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1970年代のパソコンとテレビ放送が始まるまでの2年間

ここは奈良県天理市。
約1500年前に築造された“東大寺山古墳”を目の前に眺める“シャープミュージアム”。

国内外から来訪くださる様々なゲストを110年の時間旅行へとご案内するのが私の日常である。


現地に訪れたことがないあなたにも、
ミュージアムでのわずか一コマの奥行だけでも、感じていただきたくて
noteに書きとどめている。


今回の物語では、(おそらく)多くの現役社員ですら
【謎】な展示品が登場する。

あなたには、謎が解けるのか、ゲストはどんな反応をしたのか…
読み進めていただけると嬉しいです。

________


第2話では、小学生たちの柔軟な感性を、みなさまに共有した。

本当は方位磁石を乗せていたお皿だけど、どんぐりが乗っていたって良い。

シャープペンシルにどんぐり
シャープの社名の由来“シャーペンの話”は画像をタップ


子どもたちは、すっかり頭の中が凝り固まってしまった私では、気づかないことを教えてくれる。

そして、早川徳次さんがイケメンだったことに
気づかなかった小学生たちは、
このミュージアムでどんなことに興味を持ち、発見するのか。


シャープの創業者、早川徳次
小学生たちには興味を示してもらえなかったイケメンの創業者パネル


さらに、小学生の気づきに、周囲の大人は何を思うのか。





ー 暗号キーボードの迷宮へようこそ ー


「ところで、みなさんは、ラジオを見たことがありますか?」


「あるー!」
「おじいちゃんが持ってる!」

(そっか、良かった。ラジオの話は抑えておこう。)




「ラジオは何をするものかな?」


「音楽を聴く。」
「ニュースを聞く。」



「そう、ラジオは“聴く”ものだ!と思われていますよね。
でもね、早川さんはちょっと違いました。」



「えっ?」


ほとんどの子どもたちと、そして先生も、こちらに注目する。

「どーゆうこと?」っていう、笑ってなくて怒ってもなくて、
ひどく困っているわけでもない表情。


一瞬の困惑をここにいるみんなで共有する。



「ラジオを聴くのは楽しい。だけど、その前にもっと楽しめることがある。」


「それは?・・・ラジオを?・・・」




ん?????

(これはなかなか答えが出てこない。先生からも出てこない。大人にとっても難問らしい)



この空間がまるで停電になったかのように、しばし時間が止まる・・・


・・・・・・


(画面の前のあなたにはわかるだろうか)
ラジオは聴く前にもっと、楽しめることがあります。
それはなぁ~んだ??





考えていた、子どもたち。






「ラジオを・・・つくる?」


(っていうつぶやきが聞こえたような気がする。)



「すごーい!正解っ! 拍手―」
(誰が正解したのか、誰を拍手で称賛しているのか、もはや不明だけど。。)


パチパチぱちぱち・・・・停まっていた空間に再び明かりが灯ったように、
子どもたちも先生も、目が覚めたようだ。



「そう、正解はこちら、組み立てラジオ!」

聞き手にしっかりと視認してもらうために、全神経を一瞬集中させた私の左手の先に子どもたちの視線を集める。

昭和のシャープ組立ラジオ
(左)説明書  (右)キット販売部品使用の組立ラジオ



「みなさんは、“ディー・アイ・ワイ” って聞いたことありますか?」


「あ、なんか聞いたことあるかも。 えっと、イスとか作るやつ?」


「はい、そうですね!
“D・I・Y  Do  It  Yourself 
じぶんでやってみよう” っていう意味ですね。」


「早川さんは自分でラジオを作ってみてラジオの仕組みもわかるようになったし、実際に自分で作ったラジオから音が聴こえたとき、とても感動したそうです。
この喜びと感動を、たくさんの人に知ってほしいと思ったんですね。」


「そこで、まだラジオのことを知らない人が多かった時代、自分でラジオを組み立てることができるように、
説明書と一緒に部品一式をセットにして、
“自分でつくってみよう!”という“組み立てラジオ”として販売しました。」


1931年(昭和6年)にリリースしたアイデア製品だ。


“キット販売”という手法は、この約50年後、
新規事業へと参入する際に大いに役立つことになる。



“あ、ヘルシオミールキットのこと?”
(と、旬なひらめき力をお持ちの方、ありがとうございます!)




