【ハーブ天然ものがたり】インド菩提樹
菩提(覚者)の木
日本で菩提樹とよばれる木は大別するとクワ科イチジク属と、アオイ科シナノキ属があります。
菩提はサンスクリット語の「budh」が由来で「覚醒する」「転じて知り尽くす」「完全に理解する」という意味をもつそうです。
釈迦がその木のしたで悟りをひらいたことから仏教三大聖樹のひとつとされ、菩提樹の名で釈迦の物語を伝承してきたのはクワ科イチジク属、学名 Ficus religiosaだろうと伝承されています。
ボーの木、ボーディの木、ピーパルの木など呼び名はいろいろありますが、日本ではインド菩提樹とよばれており、熱帯地域でよく生育し、大きいものでは30メートルをこえる大木になります。
仏教三大聖樹、無憂樹、菩提樹、沙羅双樹のうち、無憂樹はアショカの木とも呼ばれます。
釈迦入滅後のBC250年ころ、古代インドで仏教を守護した王はこの植物にちなんでアショーカ王と呼ばれました。
アショーカ王はインド大陸をひろく統治した王として有名ですが、アショカ王の柱とよばれる碑文つき遺物(柱や塔)をたくさん建造したことや、ダルマ(インド発祥の宗教やインド哲学において中心となる概念)を政治の軸にそえて国を統治したことでも有名です。
釈迦の生誕、菩提、入滅の地をしめす、天地をつなぐようにそびえる柱や塔は、釈迦が肉体をもって地上世界を生きた証となり、後世に「菩提」という概念を植えつける支えになった印象がつよいです。
アショーカ王は治世11年目にブッダガヤの菩提樹をたずね、釈迦の入滅後にたてられた塔から仏舎利をとりだして、あたらしく数万の塔に分納したと伝えられています。
現代ではアショーカ王の碑文とよばれる柱や塔は、アフガニスタンからインド南部の広域にみられるそうで、それはきっと聖樹と呼ばれる樹々とともに、お釈迦さまが地球世界との往来につかう、おおきなきざはしとなっているのではないかと妄想たくましくしています。
仏教三大聖樹のもうひとつの樹、インドから東南アジアに分布する沙羅双樹は、温帯地域では越冬できないので、日本の場合夏椿を沙羅双樹と呼ぶようになったそうです。
インドにつたわるほんとうの沙羅双樹は2本の沙羅の樹という意味で、釈迦の入滅時に、東西南北に2本づつあった8本の沙羅樹がいっせいに花を落とし樹皮が白く変化した伝説から三大聖樹のひとつとされました。
東西南北を四大精霊、火、風、水、土元素をあらわすものとするならば、シュタイナー説の、人が死後すぐに出あうとされる境界の守護霊を彷彿とさせます。
地上生活で情熱(火)、知性(風)、愛情(水)、物的体験(土)をあますところなく経験してつかいはたし、4つのバランスがととのうと境界の守護霊は扉をあけてつぎのフェイズに通してくれるといいます。
もしもなにかが突出して、なにかが不足していると、境界の守護霊はみるもおそろしいモンスターの形相で行く手をさえぎり、エネルギーは過不足そのままの種子となりつぎの人生に蒔かれる、という感じの説明だったと記憶しています。
陰陽をあらわすような2本組となった4方位すべての沙羅双樹が、いっせいに花をおとしたのは、4つの元素からなる地上的体験をすべて完了した釈迦の入滅とともに、たくさんの元素霊が地上世界から解放されたからではないのかな、と妄想はつづきます。
沙羅双樹の木に宿る精霊たちは、地球世界でさまざまな物質体験を経て、釈迦に「見られた」ことでブッダ・フィールドに内包され、いよいよ昇華のときをまつ、より精妙な元素霊たちなのかもしれないな、と。
そんな植物界と四大精霊のかかわりを、まだ幽玄・顕現世界の境界線がいまほど明確ではなかった古の日本人は感じることができたので、梅雨ころの朝に開花して夕方にはぽとりと落ちてしまう、一日花の夏椿を沙羅双樹と呼びはじめたのではなかろうか、と。
四季折々の花鳥風月にこころを寄せていた古人にとって、一日花はとくべつな趣がある植物として鑑賞されることがおおく、人間がこころの目で「見る」ことによって物質から解放される四大精霊の気配を感じとっていたのではないかと想像しています。
