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noteを3年続けた先に見えてきた世界

noteを書き始めてちょうど3年経った。
ちょっとだけこの1年を振り返ってみようと思う。

そうか、3年か…。

最初にこの記事を投稿したのが3年前の5月25日。

毎週1回、月曜日にアップして今回で157週目。
この日から3年。

1年目を終えたnoteを改めて読み返してみた。

この頃はあまりにもつらくて、泣きそうにながら書いていた。
とにかく毎週全力だった。
毎週全力で書いて、仕事にも支障が出て、大変なことになった。
大変で、しんどくて、でもだからこそやり終えたときの達成感がすごかった。
1年だぜ、1年続いたんだぜ、やった、やったよ、ってこんな達成感は人生でもそんなに味わったことがない。このとき、この瞬間にしか味わえないものだった。
そんな気持ちの盛り上がりが文章として残っているなんて最高!
このとき、あまりにもnoteを続けるのがつらくて、もうやめようと思っていたのだった。

でも「続けることだけが、力なきものに残された唯一の武器」
この言葉に自分で心を奮い起こして「続ける」ことを選択した。

それからさらに2年経った。

正直、書くことはちっとも楽になってない。
理由は単純。手を抜いてないからだ。
手抜きをするなら続ける意味はない。
だから書くことは相変わらず、しんどい。
ほんとに毎週よくこんなことを続けているなと思う。

3年目のテーマは「気楽にやる」だった。

「気楽にやる」…。
言うは易しだ。
本当に気楽にかまえていると、最終的にあせって大変なことになる。
ほんとに気楽にやるなら、やめちゃうしかない。
でもできるだけそのカードは切りたくない。
あまり深刻になりすぎず、それなりに真剣に、
気楽にやるためには、気楽にやるための方法が必要だ。
試行錯誤した結果行き着いたのが二度に分けて書くことだった。

実はわかっていたことだった。
いきなり書いて投稿しようとするから大変になる。
いったん余裕のある状況で、とりあえず雑でもいいから最後まで書き上げる。
適当にヘッダー画像もタイトルも付ける。
それを一度寝かせて、読み直してもう一度きちんと書いて投稿する。
ようは「事前にやっておく」という、それだけの簡単なことだったんだけど、これをなかなか実践できなかった。
だって書くのは面倒だし、好きじゃないし、できるだけ向き合いたくない。
わかっていても、なかなか実行できない、それが人間だ。

「事前にやっておく」が自然に習慣化できたのは、朝の習慣を変えたからだった。

あまりにも仕事が忙しくなりすぎて、朝の習慣を変えることにした。
朝、起きたら朝一でやるべきことを全部やってしまう。
いちばん大事な仕事、いちばん面倒な仕事、その日のうちに片付けなきゃいけないあらゆること、そういうのを朝起きたらまず全部終わらせてしまう。
半年ほど前から朝の習慣をそんなふうに変えてみた。
これで1日の充実度は爆上がりした。
朝すませることの中に「noteを書く」も組み込むことにした。
これで意外にすんなり、「noteを2回に分けて書いて朝のうちに終わらせる習慣」が身についた。
日曜の朝に一度最後まで書く。
翌日、月曜の朝に書き直して投稿する。
平日は忙しすぎて時間に余裕がないので、2度に分かるなら日曜しかない。
日曜まで「文章を書く」なんてしんどいことをするのは、気楽ではない気がしてたけど、まる1日つぶすのではなく、朝の時間だけ使うと決めておけばそれほど負担には感じないことがわかった。
負担になるどころか、朝いちで困難なことを乗り切ることで、その後気分よく1日が過ごせることもわかった。
月曜はnoteだ…。
という週末の憂鬱な気持ちにこれでグッバイできるようになった。
一度書くことで、書かない時間にも脳がそのことをしっかり考えてくれるので、メリットしかないこともわかった。
改めて、朝一で全部やる習慣は本当にいい発見だった。

気楽にやるためには、準備をしっかりしておくこと。
そういうことなのだ。

かつて会社員時代、月曜日がいやだった。
あの頃の自分にちょっとだけおしえてあげたい。
日曜日の朝に翌週の大変なことを少しだけ実行しておくと気分が楽になるかもしれないよって。

