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<脱鬱>自己嫌悪も自己否定も自己肯定感の低さも。原因は過去の傷を見なかったことにしてたことだった。


今年の4月、6年を経てうつ状態が消えてなくなった。以前そのことについて書いたけれど、今回自分の経歴をまとめるにあたって、もう少し掘り下げて書いてみたいと思う。この記事はいつもよりラフな感じで書いていきます。


実の母をダッシュババアにしちゃった話


去年の後半、両親の、時に母の私の夢への出演率はそりゃあもうすごかった。4日に3日は出てきては全部を悪夢にしてゆくものだから、私はその度に過呼吸やら苦しい動悸と滝汗やらで起こされる羽目になっていた。

我が家はいわゆる「過保護」な家だった。細かい藤峰家大戦はこっちをみてください。とりあえず「そんなことをするんだったらあんたを殺して私も死ぬ!」みたいな母だった。おそるべし鹿児島の煮えたぎる熱い血。西郷さんは大好きです。



そんな中、一際象徴的な夢を見た。

実家の4畳半の自室。母に問い詰められ、じりじりと追い詰められている。夢の中でパニックになっていた。息が上手くできない。背後には窓。「ちゃんと話すから、少しだけ、一人にしてほしい」その言葉は受け付けてもらえなかった。私の中で何かが声をあげそうになる。それだけはだめだ。それを口にしちゃいけない。それを言ってしまうより先に、私はどうにか死ななくちゃならない。

窓から部屋を抜け出して、タクシーをひっ捕まえる。「とにかく遠くへ!」そんなドラマみたいな台詞を吐くと、タクシーはのろのろと進み出した。後ろを振り返る。母が一人車道を走って追って来ている。タクシーが走るより速く。どんどん距離が縮まる。追いつかれる。怖い。怖いすぎる。


……というところで目が覚めた。恐怖に普通に泣いていた。その日の終わりには冷静になっていて、「いや完全に都市伝説のダッシュババアやんw」とか言えていたけど、その夢は私の深層心理を掬い上げていた。怖い。そう、怖いのだ。母が苦手だとか、うまくコミュニケーションをとりづらいとかの前に、ずっとずっと怖かったのだと初めて認識した。


カウンセリングなんて高いしよくわかんないし怖くない?


この夢のトリガーになったのは親からのLINEだった。「今年の大晦日はゆっくり色んな話もしたいし早めに帰ってこれない?」文面を見た瞬間スマホを投げた。息が上手く出来なくなっている。この年は特に、親からの連絡の度に多かれ少なかれずっとこんな感じだった。今思えば私の意識下がずっとメッセージを出していたのだと思う。本当は母が怖いんだよ、ということをどうにかして気づかせるために。

親と度重なるドンパチを経て、今の私は程良い距離感を保てていた。積極的に帰りたくはないけれど、メンタルが耐えられる一泊だけ年の瀬を実家で過ごした。連絡もたまに来るくらい。でも、これが異常なんだとはあんまり気づいていなかった。「実家に帰りたい」みたいな人の気持ちはわからないけど、まぁまぁの関係を親と築いてる人達はきっとこんな感覚で帰省しているのだと思っていた。

そして、親からの例のLINEをずっと返せないままだった。彼女にひたすら慰めてもらってばかりの自分に嫌気が刺した。どうにでもなれ、と勢い半分だったのも否めない。でももう、「自力じゃどうにも出来ない」と何処かで分かっていたんだと思う。5年半、自力で頑張ってどうにもならなかったし。カウンセリングに申し込んだ。認知療法って、なんだか怪しい響きに聞こえてしまうなとか(当時はそう思ってたんです、ごめんなさい)。周囲の人間が抗うつ剤でラリってて薬はとりあえず飲まないって決めてたから、「だったら病院に行く必要なくない?」とか。

でも私を一番留めていたのは、『死にたいのに、わざわざ未来のために病院通いとかしなくてよくない?』だったと思う。未来を変えようとするたびに、「死にたい」はその足を引っ張り続けていた。けれどその時は、その足の重さが普通だと思ってたんだ。それは昔から私の傍に、空気のように当たり前に居た。

だって悲劇のヒロインぶってんのダサいじゃん!


