いとえ志乃
主に自己否定
回顧録と創作のはざま
子どもの頃は大人になれば 絶対に幸せになれると思ってた。 だからどんなに理不尽な目に遭っても、どんなに痛い思いをしても 大人になるまでの辛抱だと信じて疑わなかった。 子どもの頃は膝を擦りむけば泣いて助けを求めた。 でも誰もいなかった。 そして歳を重ねるにつれ、つまずいても擦りむいても 泣かなくなったし、泣けなくなった。 今、私の頬を濡らす理由は 終わりの見えない果てしなく長い自分の人生にうんざりしているからだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 今まで何度か日記
ここ一年は、ずっと心の片隅で膝を抱えて 身動きが取れないような感覚でいた。 行動を起こしても、何か足枷があるようで 超えられない壁があるようで 水面下で足掻くだけの時間だった。 柄にもなく神頼みしてみたり 善人面をぶらさげてみたり それでも自分の腹黒さは己が一番知っていて。 でも一つ気付いた 私が求めているのは 常に見返りだった。 ビジネスのおいては ギブアンドテイクは当たり前だが その過程にあるのは ビジネスライクの尽くす心 日常生活においては 無償の愛の尽くす心
捨てることにも 捨てられることにも もう慣れた。 喚いても、嘆いても すべてを病で片付けられてしまう。 諭され、宥められ、 まるで駄々をこねる子供のように扱われ 何もできないと、突きつけられる。 以前にも、こんな思いをした記憶がある。 だからきっと余計に、虚しくなるんだろう。 何を言っても無駄なのだ、と。 この囲いは、なんて冷たいんだろう 寒風にさらされた鉄柵のように 握り締めれば、締めるほど 手が凍えてしまいそうになる。 心が凍えてしまいそう。 同じ虚しさを抱える
母子寮での生活が日常となりつつあり 子ども達は学校、幼稚園とそれぞれに新たな生活に馴染んでゆき 妊娠も順調に経過し、穏やかな日々が続いていた。 ある日、部屋にある内線が鳴った。 母子寮の職員に呼ばれ事務所へ行くと 書類を手渡された。 封を開けると、手書きでびっしりと書かれた訴状だった。 内容は協議離婚と接近禁止命令にに対する異議申し立て、 そして慰謝料請求だった。 何故、手書きの物が届いたのか。 弁護士を通さず自ら裁判所へ申請したのだろうか。 瞬時に住所を知られたのかと恐
シェルターでの生活も1ヶ月を迎えたころ 子ども達が保護されたと連絡が入った。 理由は娘が学校に通っておらず 保護責任を果たしていないという名のもとで 生活環境の悪化も見て取れたため保護となったと説明を受けた。 子ども達は心身の状態や検査なども含め しばらく別々に過ごすようにとのことだった。 数日後、私達が入所する母子寮が決まった。 一足先に私が向かうこととなり シェルターの職員と共に田舎道の続く 小高い山の上にある母子寮に到着した。 山奥には不釣り合いな防犯カメラがい
時折やってくる 眠れない夜。 暇を持て余した脳みそは様々、良いことだけでなく 余計なことも思い出す。 血縁はなくとも愛してくれた父のこと、 もう数年声さえ聞いていない養母のこと、 亡くなった前夫のこと、今までの汚点。 嫁いだ娘、放浪する息子、囲いの中にいる息子。 傍に居てやれない娘たち。 思い返せばキリがない。 自分の人生に悔いはない、と一言でまとめたとしても 懺悔することは山ほどある。 毎日毎日、その重しに押し潰されそうになりながら 普通に寝起きし食事を摂り生活して
法律事務所のドアを開き、目の前に現れたのは 背筋がピンと伸び、整いきっていないショートヘアをかきあげる 50代辺りの女性弁護士だった。 話の端々でメモをとり ひとしきり話し終えると、サッと席を立ち 戻ってきた手には書類の束が見てとれた。 一つ一つ、説明を加えながら これから私の身に何が起こるのかを教えてくれた。 「自己破産の申請を今から始めますから。明日から一切督促の連絡が くることはありません。」 ぴしゃりと告げた。 そして、差し出された書類に氏名や住所を書き込ん
心がひきこもりになってる。 どこにも出たくない 何もしたくないのに 置かれてる状況は微塵も隙を与えてくれない。 最近、烏がよく目につく 姿が見えても、烏の声が聞こえない時は死が近づいている、と 見たか聞いたか、した記憶がある。 声は聞こえない。 電線に一列に並ぶ姿は喪服の参列者みたいに見える。 お迎えならいいのにな。 でもなんとなく なんとなく そう遠くはない気がしたりしなかったりで。 もう2週間ほど前から激しい腰の痛みが続いてる 左わき腹に時折、壁に小石が当た