― 時代はもっともっと、さかのぼる ー

ガンダムのプラモデルとか、電子工作キットが脚光を浴びるよりも、もうちょっと以前。


令和を生きる多くの人たちには【謎】な、アレが現れる。

昭和レトロのパソコン、MZ-80Kのキーボード、ミステリー
【謎】




1970年代後半のころ、
大手企業は大型コンピュータから既にパソコンの開発に力を入れていた。

シャープはパソコン市場への参入が一歩遅れたが、
1978年に“MZ-80K”というパソコンをキット販売して話題となった。

MZ-80K、キット販売のパソコン
当時の価格は198,000円


この風貌で パソコン と言われてもあまりピンとこない。
お会計をするレジスター?
(年齢層によっては)ワープロ??

そんな風に感じるかもしれない。


しかし、今でもシャープミュージアムのMZ-80Kが鎮座する展示コーナーでは、来場者の世代を問わず、あるいは世代を超えて、
思い出話が始まる場面が少なくない。


こんなふうに人々に愛された製品だったんだね・・・じわじわと心の中が温まる感覚を覚える。


「あんなに厳しかった親父が、初めて買ってくれたのはMZ-80Kだった。」

「これが欲しくて、初めて自分でがんばれたのが新聞配達だった。」

「初めて使ったパソコンがMZ-80Kだった。それで今の自分がある。」

(クリエイターかな?)


「これねー、カセットに記録するのよ。それで、ラジカセで再生したら音がでるでしょ。
ピーひょろろろーぴー とか。
その音をまた別のカセットに録音してね、
パソコンに入れるとプログラムが再生できるの、知らないでしょ?」

(確かに知らなかったー。ほんとかなー。)





もちろん、小学生にはこの時代の思い出はない。
しかし、時にはこういうこともある。



さっきまで子どもたちの向こう側で
あんなに静かに微笑んで見守っておられた少し年配の先生が、
いつの間にかMZ-80Kの前まで来られていて、
昔の思い出を鮮やかに披露してくださるのだ。


「これこれ、このパソコンはねー、面白かったのよー。今のパソコンとカタチも違うでしょう・・・・」


この時の先生は、周囲で静かに耳を傾けている子どもたちと同じように
キラキラと輝いて見える。



そして、キラキラ輝く年配の先生に、群がる子どもたち。

ナニコレ~????



そう、子どもたちと(多くの大人も)、二度見するこの展示品。

昭和レトロのパソコン、MZ-80Kのキーボード、ミステリー
「MZ-80K」の暗号のようなキーボード(一部) 


謎のキーボードを見た子どもたちの目も
年配の先生に負けないくらい、キラキラと輝いてまぶしい。

暗号のようなキーボードをどう使うのか?


令和を生きる私たちは、想像力が試される。
あーでもない、こーでもない と皆さんの妄想(?)を聞いてみたい。

(もしも、正解を知っている人がいたら…あなたは筋金入りのパソコンマニアに、ちがいないです!)





シャープミュージアムの開設から40年余り。

この間、どれほどたくさんの思い出が、このフロアで披露されてきたことだろう。

先生と子どもたち、ベテラン社員と新入社員、祖父母と孫・・・
ジェネレーションギャップとかいうけれど、
ここでは年代の違いがあるからこそのコミュニケーションが展開される。


その代表格がツインファミコン。

ツインファミコン、高橋名人とシャープ、ツイファミ
あー!懐かしい!と叫んだあなたに乾杯!


