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"痛みたい"という欲望/石田夏穂「その周囲、五十八センチ」〜メンタルヘルスとポップカルチャー

精神科診療の現場において「これさえ変えれば全てがうまくいく」という強い確信に囚われている人とよく出会う。例えば整形。このパーツを理想的なものに変えれば絶対に人生がうまくいくという確信を持ちながらも整形のためにお金を稼ぐ上でトラブルに巻き込まれ精神科受診に至った人もいた。人生を良い方向に持っていくために取った選択が、自分を苦しめてしまった。

自分に自信を持つため、という選択で整形を選ぶ人もいるが「美麗であれば人生がうまく運ぶはずだ」という人の場合は“周囲の態度が美醜で違う”という思いが根底にあり、他者からどう見られるか、という視点が重要になっている。評価軸は常に他者にあり、それを理由にして自分に苦しさが向いている。しかしそのことに本人は気づかずに満たされぬ思いを抱え続けている。

精神分析家のジャック・ラカンの言葉を借りれば、人の欲望とは他者の欲望である。自分の願いだと思っていることも、社会的な立場や生育環境、身近な周囲が自分へと押し付けている願いがほとんどである、という意味の言葉だ。欲望を叶えた場所でそこにまた欲望が湧き、、と無限に満たされることはない。埋まらない空虚に囚われ、心が蝕まれる症例を頻繁に見る。


石田夏穂の小説「ケチる貴方」に収められた「その周囲、五十八センチ」という作品を読んで驚いたのは“他者の欲望“と”埋まらない空虚“が凄まじい痛みを伴って見事に描写されていたからだ。周囲の目線から自ずと太ももの太さに悩み続け、過度なダイエットの先に脂肪吸引に辿り着く主人公。吸引した分だけ結果が出る脂肪吸引に夢中になり、全身の脂肪を吸い続ける。


そうした外面的な充実感とともに、ダウンタイム(整形手術後の回復期間)でもたらされる強烈な痛みに焦がれるようになる点がこの作品の核だろう。痛みに耐えることによって、“足が太い”という悩みをしばし忘れることができる。アピールの意味もある自傷行為とは異なり、隠れて痛みに耐える自分の頑張りとして、痛みを持ち出した点がとても現代的であると思った。

私は自分を不幸にした元凶たる身体を痛めつけることにより、あたかも復讐を果たしかのような満足感を覚える。

石田夏穂「その周囲、五十八センチ」より

常に頑張ること上昇していくことを要請される社会でよりよい結果を求られることは避け難い。そして成し遂げた結果は確かに一時的に欲望を満たすが、「で?何をしたかった?」は次第に置き去りにされる。人生の好転という目的は抜け落ち、結果という事実すら無視され、痛めつけること頑張ることを混濁させながら、"埋まらない空虚"はそこにあり続けるものなのだ。

「その周囲、五十八センチ」は読み手に対して、身に迫る痛みをもって自分を苦しめている”埋まらない空虚"に自覚を促すような作用もあると思う。こうしたポップカルチャーは無自覚な痛みの存在を知らせてくれるアラートになり得るのだと確信している。作者の意図とは異なるところで、この作品がそっと救い出している"痛み"や"頑張り"もきっとあるはずなのだ。


残念なことに人生をひっくり返すライフハックや、人生を大きく好転させる奇跡的なナニカなどはない。その事実を受容し、今ここに漂っている喜びや楽しさを噛み締め、文章や絵へと変換することも人間を"空虚さ"や"終わりない欲望/痛み"から遠ざけることに繋がる大切な営みだ。だから私もこうして今を生きる人間として文章を書き続けている。誰もが持ち得る痛みたいという欲望に立ち向かうため、ポップカルチャーとともに在りたいと思うのだ。


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