平家物語の冒頭にでてくる「沙羅双樹の花の色」は「盛者必衰の理」をあらわすだけではなく、もっとおおきな視点で人間をとらえた、たましいの旅を表現しているように感じています。
境界の守護霊のまえでは盛者のこころもちだけでは通せんぼせされるし、哀者の気分だけでも通しゃせぬわけで、強弱・清濁・柔剛などなど、陰陽一体化しないことには「ひとへに風のまえの塵におなじ」なんだろうなぁ、と。
沙羅双樹とおなじく日本の気候では育ちにくいインド菩提樹も、仏教に縁がふかい木であることから仏教寺院に迎え入れられるのですが、温帯地域の日本では越冬するのがむずかしいということで葉っぱの似ているシナノキ(リンデン・ライムツリー)を植樹して菩提樹と呼んできた歴史があります。
インド菩提樹のしたで釈迦が瞑想していたというのはBC500年頃のこと。
ビハール州のブッダガヤ(当時の地名はウルヴェーラー)にその木はあったと伝えられ、もとよりその時代の人々は精霊が宿る木としてたいせつにしていたといいます。
5世紀ごろのはげしい宗教弾圧によって切り倒されたこともありましたが、切り株から新芽が吹き1500年ほどたったいまではりっぱな大樹となって、さらに枝を挿し木することでいのちをつなぎ、おおきく成長した子孫の樹々は現在もインドやスリランカ各地にみられるそうです。
天然樹の神殿
インド菩提樹はイチジク属(学名 Ficus)に分類整理されていますが、現代の植物学では800種のイチジク属があるとされています。
一般的に無花果の実として流通している食用果実、Ficus caricaは葉っぱのカタチがどくとくで、アダムとイブの腰巻としてイメージが定着した話題性ゆたかな植物です。
イチジク属のなかには観葉植物としておなじみのゴムの木やベンジャミン、ガジュマルなどもあります。
インド菩提樹やベンガル菩提樹とよばれるイチジク属も、日本の園芸市場に流通しており、鉢植えの幼木をお花屋さんで目にすることがあります。
沖縄などのあたたかい地域では、街路樹としてガジュマルはそこここに見られますし、おおきなベンガル菩提樹もよく見かけます。
気根(地上部にある根)を枝からおろし、地上につくとそれが幹となって太く成長する植生は、巨樹の根は「大地にしっかりと固定されているもの」という観念をくつがえします。
ベンガル菩提樹の説明に『仏教では、菩提の象徴がインドボダイジュであるのに対して、ベンガルボダイジュは広大に広がる姿が菩薩の菩提心に喩えられる一方、「形も定まらず、始まりも終りもない」輪廻の象徴ともされる』とありました。
「形も定まらず、始まりも終りもない」ことを「輪廻」とし、釈迦がインド菩提樹のしたで悟りをひらいた伝承をあわせて考えると、「輪廻」は地球を基盤としてなんどもカタチある地上生物に生まれかわることだけではなく、太陽を基盤としてすべての惑星を自在に往来できるような、巨大なプレゼンスのナニモノカになることも含まれるように思えてきます。
境界の守護霊をみごと通過して、これから人類が数百年、数千年かけて進化してゆく形態に、肉体(固体)だけがすべてという概念から自由になる意識やエネルギー体が登場し、それは地に足をつけることのない、空気成分を糧にする生命体なのかもしれないと想像はふくらみます。
樹冠を地上世界の足場と認識している(であろう)インド菩提樹たち。
枝からぶらさがりゆらゆらゆれている気根をみかけると、土元素界にとらわれることなく風元素界を土台にして根をおろしているようにみえてきます。
地球への足がかり(足場)は土ではなく空気中にある、という感じです。
天にすこしだけちかい枝のたかさに根をひろげて、地上世界と天仙界のあいだにきざはしをかける、天使の梯子そのものではないのかな、と思うこともあります。
アショーカ王が遺した柱や、地球世界に分布している野生の菩提樹には、そうかんたんに地に落ちることのないツワモノ精霊が宿っていて、地球世界にセットされた出口のみえない迷路を突破する、扉機能を守護しているのかもしれません。
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