#前兆
ほぼ生活での制限はなくなり、彼の許可の範囲なら自由に行動できるまでになっていた。
相変わらず機嫌を損ねたり、気に入らなければ暴力の後、反省部屋へ行き
彼が呼ぶのを待つ。そんなこともありつつ日常生活を送っていた。
そして、また私はミスを犯す。
子どもの幼稚園で知り合った歳の近い母親と”ママ友”になったのだ。
あの当時の十代の母親と言えば典型的な茶髪にヤンキーに属するような雰囲気を醸すひとが多かった。私は彼に髪型から洋服まですべて指示されていたので”十代のわりに”おとなしめだった。
この頃には携帯電話も持ち、多少の自由があったため
ママ友の家へ遊びに行くこともあった。
そしてたまに少し遠くへ出掛けることも。
この何ヶ月もかけて、少しずつ緩和されていく束縛の中
私はあの夕飯を共にし身体を重ねた日の彼と続いていたのだ。
完全に身体だけの関係だったが純粋な快楽は得られた。
滅多に会えないが会うのはもっぱら彼らのような外国労働者用に支度された
安アパートだった。
波風を立てず過ごしてきたのは、このためだ。
僅かな日中の数時間だけが私の癒される時間だった。
しかしこんな蜂蜜をくすねるような行為はいつまでも続かない。
ある休日、しばらく義母の所へ子供たちを泊りに行かせるというので
ちょうど連休だったし、ゆっくり過ごせるなくらいに思っていた。
2時間ほどするとガレージに車が入る音がした。
「あ、帰って来た。もしかしたらどこかへ出掛けたりするのかな、、、」
なんて呑気に考えていた。
「おかえり」そう言って出迎えると
ちょうどリビングからガレージが見えるのだが、シャッターが下ろされた。
そして振り向きざまに平手がとんできた。
私も多少は学んでる。察知した。“バレたんだな、、、”
「お前が出掛けてると言ってる日はどこまで行ってる。一体誰に会いに行ってる!?」
「どこにも、、、」
「俺は必ず走行距離をチェックしてる。嘘はつくな。」
”そういうことか、、、”そして義実家に預けられた子供たち、シャッターの下りた窓。すべてを理解した。
”殴られるだけじゃ済まないかもしれない、、、”
あの日から数回、彼と会っていたことを正直に話すと
彼に電話をし「人の女房に二度と手を出すな」と言って電話を切っていた。
不謹慎だが ”それをお前がいうのか?最初に関係を持たせたのは誰だよ”とも感じた。
朝からビールを煽り、待ち受けているのは最悪の結果だけだ。
おもむろに立ち上がり段ボールや袋に色々詰め込み車へ運びだした。
”私、、、放り出されるのか?”
作業を終え、私を見下ろしこう言った
「俺がこれだけ愛してるのに、どうして裏切る」
殴っては休み、殴っては休みを繰り返し、気付けば夜になっていた。
シャツと下着姿にだけなって眠るよう言いつけられ
そしてまた私の居場所が、あの2階の部屋になる。
傷が顔に集中してる、、、しばらく外へ出す気はないんだな、、、。
朝を迎え、車のエンジン音がした。
珍しく起こさなかった、、、なんでだろう。朝食どうしたのかな。
そう思いながら2階の出窓から彼の車を見送った。
何故かそっと下へ降りリビングを覗くと彼の昨夜の食べ残しがテーブルにあった。そう言えば何も食べてない。食べ残しをさらえて、部屋を見渡した
何かおかしい。でも何だろう。
一番初めに気付いたのは固定電話だった。
電話がない。
電話台の下の引き出しに入れていた小銭やテレホンカード
通帳、印鑑の類もすべてなかった。
すぐに2階へ駆け上がりクローゼットを見たが空っぽだった。
私のも、彼のもすべて。
状況を理解しつつもまた1階へ。玄関を見ると
靴が一足もない。
物理的に外へ出られないようにしたのだ。
”たから裸同然で眠らせたのか、、、”
こんな非現実的なことが自身の身に起こってる。
これは普通なのか?みんな本当は、旦那さんが怒るとこうなるのか?
何時間経ったのかわからないが自転車のブレーキ音が聞こえた。
彼だ。
通勤は車でしているが中道を抜ければ自転車なら10分もかからない。
彼の見回りの時間だ。
玄関が開く音。
ただ恐怖でしかない。
和室の隅で怯えていると
「家事以外は上にいろ。あと、逃げようなんて思うなよ。絶対無理だから」
そう言うと彼はまた仕事へ行った。
日中数回、そうやって自宅へ様子を見にくる。
年齢を重ねると、頭の中身が無いなりに気付くようになる。
”やっぱり何かがおかしい”と。
子どもたちは義母の家から幼稚園へ通っていたので不審に思う人もいなかった。
雨戸がすべて締め切られた暗い部屋で、ただ彼の日中の見張りと
帰りを待つ。
そんな生活の中、何度か子供たちに会わせてもらえる。
精一杯、傷を隠し笑顔で会う。唯一幸せな時間。
それでもわずかな傷を見つけた私の小さな男の子は
「ボクのせいでママは痛い痛いしてるの?パパがね、ボクがかしこくしないからだって。それだったらボクしんでもいいよ。」
25年以上も前、発達障害なんて言葉は今みたいにそこら辺に転がってはなかったし、病院を転々とした。私の何がいけないのか。どうすれば”普通”の子どもになるのか、、、。当然、彼もその特性を受け入れ難い人だった。
共に食事を摂ることも毛嫌いし、私と小さな男の子が普段過ごす部屋は、あの2階の反省部屋だった。
その言葉を聞いて、私は初めてここに居てはいけない。
”逃げなければならない”と感じた。
それからはただじっと彼の機嫌を損ねないよう、前より一層気を付け
気配を消した。
飼われているんだと自身で自覚させた。
殴られれば黙って耐え、愛されれば精一杯喜んで見せた。
たまに彼がシャワーを浴びている時に彼の小銭入れから100円、200円と少しずつくすね、玄関脇の大きめのプランターの下に隠していった。
そして万が一に備え、ナイロン袋で包んだ服一式もプランターの土の中に隠した。
必ず、その時が来る。それまでの我慢だ。
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