まずは小学校のクラスに何人か
「うわ、タカハシ名人やー。すごい連打する人!シャープの人だったの?」


(高橋名人はシャープがツインファミコンをリリースした頃のイメージキャラクターだったらしい)
※「高橋名人」は株式会社コナミデジタルエンタテインメントの登録商標です




「おー〇〇さん、高橋名人を知ってるの?」
と校長先生。


「誰?それ?」
と若めの先生。


「えっ?せんせー知らんのぉ?」
と小学生。




ジェネレーションギャップの3層構造だ。
世代を超えて人々の思い出の中に存在する 高橋名人は偉大だ。


そういえば、パンフレットを展示する前に、
名人に恐る恐る電話したことを思い出す。
電話の音声だけなのに、第一印象がものすごく親しみやすく、
以前からの知り合いのような安心感があった。

数十年を経た、令和の時代にも
世代を超えて親しまれるキャラクターなんだなーとしみじみする。




ジェネレーションギャップに加えてもうひとつ。


言葉の壁があるからこそ、心底楽しいコミュニケーションの時間を共有できる場面もある。


それは確か昨年夏、3世代のご家族5,6人で来場くださった。
私が話し出すと、キリッと賢そうな高校生のご子息がつぶさに手話通訳してくださる。
慣れた感じのテンポの良い通訳だ。


けれどもところどころ、真空管とか蓄音機とか、
現代の日常では使いなれない言葉で立ち止まる。


すると奥にいた瞳のきれいな大学生のお嬢さんが、
入れ替わり、続いて手話通訳してくださる。
見事なチームワークで。
(こちらはまさに、手話通訳名人!)


“このチームに入りたい”

そう思うほど、鮮やかなチームワークだ。


いや、このチームに入っていた。あの日。



初めのうちは、ゆっくりわかりやすく、簡潔に、
あまり多くの情報を発しない方が良いのではないかと遠慮気味にご説明していた。


しかし、頼もしい姉弟とそのご両親、そのまたお母さまも、
終始愉快に笑いながらアップテンポ気味の手話で対話されていた。


そこにいると、こちらも次第に、(なぜだろう)
何を質問されているのかわかるようになってきた。


通訳を介しているのを気にせず、自己流のパントマイムを交えながら、
ご家族の思い出を共有させていただきながら
話が弾み、心地よい時間はあっという間に過ぎていった。


ジェネレーションギャップや言葉の壁があるからこそ、
解釈の勘違いに皆で何度も大笑いしながらの、楽しく愉快なひと時だった。
(あの日、来館くださった素敵なご家族のみなさま、ありがとうございました!あの時間を思い出すだけで、今も幸せな気持ちでいっぱいになります。)



それはたぶん、懐かしい家電、
なるほどーと思えるデモンストレーションなどなど、
皆の目の前にある情報や、思い出や発見を共有して、
「へ―知らんかった!面白い!!」を一緒に体験できた充実感
だと思う。


何かギャップがあるほど、何気ない発見や共有できる情報が膨らんで
ワクワクすることもあるのだ。


ー 時を戻そう。 ー

(このセリフ好き!)

これまで、このミュージアムで小学生たちが興味津々に観察してくれていた展示品…
「早川式繰出鉛筆」「徳尾錠(ベルトのバックル)」「鉱石ラジオ」「真空管ラジオ」と、大正元年から昭和初期に早川徳次が知恵を絞って産み出したmade in Japanの一連は、
平成20年度 経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された。

シャープ、早川徳次、早川式繰出鉛筆、ベルトのバックル、ラジオ、真空管ラジオ



「地域の活性化、日本の産業の近代化に貢献した」と評価された、現代のくらしにつながる道具の数々だ。


公に遺産として認定されるとは、どういう意味があるのだろう?