ただ、ときどき暴走して楽にならないときもある。
例えばこれ。

この投稿、日曜の朝に思いつきで書き始めて、月曜の夜までひたすらずっと書き続けていた。
何もない状態から2日でよくこれだけ書いたなと思う。
いま考えたら4回くらいに分けて書けばいいのにと思うのだけど…
いったんドライブがかかると止まらなくなる。
そういうときはアドレナリンにまかせて燃えつきるまで走るしかない。
全力でやりきること、毎日全力で走りきることが、じつはいちばん生きやすい方法だという気づきもあったので、走れるときは、ただひたすらに走る。

考えてみると、3年目もそういう発見にあふれた1年だった。

この1年での最大の発見は自分の趣味に気がついたことだ。
わたしにとって「継続は趣味」だった。

毎日やってるジョギングとか、ダンスとか、何でこんなことずっとやってるんだろうって、理由を考えたらなんだかバカバカしくなったりしてたんだけど…だいたいやってることに理由なんかないから説明できないし…
そんなときに降ってきた気づき。
「継続は趣味」この気づきで生きるのが楽になった。
別に理由なんかいらないんだ。だって続けること自体が好きなんだから。
それでいいやって思える、これは最大の発見だった。

だから、毎日1冊本を読むことにも別に理由は必要ない。
これはただの趣味だ。
なんでそんなことやってるのか…その意味は考えないままはじめてみたけど、やってるうちに、その意味はつかめてくるし、つづけるうちにそれはどんどん変化していく。
1年目は世界のレイヤーを厚くしていく「発見の読書」だった、そして2年目は当たり前に出会い直す「気づきの読書」に変わった。
つづけることで意味はみつかる。
だから最初に意味も目的もいらない、そう思う。
ただなんとなくやってみる。
それをつづけていくうちにそこにぼんやり何かが浮かび上がってくる。
それでじゅうぶんじゃないか。
あらかじめ理由や意味があることがわかってはじめることに、実はそれほど意味はないような気がしている。

毎日ダンスの練習をすることも趣味だ。
仕事に行き詰まったので、なんとなくはじめたことだった。
何でダンスなのか…理由なんか特に必要ない。
ただやってみたら、求めていた気づきはすべてダンスの中にあった。
見よう見まねでマネてみる、それをひたすら繰り返す、できなかったことが、できるようになっていく。
できなかった何かを習得していくためには練習を繰り返すしかない。
修練の積み重ねが確実に前に進む力になる。
それを教えてくれたのはダンスだった。
そんなことは何か本を読めば書いてありそうなことだけど、自分の身をもってそれがわかった。
こんなことがあるのか、という大きな気づきだ。

食べた納豆の記録を残すことも趣味だ。
ただ何となく毎日食べていた納豆。
世の中にはどのくらいの種類の納豆があるんだろう。
なんとなく記録をつけてみた。
それからひたすら違う納豆を探してスーパーを渡り歩く楽しみができた。
ネットで調べればすぐにわかりそうだけど、自分の足で探して、自分の舌で確かめて、コツコツと記録をつけていく。
なんだ、納豆ってこんなに奥が深くて楽しいものだったんだ!
こんなところにもセンスオブワンダーはある。
世界の面白さに気づくために「記録することからはじめる」これはとてもすごい発見だった。

映画やドラマの中に出てくる小道具の本を記録するという趣味もずっと継続している。かなりの数になってきているのでまとめないと…と思いつつ、ただ記録するだけになっている。去年はドラマ「silent」の1話に出てきた本が何だったのか…それが気になって気になってしかたなくて、仕事に手がつかなかったことがあった。

もともと趣味だったはずなのにいつのまにか自分の中から消えてしまっていたことに「マンガを読む」があった。
ここ何年もきちんとマンガが読めてなかった。
あんなに好きだったマンガをいつの間にか読まなくなるなんて、自分でも衝撃だった。
「好き」を取り戻すために、毎日読むことにした。
1日、1話必ず読む。
1日にすることはとても小さい。
でも確実に毎日続ければそれは大きなものになっていく。
1週間で単行本1冊分くらい。月に4、5冊。
たったそれだけのことだけど、好きなところにまた少しだけ戻れている。
好きなものを好きでい続けるためにも小さな継続の工夫が必要だ。
これも大きな気づきだった。

