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傷ついてトイレットペーパー

コンビニでトイレットペーパーのダブルを買う。シールだけ貼ってもらったトイレットペーパーをぶらつかせながら家へ急ぎ足で向かう。
スーパーで買い忘れるのも、同棲を始めてから何度目だろう。きっとまた彼女に怒られる。

家は真っ暗だった。
キョロキョロと廊下を探っていくと、彼女はトイレの便座に座って泣いていた。ちゃんとスカートは履いている。
なぜ……?

「もう別れよ」
「なんで」
「またコンビニで買ってるじゃん」
俺が持つ8ロール入りのトイレットペーパーを見つめて、彼女はため息をつく。
「そういうのは徐々に直すって」
「もう無理なの」
「だからさ、同棲あるあるじゃん」
「……できたの」
「え? 子供」
「そんなワケないじゃん。シてくれないのに」
「それは……」
忙しいことを言い訳にして、彼女と体の関係も減っていた。同棲すればちょっとは時間を作れるかと思ったけど、理由は時間じゃなかった。

彼女とは高校の同級生だった。不思議な子で、クラスでも浮いていて、でも妙に気になる存在で。同窓会とかも来ないし、二度と会うことはないと思っていたけど、始めたばかりのマッチングアプリで偶然出会った。

顔を忘れたわけではなかったけれど、印象が薄れていたのか会うまで、同じクラスだった杵築さんだとは気づかなかった。
最初の夜はすごく楽しかった。彼女がクラスで何を考えていたのか、どうして友達を作らなかったのか。理解できないことだらけだったけれど、営業マンの世界に浸ってお世辞と忖度とウソにまみれてきた俺の心を入れ歯洗浄剤みたいにシュワシュワにしてくれた。

でも、付き合ったら不思議な魅力はそう必要なかった。それどころか、潔癖で口うるさくて俗世っぽいところに辟易してしまっていた。

そして今。彼女はトイレに座り込んで涙を浮かべている。
(普通の、どこにでもいる、子じゃん)

「ガンなの」
「え……? できたって」
「子宮がん」
「それって」
「ステージ3」
「嘘でしょ」
「あたし……嘘つかない」

確かに彼女は嘘をついたことがなかった。高校時代のミステリアスなところも、俗っぽくなった今も、自分をぶらさない。
俺は、高校時代にラジオを聞きあさっていたころの、なぞに斜に構えた自分を今でも抱えて、そんな自分が好きで、意識の高い同期や後輩をどこか嘲笑っているふしがある。いつだって嘘ばかりだ。

彼女は大人になるにつれ、身につけた俗っぽさから逃げていない。
本当は一番あの頃から変わっていないのは、杵築さんだ。

「治るよね?」
「治るなら……別れないよ」

俺は、トイレに座る彼女をギュッと強く上から抱きしめた。
ミシッと便座が割れる音がする。俺の泣き声も耳に聞こえる。
彼女を抱きしめるなんて久しぶりだ。
でも――彼女だけは冷静だった。

8ロールのペーパー。
これが尽きるまで彼女は生きているのか分からない。

カバンの中でスマホが鳴っている。きっと浮気相手だ。
俺は、俺を俯瞰して生きていることに満足して、大人を楽しみながら、仕事で汗をかいたふりをしてきた。そば屋やコンビニで店員を大声で呼んでストレスを発散しているだけの、小さな男だ。

1日だけでいい。
高校時代の、杵築さんと初めて話した日に戻りたい。

気づくと、そこは実家のベッドで俺は17歳だった――。

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