人々の暮らしや産業の近代化に貢献してきたことに思いをはせる“物”。

…というだけでなく、

・どんな人々が
・どんな思いで
・どんな苦労や醍醐味の過程を経て
当時の人々や社会に受け入れられる完成品に仕上げたのか、
それを普及させるためにどんな行動があったのか。

そんな背景の物語を含めて、
次の世代に広く受け継いでいってください、という意味の公の認定だと思う。


だから、次の世代に広く伝えるために、児童、生徒たちに今日も果敢に伝える。


“地域の活性化、日本産業の近代化に貢献した” 
は、やさしく言い換えると…
人々の生活に広く役立ってきた・・(かな)

“近代化産業遺産に認定された”   
は、やさしく言い換えると…
大切な宝として認められた・・(かな)



(よし、これで行こう!)



「早川さんが創ったベルトのバックルやシャープペンシルやラジオは、人々の生活に広く役立ってきた大切な日本の宝として認められました。」




「へー、すごーい。早川さんすごーい。」 

(ほっ。伝わった)



「ところで、みなさんは、“真空管”って聞いたことがありますか?」



・・・・・?

(突然の見知らぬ言葉に目が点になる子どもたち)



「こちらで、昔のラジオの中を観ることができますよ。」


「ここに並んでいるのが真空管です。
放送局から飛んできた電波の信号を、“増幅”といって、大きい信号にして、スピーカーから音が聴こえるようにしてくれます。」


子どもたちが順番に中をのぞき込む。先生も、のぞき込む。

昔のラジオ、真空管、解体
ぶつかりそうなくらい近くで、のぞき込む


「あれっ? そういえば、ここの展示はガラスの壁がないんですね。」と先生の気づき。



よくぞ気づいてくださりました!
そう、このミュージアムのほとんどの展示品はガラスの壁がない。

シャープミュージアム、博物館、昭和レトロ、テレビ


ざっくりと、100人にひとりくらいの割合で
ちょっとした驚きと共に気づいてくださる来場者がある。


確かに当初、展示品と、見学ゾーンの間にはガラスの壁が入る設計だったらしい。


しかし「お客様とシャープ製品との間に壁を作るな」と、建設現場できっぱりと言い放ったのは、佐伯旭氏。

創業者の遺徳をしのび、その功績を伝えようとこのミュージアムを開設した第二代社長であった。と聞いている。


「そんなこと言ったって、貴重な史料が汚れるでしょう?」と心配してくださる方は少なからずあるし、確かに日々点検して掃除もする。


しかし、「ガラスの壁を置かなかったのは正解だった」と第二代社長の配慮に感謝している。



年間数件お迎えする、視覚障がいのある見学者の方々は、
目ではなく、手のひらで展示史料を観察されるから。




お客様が手のひらで観察されるのに合わせて、言葉で解説を添える。
「…ダイヤルを回してチューニングしていましたが・・・こちらは押しボタン式になり・・・」


お客様の中でリンクすると、笑顔でうなずいて応えてくださる。

そのたびに、「お客様とシャープ製品の間に壁を作るな」と指示したという第二代社長に感謝する。


“早川さんは、なぜ、親族でない佐伯さんを2代目社長に選んだのでしょうか?”

…と問うてくださる見学者が少なからずある。


ミュージアムの説明マニュアルにはその答えとなる記述はないが、
早川の考え方を深く理解し、実践できる人物だったからではないか、と推量している。



ー 再び、時を戻そう。 ー


今、ミュージアムで1931年(昭和6年)当時のラジオの中をのぞいた小学生たち。

彼らの握りこぶしくらいの大きさの真空管が並んでいる。

昔のラジオ、シャープ、真空管、解体、チューニング

チューニングに使うダイヤルの先には“バリアブルコンデンサ”。

「ダイヤルがありますね。これを回すとどうなるのかな? やってみたいひとー?」



どの子も遠慮気味に後ずさりする・・・



と、「では私が。」と、名乗り出たのは、
さっき「ガラスの壁がないですね」と気づいてくださった先生だ。

「チューニングするつもりで、ダイヤルを回してみてください。すると・・・?」


「おー。なんか動いてますね。」



「はい、よく見ると、細かーい、くしのような部品が向かい合って閉じたり開いたりしますね。
今から90年以上前の部品ですけれど、どうですか?」



「うーん、滑らかに動きますね。」




「先生、正解です! そう、90年以上も経つのに、今でも滑らかに動くんです。これが、早川徳次が8歳から学んで身につけた金属加工の技なんです。」


(ぜひみなさまにもここに来て、体感していただきたい!)


