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責任あるSNSとの付き合い方

インスタグラムのアカウントを2つ持っている。1つは知り合いとの繋がりしかないアカウント。もう1つは知り合いとは誰とも繋がっていないアカウント。マインド的には両方このnoteと同じく、変に自身を演じることもなく自然体だけれども、どうしてわざわざ二つに分けたのかというと、もっとうまく私なりにSNSを活用したかったからだ。


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小さな町で育った私は、友人を辿っていくと大体が共通の人に辿り着く。誰かの恋人のことは噂ですぐに流れてくるし、結婚した・子供を産んだなんて話は知っていて当然、みたいな小さなコミュニティは確かに安心する空間だけどもいつだって窮屈だった。投稿・ストーリーを上げれば全てを見透かされているような気分をいつからか感じるようになり、もう私が投稿した一番最新のものは2年半以上前のものになる。

変わってもう一つのアカウントでは、投稿を頻繁にするわけではないけれど、自分の興味範囲の世界、或いは全く知らなかった世界が無限に広がる。そしてそれを「誰かに見られるかもしれない・知られるかもしれない」という恐怖を気にすることなくフォローすることができ、さらに深い感心へと入り込めるのだ。


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よく「SNSはアピールの場所だ」という言葉をよく聞くけれど、私はアピールの場所よりも学びの場所を大切にしたかった。自分のことを自己満足で投稿して周囲の認知度を上げていくことと、1日1つ知らなかったことを知っていくこと。それを比較した時に私は後者を迷うことなく選択した。だからもう一つのアカウントをヒッソリと開設したのだ。自分用に。

ただ、そんな気持ちを踏みにじるかのように、嘘の情報や明らかに周囲のリアクションを想定した文章・写真の投稿があるのも事実だ。さらには気が強くなって人を攻撃する人もたくさんいる。それは大きな過ちだ。SNSは自分の顔写真を載せることなく気軽に発信できるから、だからこその見栄なのだろうけど。所詮架空の世界で人を攻撃したところで優越感は一瞬のもので、現実世界では何も手に残らない。ただの時間のロスと、意地悪さを醸し出すだけだ。


ふと、このnoteを利用し始めた時よく書いていた言葉を思い出した。「誰も傷つけることなく自分のただの思いを記録しておきたい」。それはいまだに難しい事で、注意して記録を毎日残してきたけれど、どれだけ意識したものであっても感じ方は人それぞれだから誰かにとっては痛い言葉になってしまっているのだろうとも思う。

でも、特定の人を傷つけたくて私はこのnoteを始めたわけじゃなかった。それはインスタでもLINEでもTwitterでも、Youtubeのコメント欄でも同じで。私の今までの小さなコミュニティを抜け出したその先であったとしても、人を攻撃するようなことだけは極力したくない、という気持ちは何一つとして変わっていないのだ。


SNSとの付き合い方、その目的は一人一人違う。特に意味を持たず利用する人も多いだろう。でもその付き合い方、使いこなすためには責任があって、その責任を果たしながら私は自分なりの学びの場としてのSNSを楽しんで利用したいと思っている。


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