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今日言われた”化粧”と”社会人”についての反論文


こんなことを言ったら、朝頑張って早起きして鏡に向かっている人に怒られてしまうかもしれないけれども、女性が化粧をする本当の意味ってなんなのでしょうか。



何日か前にここに記したように私はコスメの数が比較的少ない。その理由は、コスメは自分の満足感を高めるためのものだと思ってきたからであり、私にとってその満足感を高めるものがコスメではないからだった。でもそれはあくまで私の見解であり、コスメに満足感を覚える人にとっては宝の存在なんだということを理解しているつもりだ。


ただ今日信じられないことに私の顔を覗き、化粧気の無さに対してとある発言を受けたのだ。「女ならもっとしっかり化粧をして社会人としての自覚を持ちなさい」と。もうその言葉を聞いて私は頭が放心状態からやがてカチン状態に変わり、暫く何も手付かずで非常に悔しい1日だった。今は自宅でコーヒーを飲みようやく落ち着いて、どうしてその言葉を言われたのか冷静に分析している最中である。その発言を私に投げた方は年上の方なんだけれども。ここで発言することも場違いだとは思いつつ、それでも大きな意味のあることだと思った。


「社会人としての自覚」と「化粧」が結びつく理由が全くわからないのです。


〜〜〜


お化粧を綺麗にしている人は本当に素敵だと思っている。特に季節によって新アイテムを取り入れるような人は流行に敏感でアンテナを張り巡らせていて、憧れに近いものがある。それでも、化粧を「する・しない」「濃い・薄い」は好みであり、それこそ選択の自由なのではないか。


まず、選択の基準としては化粧品はどうしてもお金がかかるものだ。コスパの良い商品が数多く出ていることは周知の通りだけど、コンビニのATMの手数料よりははるかに高い。何に対してお金を使うかはその人の環境・思考によるものだから強制力があってはいけない。そして顔のパーツの個体差、肌の色、目の色全てが違うのだから、みんながみんな同じ物を必要ということではないとも思っている。その人のちょうど良い物を手に出来ればいいじゃないか。好きな自分でいられる化粧をそれぞれの程度ですればいいじゃないか。


何よりも主張したいのは「女なら」というパワーワード。どうして女ならそれが当然と思われているのか。女だから小綺麗にしないといけない、女だから女が一般的に好きそうなことを当然としないといけないのか。


「大人なら社会人としての自覚を持ちなさい。」これなら納得できる。でも「女ならもっとしっかり化粧をして社会人としての自覚を持ちなさい。」というのは、すごく直接的な言い方をしたら見た目問題、そして男受けを意識しなさいと言っているようにしか聞こえなくないですか。冗談じゃない。


私を含め、女は誰かのために生きているわけではない。勿論心の拠り所として異性を求める人は多いにしても、100%そのためだけに生きているわけではないじゃないはずだ。それを上手いように言って「社会人としての自覚」だなんて大きな言葉を使われてしまったら、何を信じて生きればいいのですか。なんだか今日その言葉を聞いた途端、私の信じてきたニュートラルな社会というものが存在しないような、寂しい気持ちになってしまって苦しくなってしまったのだけれど、そうであってはいけないと返って強く思った。


そもそも「女だから」「男だから」はもう死語でしかない。こんなに自由で平等が唱えられている中でどちらかが突出して取り上げられること自体が間違っているのだ。オリンピック問題にしてもニュースでの取り上げられ方が「女性目線」の主張が強すぎている。「男性目線」はいつだって批判の対象になってしまうことも事実なのに、弱い物を弱いままで終わらせない社会の流れが、さらにその二つを分裂させてしまっていることにどうして何も意義が唱えられないのだろうか。


私が今日言われたことは「女」という一つの言葉に物凄く引っかかっているのだけれど、選択の自由、個人の自由、そういう物を念頭にしっかり置いていれば決して「女なら〜」なんて発言は出てこないと思うのに。


だからこそ、しっかり個人を見ていく必要がある。表面でなくしっかり中身を見て欲しいとも思う。社会人としての意識って、決して見た目ではないとここで主張しておきたい。私は今怒り狂っているけれど、明日からも自分に合うメイクをして会社に通うつもりだ。こんなことに負けてたまるか!と火を吹いています。

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ファイヤー







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