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岡本太郎と山口一郎、対極主義とサカナクション

愛知県美術館で3/14まで開催中の「岡本太郎展」に行った。隣のNHK名古屋では関連番組「タローマン」の展示も行われており大盛況だった。岡本太郎作品と言えば無軌道でハチャメチャなものと思っていたが作品には明確なロジックと意義があり、根底には生命の力がみなぎり、そして何よりユーモラス。大勢の観客と共有する祝祭感もありエネルギッシュな鑑賞体験だった。


ところで「タローマン」とはNHKで放送されるやいなや局所的な盛り上がりを見せた、1970年代に放送されていたという設定の架空の特撮番組だが、その2022年放送版の番組中で“タローマンマニア”を名乗っていたのがサカナクションの山口一郎だ。彼が真顔で嘘をつき、存在しないはずのタローマンへの愛を語る姿はサカナクションのファンとしてはだいぶ面白い映像だった。

1から100まで嘘の山口一郎が収集したタローマンコレクションブース。見ごたえあり。
それっぽすぎる

タローマンこそ架空ではあるが山口一郎が岡本太郎ファンであるのはよく伝わる番組だったわけだが、今回「岡本太郎展」で初めてたくさんの岡本太郎作品を観て実感したのは、山口一郎が生み出すサカナクションの楽曲は岡本太郎が作ってきた芸術作品との共通項が多いということだった


例えばヘッダーに貼った絵はその題を「夜」という。「ワード」という曲で《夜が僕らを試してるな》と歌った山口一郎がイメージしている創作時間としての夜と、岡本太郎の思う夜は近しいように思える。2人が夜と対峙しながら生み出してきた作品たちを振り返りながら、その呼応を読み解きたい。


対極、消費、傷、神秘

岡本太郎が1940年代の作品で提唱していた“対極主義”。これは無機・有機、抽象・具象、吸引・反撥、愛憎、美醜といった対極が「調和をとらず、引き裂かれた形で、猛烈な不協和音を発しながら一つの画面に共在」している芸術のことだという。配色や描かれる物体などすべてがバチバチとせめぎ合うようにあり、そこにこそ「精神の高揚があるに違いない」と岡本太郎は語っている。彼の作品が放つエネルギーの源流と呼べる主義だ。

「憂愁」という作品。芋のような物体に旗が刺さっている。肉感と無機質さが同居。これは岡本の自画像とも解釈されている。
「重工業」という作品。工場をイメージする機会に絡めとられている人間と、それはそうとしてしなやかに生えているネギが印象的。

サカナクションの楽曲は「混ざり合わないものが混ざり合った時に生まれる良い違和感」が基本コンセプトだ。フォークソングとダンスミュージックを掛け合わせた音楽性。ロックバンドというアナログな在り方でデジタルな音像を追求するそのスタンス。これはまさに対極主義的と言える。トーキングヘッズと昭和歌謡がぶつかり珍奇なダンスを誘う「ショック!」、ドラムンベースとギターロックが噛み合い生活の悲哀を奏でる「さよならはエモーション」など、多彩なテーマの組み合わせで新たな音楽を生み出し続けている。


また、アートとしての側面を大切にしながらも、作品を公共的な場所に果敢に持ち込んでいく姿勢も共通しているように思えた。岡本太郎は1950年から積極的に街に飾られるパブリックアートを多くデザインした。さらに食器やファッションアイテム、時計や椅子などにも自身のアートを多く刻みつけ、刺激的でありながら広く開けた芸術であろうとしていた。晩年には広告やテレビにもその美学をもって多く出演し、生き様で芸術を体現していた。

岡本太郎デザインの食器。
「手の椅子」。目に刺さる赤。


サカナクションもまた明確に大ヒットすることを目指していた時期があり、それ以降も大衆的であることも忘れないバンドだ。自分たちの音楽の面白さを届けるためには「新宝島」で踊りまくるし、「忘れられないの」では徹底的に80年代パロディを行う。マニアックなアレンジを深く堪能できる魅力を用意しつつ、間口はあくまでもひたすら広く設ける。時に過剰なほどのケレン味でアート性を突き抜けるエンターテイメント性を誇るバンドなのだ。