毎日掃除をする。これも趣味になった。
掃除はもともと大嫌いなことだったのに毎日やっているうちに好きになっていた。
最初はイヤイヤやっていたことだったけど、やり方を自分で考えながら、ずっとやっていくうちに自然とそれが自分の一部になっていた。
ここは見えないけど汚れやすいところとか、これはこのやり方できれいにできるとか、掃除ってじつはゲーム的で楽しいものだったりする。
大切なことは「やらされ」感から脱却することにある。
そのために必要なのは「自分で考えて自分でやる」ことだ。
「自発的にやる」「教わらない」じつはこの2つが大事なんじゃないかと最近思い始めた。

何かを好きになるには時間が必要だ。
時間をかけて、自分の頭で考えて、向き合い続ける。
すると人はそれを好きになる。
苦手は時間で克服できる、かもしれない。
そのことを実感したのが掃除だった。
つまり「継続」は世界を変えるための最大の方法かもしれないのだ。

時間をかけたという意味では、認知症になった母の生活のサポートは一番時間をかけたことだった。
いまだにどうしていいかはわからないことも多いし、なにができるかはわからないけど、できることはただ一つ「きちんと向き合う」ってことだ。

真剣に取り組んでいることと言えばやはり仕事だ。
フリーランスの仕事は自動的に続いていくものではないので、どうやったら無理なく続けていけるのか、日々試行錯誤して実践して改善していく、継続と習慣の実験場のようなものだ。
毎日、改善しながら前に進めていく。
いちばん継続のしがいのある最大の趣味の一環かもしれない。

毎年やってる写真展は去年で19年目だった。
20年前にいきなり写真を展示することが決まって、慌ててカメラを買ったのが始まりだった。
そうか、あれから20年経ったのか…。
今年もまた8月に写真展やります!

 写真展のために毎日写真に向き合う時間も作っている。
忙しい中でまとめて写真展の準備に時間を割くことが難しいので、毎日15分くらい写真に向き合うことにした。
毎日15分、ブログに貼るために自分の写真に向き合う。
この習慣もこれも7年半続いている。

ずっと続けているジョギングは、記録を始めてから2万キロに到達した。
地球の裏側まで行ける距離。
2万キロ走ることは超人のワザだけど、積み重ねれば人はその距離に到達ができる。
走っているのは1日4キロ。
ざっと5000日かかる計算だ。
あと半周して戻ってこれるのはいったいいつなんだ。

小さく継続して積み重ねる。
そのことが確実に前に自分を進めてくれる。
それだけが凡人が天才に近づく唯一の方法だと思っている。

最短で何でも達成する方法も世の中にはあるかもしれない。
しかしそうやって達成した成果には感動はない気がする。

ゲームをやっていても思う。
どうしても倒せない敵やどうしてもクリアできない面にでくわす。
無敵モードやチートで強くしたキャラでクリアしたら楽にそれは乗りこえられる。でもそうるとそれはただの作業になる。
じっくり時間をかけてレベルを上げたり、何度も死んでコツコツと繰り返してうまくなって、そうやってクリアしたときに初めてゲームを面白いと思うはずだ。

小さく積み重ねる。
面倒くさそうだし、大変そうだし、一見つまらなそうに見えるけど、じつはその面倒くさくて、大変そうなことが実は、人生を面白くする手段だったりもする。

面倒くさくて大変なことをやるのは実は楽しいのだ。
だからこの面倒くさくて大変な、毎週noteを書くということをまた1年続けたのだなと思う。

こうして書くことで、そのことを自分の中に発見する。
書き始めたときには見えてなかった言葉が、書き終わると見えている。
そうやって自分で自分を発見している。
書くということは、そういうことなのだなと思う。

3年経っても、正直ちっとも書くことが楽にならない。
相変わらず面倒くさくて、大変だ。
でもだからこそきっと、意味が生まれるのだと思う。

3年目を振り返ってみて、見えてきたのはそんな当たり前のことだったりする。

とにかく、3年間、よくがんばりました!
えらかったね、自分。

来週からどんなふうにしていくかは全く考えてないので、また同じように続けていくような気もするし…どうなるかはそのときにならないとわからない。

それでは、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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