何かに忙殺されてゆく日々が続いてる。 コントロールの利かない感情と沈むばかりの心中。 どんどん内向的になり活動力が失われてゆく。 メールもLINEも開くのが億劫で 人と日常的な会話をこなすのが不自由に感じる。 唯一、今言葉を発せられるのがこのnoteやTwitterになってる。 誰にも何も尋ねられることもなく 淡々と自分の世界で居座ることができる。 できることなら一人になりたい。 委縮する自分を見ていられない。 理解の得られない叫びほど 苦しくて 辛いものはない。 今
何度か、彼の暴力に関しては警察を訪れたこともあった。 大体の返答は”民事不介入”によって、だったが驚いたのは 警察官が「奥さん若いと旦那さんヤキモチ妬いちゃうんじゃないの?」 つまり婚姻生活で夫が妻に嫉妬した場合、暴力は致し方なしとなることに 驚きを覚えた。そして様々なニュースで取り上げられてきた”何か起きてからでなければ動けない”だった。 そして決行を決めた前夜、確認のために外のプランターを覗きに行った。 すると、貯めていたお金も、袋に包んであった衣類もすべてなくなってい
どれくらいぶりに来ただろう。 今、自分を描くためにここにいる。 最近の日常は大袈裟かも知れないけれど 毎日、分刻みで気分のムラがあり 自分でも疲労困憊する。 制御の利かない憎悪、飛散する性、満たされない不満。 躁鬱→混合→鬱 のサイクルだが混合状態を抜け 鬱期に突入してる。 だから、完全に浸りきる前に記しておきたい。 毎日、目の前に流れてくるやるべきことを まるでレーン作業のようにこなす。 今の私のパートナーは異国の人。 薬で朦朧とする中、パートナーに求められたこと
ほぼ生活での制限はなくなり、彼の許可の範囲なら自由に行動できるまでになっていた。 相変わらず機嫌を損ねたり、気に入らなければ暴力の後、反省部屋へ行き 彼が呼ぶのを待つ。そんなこともありつつ日常生活を送っていた。 そして、また私はミスを犯す。 子どもの幼稚園で知り合った歳の近い母親と”ママ友”になったのだ。 あの当時の十代の母親と言えば典型的な茶髪にヤンキーに属するような雰囲気を醸すひとが多かった。私は彼に髪型から洋服まですべて指示されていたので”十代のわりに”おとなしめだっ
こんばんわ。有料設定だった記事を解放してみました。不快、精神衛生上よろしくないと感じた方は是非ご指摘ください。 あくまでも自己責任でお願いしたく存じます。
穏やかな日々が続いてる。 声を荒げられることもない、食事もできる。 普通の家庭。 時折、友人と名の付く人たちがやってくる その時は、ごく自然に振舞うように言いつけられる。 それさえ守れば、何の問題もない。 時の流れとともに、私もまた身ごもりお産を迎える。 明らかに彼は、私に満足しなくなっている。 誰かに抱かれた後の私を愛するチャンスがないのだ。 若社長の妻子も里帰りを終え、自宅に戻るとあれだけ威勢のよかった 夜遊びがピタリと止んだ。妻はきっと尻に敷くのに成功した
すでに子供も幼稚園に通い出していたし、日中の3時間程度のパートなら 問題なくできた。相変わらず彼は納得していなかったが、”吐いた唾は飲み込めぬ” 状態だったんだろう。適当に理由をつけて辞める算段はついていたようだった。 駆け落ちして住み込みで働いていたラーメン店の時とは違い 自身も成長したのだろう。毎日が楽しくやりがいもあった。 絶対に家事は疎かにしないと約束もしていたが何も苦にはならなかった。 そして3ヶ月が過ぎたあたりの頃 「いつまで続けるつもりだ」と声が掛かった。
あれから数日後、大きなビジネスバッグを抱えた”営業主任”の肩書を持った男がやってきた。 リビングで汗を拭いながらファイルに綴じられた何かを一生懸命、彼に見せていた。そのうちの2枚ほどを手に取り”じゃ、行きましょうか”と満面の営業スマイルで立ち上がった。 車で20分ほど走ったところにある閑静な住宅街。 ドンつきの角には小さな公園。2,3歳の女の子が遊んでる。 角を曲がり数件やり過ごすと”売物件”とプレートが掛かったカーポート付きのなかなか立派な家だった。 裏手には小さな庭が