色伺って
うまく立ち回らないといけないんだな。

憂鬱な毎日では、周りに人が居ても独りぼっちでいるような感覚でした。

土日の2日間だけでは疲れが取れず、土日ですらも憂鬱になりました。

連休でも変わりはありませんでした。

現職でいろんな不調が現れ始めた時、力はどこからからも湧き出てきませんでした。

そんなに余裕があるわけでもないのに、僕は気力の貯金を切り崩していくように、気力を削っていきました。

「職場では、お客様の前では、必ず笑顔で。」

ただその信念を曲げまいと、使い捨ての笑顔の仮面を毎日作り続けました。

絞り切った布から一滴も水が落ちなくても、絞ることを止めませんでした。

まだいける、負けちゃだめ、まだ…。

”元自衛官”という、自分で作り出したそんな変なプライドが、完璧主義をまた加速させ、僕はだんだん枯れていきました。

これが、僕が抜け出せなくなった完璧主義の沼です。

過去の自分と比べることは大切ですが、過度に自分を追い込んでしまうほどの完璧主義が、自分の首を絞める結果になってしまったんです。

”15歳の闘志”が湧いてこなかった理由

元々僕は子供の頃から、「違う」と思った時には徹底的に立ち向かうタイプでした。

小学生の時、”掃除の時間に友達と話してサボっていた”と、当時の担任から昼から下校の時間まで、クラス全員の前で怒鳴られ続けたことがあります。

僕はただ、同じ清掃班の友達と「どの場所の掃除が終わったか」確認の話をしていただけで、偶然遠目からそれを担任が目撃したのでした。

その担任は当時学校で1番恐れられており、怒鳴れば学校中に音が響くほどの爆声スパルタ先生でした。

一緒に怒鳴られていた友達も、最初は僕と一緒に否定していましたが、あまりの豪勢に腰を抜かし、「サボっていました」とすぐに降参。

でも僕達は掃除をサボっていたわけではないので、「それは違います。」と、1人残った僕が否定し続けました。

当時の担任は、認めないのが気に食わなかったのか、胸ぐらを掴んでは黒板に突き飛ばし、僕の鼻と担任の鼻が付く距離で怒鳴り続けました。

「嘘をつくな!!」

なぜかしばかれる僕。

巨大な定規で教壇を何回も叩き、激しい音をたて、しまいには教壇をぶっ飛ばし、どんな手段を使ってでも恐喝して認めさせようとしました。

先生の怒鳴り声の度に、座っているクラスの皆がビックリし、机とイスが”ガタッ”と音を立てます。

僕はそういう理不尽が大嫌いなので、下校の時間になるまで
「サボっていません。確認をしていました。」と、無表情で淡々と否定し続けました。

自衛隊時代(2年目)も、ある同期が”首晒し”のように指導を受けた際に、「そのやり方は違う」と、1人で教官室へ抗議しに行くほどでした。

自分とAさんだけの紛争で完結するのであれば、何も問題はありません。
ですが、ここは教室でも教官室でもなく、職場です。

元々Aさんは感情の起伏が激しく、過去には自分が気に食わないことがあると、怒って周りに当たるだけでなく、次の日から突然数日間仕事に来なかったこともあると聞いていました。

さらにAさんは、当時の課の中で実務経験が1番長く、Aさんにしか出来ない仕事も多々あったため、欠けてしまうと業務体制が崩れてしまう恐れもありました。

仮に今、自分がこの理不尽に対して立ち向かえば、僕の鬱憤は晴れるかも知れません。

でも、Aさんの機嫌が悪くなれば、二次被害が起きるのはもちろんのこと、課の雰囲気までも悪くしてしまいます。

他の先輩方の仕事に支障をきたすだけでなく、窓口対応がある中でお客様に対してのサービスが落ちることは尚更ダメだと思い、今にも声を荒げるのを我慢して、押し殺しました。

ただでさえ僕の仕事は、Aさんからの引き継ぎものが多かったので、関係性の悪化は後々大きなダメージになることが予想できました。

耐えろ、周りを巻き込むな。
自分のためにも、耐えろ。

厳密に言えば、闘志が湧いていなかったわけではなく、怒りをどこにも出さず、自分の中で抑え続ける日々が続きました。

人の良い面も見る性格

ここまで、たくさんAさんが悪い人間とも取れるような内容を多く書きましたが、全てが悪いわけではありません。

Aさんは幅広い業務の知識の重要な点をしっかりと抑え、日々変わっていく法律の変化も把握しています。

3本ある業務ライン全てにおいて、若手では対応できないイレギュラーを、大抵は1人で対処できました。

そして何より、1人の母親であるということです。

時々、Aさんの娘さんが職場に来ることがありました。
その時の表情は、普段僕たちに理不尽マサカリを振り下ろすような血眼とは異なり、優しく柔らかな普通のお母さんでした。

そういう面を見ていると、「この人も一普通の人間なんだな」って思う部分もあり、確かに苦手ではありましたが、全部が全部嫌いなわけではありませんでした。

だからこそ、Aさんに対して声を荒げたい自分を抑えることができたんだと思います。

僕がこういう考え方をできるようになったのは、最初からではありません。

5年前、航空自衛隊時代に負った怪我がきっかけでした。
それは同時に、自衛官を辞めるきっかけでもありました。

(後編)では航空自衛隊へ移った時からお話しします。

今まで他人には隠していた自分の過去や過ち。
挫折を経て変わった自分の生き方。
書くことも悩みましたが、勇気を出して書いてみました。

少し長くなりますが、とても大切な時期だったので是非読んでいただけると嬉しいです。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました!




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