カウンセリング一発目で断言された。「原因は親との関係です」そんな馬鹿な、と唖然とした。死ぬほどやりきった。自由も手に入れた。干渉もされないところまで来た。これ以上一体何をしたらいいんだ。「恨みなさい。ちゃんと親を恨み切りなさい」そう先生は繰り返した。

恨むって言ったって。そんなねちねちぐちぐちしたこと、したくないです。今更過去を掘り返して、「あの時こうして欲しかったのに」なんて恨み言、言われた向こうも困るし私が嫌だ。カッコ悪いったらありゃしない。それにいつまでも過去を引きずって悲劇のヒロインぶってたら、逆に未来を見れなくなりそうじゃないですか。

「そんな簡単なことじゃありません」先生は続けた。「原因がわかれば、それが見えるようになれば、取り除くことも難しくありません。だから一度、ちゃんと怒りなさい」釈然としない一方で希望があると僅かに思えた嬉しさと相俟って、複雑な気持ちでクリニックを出た。そこから3週間に1度のペースでカウンセリングに通い始めた。2021年の終わりのことだった。


怒りは害悪だし、怒る人は子どもだと思ってた


そもそも怒りが苦手だ。たまに見かける駅で怒鳴ってる人とか。ヒステリックに怒ってるママだとか。ニュースやワイドショーを見て愚痴垂れるのも、運転中に前の車に文句を言ってるのも。全部すごく嫌な気持ちになる。元気を根こそぎ持っていかれる。家を出てからこの10年、私の家にはテレビがない。ドラマも見ない。安心して見られるのは、鬱や怒り要素のあんまりないアニメくらい。

HSPなんだろうなと思う。争いも苦手。いじめとかも苦手。とにかく穏やかに、みんなで笑顔で過ごしていたい。どうしても胸がもやもやするようなことがあったら、人が読んでも棘のないような文章にして、誰かの役に立つような形に整えて、オチを笑えるようなテイストにしてそっとタイムラインに書くこともあるけれど、間違ってもそのまんまぶちまけたりはしない。怒り心頭、ブチギレる、なんて人生でそんな経験もない。そういう時は悲しくて涙が溢れるから、収まるまでじっと泣いている。

だから、カウンセリングで先生に「恨みノートを作ってそこに怒りを書き込みなさい。今のことでも過去のことでも、人に言えないようなことをどんどん書きなさい」と言われて一応は作っては見たものの、ほとんど筆は進まなかった。人には見せないから、どんな罵詈雑言を書いても良いらしい。言っちゃいけないようなことも。言葉にならなかったら黒く塗りつぶしてもいい。そう言われたノートは大体まっさらなままだった。

一度過去を振り返って母に向けて書いては見たものの、書かれていたのはすっかり冷めた言葉達だった。怒りというより、許しの言葉が並んでいた。「でもさ、お母さんも一生懸命だったろうし、母親業って大変だと思うから」嘘ではない。あんな自分を後回しにして子どものためにひたすら生き続けるなんてこと、私には到底出来ないと今も思っている。


ツイッターの鍵垢が有能すぎる件


…と、思っているけれど。


しばらくしてふと、ノートなのがよくないなと思った。日常のささやかなイラッとしたこと──それこそ電車の中で怒鳴らないでほしいとか──はノートにゆっくり書きつける時間がない。常に持ち歩いてもいられないし。ツイ廃の私は自分だけの鍵垢に書きつけることにした。140文字なのもいい。呟くスタンスの方が瞬時に言葉にできる。フリックで打ち込む方がずっと速いしね。

とはいえ、そこに並ぶのは怒りより諦め、嘆きがせいぜいの言葉だった。人生への悲嘆で、強いて怒りと言うなら自分への怒りだった。どうしてこんなことも出来ないんだ、とか。○○ちゃんみたいに出来ないんだ、完璧に出来ないんだろうとか。それらの言葉は、昔からずっと繰り返し私が浴びてきた言葉たちだった。


私の花壇はまっ茶色で、それはそれは汚かった 


そんな鍵垢呟きライフを過ごして2〜3ヶ月が経った頃だったと思う。カウンセリングで先生が「絶対に大丈夫。あなたの心は死んでいない。だからこうしてここにいるんでしょう」と信じてくれて、その小さな半信半疑の希望で生きながらえていた最中。日々怒りと呼べるか微妙なものを呟き続けるも大きな変化もなかった日常が、ある日を境に一変した。

いつものようにふと過去のことを思い起こして、毒にも薬にもならないような言葉を鍵垢に呟いていた時、唐突に子どもの頃の記憶の蓋が開いた。正確には、覚えていた記憶が色を取り戻したような感覚だった。多分これが、認知療法で言う「認知が変わる・あるべき姿に戻る」ことを指しているんだと思う。

家に帰りたいと思えない自分。親孝行できない自分。昔から期待に応えられず面倒ばかり起こしては叱られていた自分。家出をしてしまったこと。会社を辞めてしまったこと。そして友達をいじめてしまったこと。どれも今までずっと罪悪感が私の中に居座っていったことだった。どうしてあんな風に生きられないんだろう。どうして褒められる子どもであれないんだろう。言われた通りに出来ない。人として許されないことをして親を悲しませてしまった──幼い頃からのその感情が、音を立てて書き変わっていく。
   

