記事のタイトルに『小説』とつけるか否か。
わたしの受け取り方の問題かもしれませんが。
ある文章をnote界隈で拝読した。
恋愛に関する話だ。
作者の方が、友人のネガティブな恋愛話を聞き、文章の中で自分の意見を縷々述べていた。
なお、そんなに重々しかったり、泥沼の話ではない。
──── ああ、誰にでも、こういう行動や感情があるものかもしれない。
どこか安心感を持ってしまった。
この安心とは、あらゆる人が常に品行方正で美しいわけじゃない、そうせざるを得なかった事情があって、心に隙間風が吹いてそれに流されることもある、それが人間だ、という共感だった。
──── ところが。
文章の最後に、『 #小説 』とタグが表示されている。
……… え?小説なん???
作り話だったの??
エッセイでなく??
……… エッセイかと思い込んで読んでいた。
書き手目線で、主語は『 私 』の文章だから、なおさらそう読めてしまった。
エッセイなら、一応書き手の身のまわりの実話と取れる。
だから、共感したのだ。
作り話となれば、話は別もの。
事実に基づいてる可能性もあるとはいえ、小説と銘打っているなら、ノンフィクションと明記されない限りそれはもう作り話なんだから。
作り話を現実と照らし合わせ、あるあると共感できることもあるだろう。
ただ、わたしが読んだ文章から抱いたものは、願望と安心。
人それぞれの日常があり、すべての人のそれが穏やかで幸福に満ちているとは限らない。
いい時も、悪い時もある。
運のいい人も、よくない人もいる。
行いが正しい人も、そうでない人もいる。
願望といっても、誰かが不幸になればいい、という歪んだ願いごとなんかじゃない。
それが人間で、色んな人がいるのが自然なのだ、という結論に同意できる材料が欲しい、そんな望み。
そして、ポジティブ・キラキラ系noterさんとは違ってどちらかといえば陰キャなわたしは、その文章から人間社会の本来の姿にnote界で触れて、どこか安心したのだ。
それが、架空の話とわかったことで、この感情がふっと消えてしまった。
結局は架空の夢物語か、と空振りになったような虚しさと淋しさが湧いた。
色んな文章が飛びかうnote界だからこそ、タイトルや文章で明らかに作り話とわかるものでなければ、『 小説 』だとわかるよう最初から明記した方が、もしかすると親切かもしれない。
逆につけないことのメリットは、なんだろうか。
小説だと先に知らせたら、作り話という前提を読み手に持たせてしまう。
日常生活を題材にしているなら、伏せることでよりリアリティが出る、のかもしれない。
今回のわたしのように、実話かと思ってしまったのだから。
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