そんな陽のエネルギーを放つ一方で、暗い傷について描くことも多い。岡本太郎は第二次世界大戦を経験し、戦地から引き上げてから猛烈な勢いで創作を続けた。晩年に至るまで作品の中には痛みや平和への祈りを込めた作品も多い。サカナクションもまた山口一郎の突発性難聴、東日本大震災、紅白歌合戦を目指す中での葛藤、コロナ禍などあらゆる楽曲に痛みや祈りが込められている。時代の中で作品を生み出し続ける創造性は両者に共通している。

「痛ましき腕」。1936年というかなり初期の作品。不安や苦しみを示す腕の傷と、エネルギッシュな赤いリボンがせめぎ合っている。
「明日の神話」。原子爆弾の投下がモチーフになっている。



その他にも、呪術的/神秘的なイメージの作品志向がありながらも宗教色が薄い(これはひとえに岡本太郎/サカナクションの唯一性が高すぎるからだろう)という点や、作品を通してとにかく無邪気であろうとする姿(岡本太郎は作品の随所に感じ取れるし、山口一郎はライブ以外でも子供のようにはしゃぐ姿が散見される)など、精神的に通じている部分が多く、「タローマン」を介して岡本太郎を現代に届ける上で山口一郎は適役だったと確信するに至った。

「縄文人」。禍々しい。岡本太郎は土器のデザインに傾倒していた時期があった。


自分を追い込むということ

「岡本太郎展」でも1ブース用意されていたが、岡本太郎は放つ言葉も非常に強くインパクトがある。芸術に向き合う、時に偏執的にも見える在り方は名言と呼ばれる言葉を生み、その点でも知名度は高い。芸術作品と並べてその言葉に触れると納得感もあるのだが、言葉だけを抜き出してみるとやや"自己啓発的な言葉"としてファスト教養的な回収をされかねないぞと警戒してしまった。実際、あの言葉を真正面から受け取って実践するとすれば、それはかなりの過重を精神にかけることになるだろう。汎用化はできない姿勢だ。

これは良いな、と思った

一方、山口一郎もまた激しく自分を追い込んでいくミュージシャンだ。アルバム『アダプト』のインタビューでは、3時間作業して1時間眠るというスケジュールや、部屋を閉めっぱなしで疑似的に夜を作る制作環境を明かしている。また、ライブが中止になっていたコロナ禍でも積極的にインスタライブを開きファンと対話する試みを続けていた。昨年7月、山口の言葉では"燃え尽き症候群"による活動休止となったが、ファンとしては少し安堵した部分もあった。誰かが休ませなければ一生動き続けてしまうと思っていたからだ。

身を削って生まれた作品に圧倒されてしまう感情も否定できない。しかしリアルタイムで追っている以上、燃え尽きる程に強迫的な創造をしなくてもいいのでは?と思ってしまう。岡本太郎はひとりの強靭であまりにも桁外れな芸術家である。一方でサカナクションは5人組のロックバンドであり、音楽好きの兄ちゃん姉ちゃんの集まりで、アーティストでもなく芸能人でもなくミュージシャンなのだ。その前提へと立ち戻っていくことで、山口一郎が疲弊し尽くすことのない音楽の向き合い方をできることを願ってやまない。


「太陽の塔」模型。絶対に実物を観に行きたい。

1970年の大阪万博というキャリア史上最大のビッグプロジェクト、「人類の進歩と調和」を掲げるイベントの象徴物の制作において「未来への夢に浮き上がっていく近代主義に対決して、ここだけはわれわれの底にひそむ無言で絶対的な充実感をつきつけるべきだ」というコンセプトをもって生み出されたのが「太陽の塔」だ。時代やイベントの方向性とは真逆のものを叩きつける、まさしく"対極主義"が最大の形で作品化したものと言えるだろう。


サカナクションはコロナ禍を通して、オンラインライブという新たなアウトプットや、そこで得た演出をリアルなライブにも持ち込むという、環境への適応を行いながら『アダプト』を作り上げた。これこそが、山口一郎なりの”時代への対決"と言えるだろう。ここから、応用編のアルバム『アプライ』の制作に突入するのだという。徐々にコロナ禍が明けていくこれからの時代に、サカナクションが何をつきつけるのか。気長に楽しみに待ちたい。

願わくばこの「午後の日」みたいな顔でいれるくらい穏やかな日々が山口一郎に訪れますよう、、、


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