その時、私のイメージの中に荒れ果て廃れた花壇があった。前に先生が「土台から変えないとどれだけ頑張って何かを積み上げても崩れてしまう。まずはその土を整えるんですよ」と言っていた言葉の連想かもしれない。私の花壇。レンガで囲われた私だけの広い花壇は、土がぐちゃぐちゃに掘り返され、植わっていたはずの花はどれも花を咲かせる前に引っこ抜かれていた。枯れている花もどこか外から持って来られた花達で、私が本来持っていたはずの花もそれ以外も、みんな等しく茶色の干草みたいに転がっていた。

瞬時に理解した。ああ、これをしたのは母だ。私の花を根こそぎ抜いて、母が良しとした花を持ってきて植えたのだ。だけどそれらは私の花じゃないから到底根付かない。それも結果枯れて、私の花壇は今空っぽの、見るに耐えない姿になっている。
   

ビジョンを見たりだとか想像力が豊かだとかそういう人間じゃ全くないけれど、これをこの時難なく受け入れられたのは、親への恐怖を具現化したあの夢のお陰だったかもしれない。言葉に出来ないものは、他の形で心が訴えてくるのかもしれないなぁなんて思いながら、涙が次々に溢れて止まらなかった。キッチンに座り込んで、子どもみたいに泣きじゃくっていたと思う。

初めて怒りが私の中に芽生えていた。なんて酷いことをしてくれたんだ、強気な私が心の中で言った。あんまりじゃないか。こんなの、あんまりに可哀想じゃないか。綺麗なはずの花壇を、人と少し違ったかもしれないけれどきっと綺麗に咲き誇っていたそれを、こんなに踏みにじられて。多分、人生で初めて、自分が自分のために怒った瞬間だった。そして認知が変わった先で、それらは次第に言語化されていくようになった。怒りを少しずつ表せるようになっていった。


脳内「1+1= −5億」みたいなバグが誰しもにある


過去いくつものいけないことをしたし、人を困らせたり傷つけることをしたのは悪いことだ。だけど、私がそうしてしまった背景には理由があった。

どれだけ話し合おうとしてもいつも受け入れてもらえなかったからだ。“今就活をしたら私はダメになるから時間がほしい“、そう訴えたのに大手の内定しか認めてもらえなかったから、結果的に会社を辞めざるを得なかった。本当は、お世話になった人たちに迷惑をかけてまで辞めたくなんかなかった。当たり前だ。家出をしたのも、家に居場所がなくて限界だったからで、親を悲しませるようなことをわざわざしたかったわけじゃない。友達をいじめてしまったのも、勉強が嫌で嫌で塾に通いたくなんかないのに、”勉強したいです”と言わされて勉強させられてたストレスが限界だったからだ。『私が悪いんだ』そう思い続けてきた全てのことの根本的な原因は母にあったのに、母を守りたい一心で、全ての責任と非難を自分に向けていたのだと気が付いた。

本当に、バカみたいなバグだと思う。でも、31年間、怒りを出せるまでそれに一ミリも気づくことが出来なかった。そんなバグは、多分私以外の人たちにもあるんだと思う。


ダッシュババアを追い出した!


これ、客観的に見たら、何を当たり前のことを言ってるんだという話なんだと思う。でも自分の認知は自分では分からない。ましてやそれが幼少期から培われたものならば。こういうことの為にカウンセラーの人達がいるんだと納得した。そしてこの瞬間から、自分の中で私はようやっと母と対等になれた。子どもにとっての親は絶大な力を持っていて絶対に抗えない、従わなければならないという過去の延長にあった恐怖を脱した。

この日を境に、怒りを言葉に出来る様になっていた。相手の立場とかはさておいて、「こうされたのが嫌だったし、めちゃくちゃ傷ついたんだー!!」と文字上でシャウトできるようになっていった。先生の言った「原因が見えれば対処ができる」はこう言うことだったんだと思う。「客観なんてクソの役にも立たないんだから。人生は主観ですよ」とフランクに言ってくれた言葉も。

そしてそれからさしたる月日が経たずに、想像の中で母に対等な立場で文句を言えるようになっていた。とうとうあの「言っちゃいけないこと」もぶつけられるようになった。想像力って、思ってるよりずっと大切なのかもしれない。その日の夜、夢を見た。あの時の夢とよく似たシチュエーション。実家の自室にいつも通りノックもせず好き勝手に入ってくる母に対してキッパリと「今集中したいから出ていって」と言えたのだ。起きた瞬間歓喜に震えた。というか嬉しさに泣いた。その日から、半年もの間毎晩苦しめられていた悪夢が嘘みたいにパタリと止んだのだ。