遠慮気味だった子どもたちも、順番にダイヤルを回して、
90年を経た今でも狂いの無い滑らかな動きを体感する。


そして思う。
やっぱりガラスの壁が無くて良かった。と。


今ここで、90年余り前の早川徳次の
見事な金属加工の技を体感している小学生たちと、先生方と私。

90年前の今頃は・・・って、
時間軸がよじれて妙だけれど、もしも90年前の創業者と
ここで話すことができたら、ギネス記録級のジェネレーションギャップが、
きっと盛大にワクワクする時間を提供してくれるだろう。


早川さんは言った。
90年余り前。組み立てラジオに人々が夢中になり始めていた時代。

「次はね、音だけじゃなくて、絵や文字も映せるテレビジョンをつくりますよ。」


周囲の人は言った。
「早川さん、やめときな。そんなこと、できるわけがない。」




周囲の人々に大笑いされたから、目立たないようにこっそり研究を始めた。
高柳健次郎先生のお弟子さんと一緒に。


高柳健次郎先生は、1926年(大正15年)、
世界で初めてブラウン管テレビに「イ」の文字を表示することに成功した偉大な博士、
当時、浜松高等工業学校(現在の静岡大学)の教授であった。

その門下生であった笹尾三郎氏を早川金属工業研究所、
のちのシャープ株式会社に迎え入れ、テレビジョンの開発に果敢に挑戦した。


テレビだけに没頭したわけではない。
同時進行で、ラジオの機能性、デザイン性の進化のみならず、56秒に1台のスピードでラジオを完成させる、
”間歇式ベルトコンベア”を早川自ら考案し沢山の特許を取得している。

間歇式ベルトコンベア装置の図面
素人にはなんとも難しい原理図



廻るコマは倒れることを知らず、どんどん回転速度を増していた。


しかし第二次世界大戦中から戦後しばらくは、
テレビ開発の中断を余儀なくされ、欧米諸国のテレビ界に後れを取る。

そして終戦から6年後の1951年(昭和26年)、遂に、ブラウン管テレビの試作に成功する。
直ちに、12型、14型、17型テレビの量産体制を整える。

「はい、皆さん、こちらが、日本で初めて製品になった、14型白黒テレビです。」


子どもたちから次々に声が出る。



「うわー、なんか四角い。」
「箱みたい。」

ブラウン管テレビ、白黒テレビ、シャープ昭和レトロ
価格は175,000円。当時は初任給が高卒で5,400円の時代。


「そうですね。ブラウン管といって、さっき見たラジオに入っていたのより、もっともっと大きな真空管がこーんなふうに(自己流パントマイムでイメージしてもらいながら)入っています。」


「ここで(1951年に)テレビを作るのに成功したけれど、日本でテレビ放送が始まったのはその2年後です。」


「早川さんは、早くみんなのおうちでテレビを楽しんでもらえるようにしたいなーと考えて、
テレビ放送が始まるまでにとても大事なことを準備しました。」


「さて、みなさんなら、その2年間で何をしますか?」


「えーっ、なんだろー・・・」


「ヒント! 早川さんはとーっても心配でした。」


この後、小学生のみんなはそれぞれ考えて多彩な企業家マインドを見せてくれる。



自分がもし、この時の早川さんならどうするだろう・・・?


あなたが早川さんなら、テレビ放送が始まるまでの2年間、どんな準備をしますか?


このあと、小学生のみんなはどんなアイデアを教えてくれたのか。
そして、早川徳次は、どんな行動でテレビの普及に貢献したのか。

ぜひ、みなさんにお伝えしたい。
もしまた、機会があれば。


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