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親に感謝できない子どもは、だめなのか。(再掲)

( 2015.10.7に書いたブログの再掲です) 

最近若い世代と話をすることが多くて面白いのだけれど、一番ぶち当たっているのが「親」の壁。当時の私も何かにつけて、「親に感謝しましょう」「親にありがとうって伝えるところから」と言われていたのを思い出す。そこから生まれるもやもやとした気持ちも。

怒られそうだけど、それでもはっきりここで言いたい。親に「ありがとう」なんて、頑張って伝えなくていいよ。





どういうことか説明する前に、軽く私の親との激戦歴を書かせてほしい。

激戦歴

・第一次藤峰家大戦

大学3年の終わり、21歳にしてはじめて自分の足で一歩踏み出す(それまで親の「OKエリア」でしか生きていなかった)。
沖縄に家出したものの、羽田空港で母とリアル逃走中&那覇空港にて警察に確保され、翌朝一の便で母が那覇まで飛んできたりと、人生の中である意味一番ドラマチックだったしあれを超える恐怖ってないと思う。


 ・第二次藤峰家大戦


実家の「就活しなさい」の嵐に堪え兼ねて家出アゲインtoシェアハウス。地道に電車で荷物を運び出したのはいい思い出。そして当然シェハウスに両親が凸。
「3ヶ月以内にちゃんとした(=大手の)内定をとってくる」ことを条件にシェアハウス暮らし容認とのことで、渋々大手の内定ゲット。
 

・第三次藤峰家大戦

親のための内定ゆえ合う訳もなく、入社後違和感に耐えきれずに4日で退社。
その旨を前夜に電話で伝えたところ母が卒倒。翌朝本社前に両親出現。



・第四次藤峰家大戦

「セックス」を生業の一つにするために、大人のオモチャ屋さんのPR店舗であるバイブバーでバイトを開始。
数ヶ月後母からの鬼電。まさかの母のガラケー→スマホシフトで露呈したらしい。LINEのプロフに書くんじゃなかった。渋々バイトを辞める。



・第五次藤峰家大戦

性について書いていた当時のアメーバブログが発覚。包丁を持ってシェアハウスに母が押し掛けてくるという、第一次大戦に引け目をとらないドラマチックな展開に。やむなくブログを削除。



・第六次藤峰家大戦

昨年夏からのヒデアキ(当時のパートナー)との日本縦断旅こと婚前道中膝栗毛の件で揉めに揉めた。ヒデアキも巻き込まれての家族会議を重ねること数回。また道中メディアに出たことで旅の間も電話越しに大合戦。泣きながら歩いたなぁ。

 


・・・と、今のところ計6回ほどの大戦を乗りこえた両親と私です。





「ありがとう」の在処。


そもそも親に限らず、「ありがとう」があまりに形骸化している気がする。ありがとうは感情であってルールじゃない。ルールに従えば無難だけれど、その先には空っぽの自分がいるだけだ。藤峰家大戦をやるまでの私はまさにそれで、死ぬ理由ばかり探していた。生きている理由がどこを探しても見当たらなかった。そもそも「自分」というものがなかった。


嘘を並べるほど、自分はそれに埋め尽くされていく。


「ありがとう」に限った話じゃない。思ってもいないことを口にして、思っていることを口にせず、本音をひた隠しにして、嘘ばかりを外に出す。
そんな形骸化した自分を愛せなくて結果、「私なんている価値ないな」と思ってしまう。また「生まれて来なきゃよかった」と自責ないし「生んでくれなきゃよかったのに」の他責に走る。


「生んでくれてありがとう」なんて、言えなくていい。


親に「生んでくれてありがとう」と伝えようというイベントが昔あって、学生だった私は当時いたく感動して親に電話越しに伝えたのを覚えている。それを口にしづらかったのは当時は恥ずかしいからだと思い込んでいたけれど、実際は全くの逆だった。「生んでくれてありがとう」なんて、心から思ってなかったのだ。
口にするときの喉にひっかかったような違和感、それは自分への嘘を吐くときの違和感だったけれど、慣れてしまっていた自分は簡単に嘘で誤摩化せた。だからこそ言えたのだけれど。



最初にも書いたように、「親に感謝しなきゃだめよ」という上からの圧迫とその正しさに気圧されて、遠回りをしたなと思う。感謝はするものではなくて、自然と湧いてくるものだ。なのに「生んでもらったんだから感謝しないといけない」「感謝できない自分はダメだ」といって更に自分が嘘に塗られていく。



感謝できないならできないでいい。正しくは感謝しなくていい。「できない」んじゃなくて「したくない」んだから、それが本質だ。正しさに自分を当てはめた瞬間、自分が形骸化してゆく。
 
もし今あなたが死にたいと思っているなら、それは自分が骸になっている=嘘を吐き続けているからだ。親に限った話ではないけれど、いわゆる「正しさ」と自分は違っていい。万人が好きと言う相手に嫌いと思っていい。だめなやつでいい。すべきとされることをしたくなくて当たり前。この世界は正しさで出来ているんじゃない、「自分」の本当の気持ちで出来ているのだから。








そう思えてはじめて、「ありがとう」と口に出す時の違和感が消え去った。

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