言ってはいけないと思っていたのは、私の親孝行の最後の砦だった。孝行らしいことを何一つ出来ない私が、せめてこれだけは言わずに死のうとしていたこと。

「あんなに苦しい思いをさせたくないから、私は子どもを産みたくない」

「小学一年生の時、家が嫌すぎて母を殺そうとした」

「今も昔も実家は私にとって帰る場所じゃない」

「今も過去のトラウマで苦しんでいる。子を一方的に怒鳴るママを見ると動悸が止まらない」

「”なんでこんなことも出来ないの!“  過去向けられてきた色んな言葉がふとした瞬間フラッシュバックしてしまう」


かつて母が言った、「お母さんの唯一の誇りは、あなた達をちゃんと育て上げたことだよ」。これを知らせてしまったら、そんな母の誇りを壊してしまうと思っていた。だからこれだけは言わずに死んでゆくべきだ、そう信じて疑わなかった。夢の中でタクシーに乗って、ダッシュババアとなった母から逃げて死に場所を探していた私に今伝えたい。
 

誇りは奪えるものじゃない。自分で持つもので、そして取り戻せるものなんだ。だから過去の傷だってなかったことにしちゃダメだ。今からでも、痛かったんだと泣いていい。怒っていい。そうしたらその傷は、恥じゃなくて自分にとっての誉れになる。その行為は悲劇のヒロインなんかじゃない。この傷があったから、と本当の意味で笑えるようになるし、今後傷つくより早く自分のために立ち上がる強さになる。

だから、目一杯怒って。怒りを怒り任せにぶつけるんじゃなくて、怒りを真っ直ぐに差し出せばいい。それは他人に迷惑をかけない怒り方で、自分も相手も傷つけないから。その証拠に、今は前よりもずっと母と話しやすくなった。仲良くはないし大好きでもないけれど、抱き締められた時に抱き締め返せはしないけど、肩を優しく叩き同じ人間として労わることは出来る。いわゆる理想の親子からはほど遠いけど、そんな自分に罪悪感を抱くことなく真っ直ぐに対等に真正面から向き合えるようになっているから。


そして何より、前より人を許せるようになった。少しだけ優しい自分であれるようになった。脳内で鳴り響いていた厳しい叱責の言葉たちを、頻繁に周囲にも向けてしまっていた私。今年の初めに、そんな自分を変えたいと抱負を掲げたよね。優しい人間でありたいって。その願いは、「誇りを取り戻したい」という願いと一緒に少しずつ叶えられている。ありがとう。


最後に

偶然か必然か、鬱が消えて風が吹き抜けたと感じたまさにその日の夕方。たまたま母と連絡を取る事になり、そして流れで会いにゆくことになった。謝罪をされた。家出してからぴったり10年、こんな展開はちっとも予想していなかった。予想できないような未来は絶対にあるんだ。思いもよらなかった形で物語が開いてゆく。想像できることは叶えられるけど、想像を超えたことだって起こるのが人生なんだ。

そして怒りの練習をしていた鍵垢やノートは気づけば開かなくなっていて、過去の傷を誇りだと思えたら、それ以上過去をぐちぐち言う必要もなくなった。勝手に危惧していた悲劇のヒロインにもならなかった。母を好きでいなくちゃいけない、と苦しかったのが嘘みたいに「別に無理に好きにならなくてもいいじゃん」って自然体で過ごせている。別段恨んでいるわけでもない。私は私、あなたはあなた。“娘” “母” “親子” という言葉に縛られなくなったんだと思う。

それから多分、あの私の中の花壇の花たちは、ミヒャエル・エンデの『モモ』の作中に出てくる時間の花のイメージから来ている気がする。子どもの頃「時間の花」の描かれたページをたぐっては、それらは一体どんな花でどれほど綺麗で、そこで流れる美しい旋律はどんな優しい音色なんだろう、と胸をときめかせたのを今でも覚えている。いつだって私という人間を形作ってきたのは、触れてきたアートや文化や生き物たちだ。決して頭でっかちな知識や誰かの作った堅苦しいルールなんかじゃない。こうすべきあるべきだと強いられたことたちじゃなく、それらに触れて自分から溢れ出した感動や好奇心たちの行く先だった。


31歳、もう一度人生の土づくりから。人より遅れをとっているのは十二分承知してる。それでも、私だけの綺麗な花壇を見てみたいと思う。「死にたい」が消えた足元の軽やかさに未だ慣れないけれど。未来を自分の為に描くことにもまだ不慣れでぎこちないけれど。とうに死んでしまったと嘆いていた心の種は、言われた通り、まだ死んではいなかったのだから。

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