差別と笑いの境界線① はじめに

誰も傷つけない笑いは存在するのでしょうか。少なからず笑いには暴力的な側面があり、そのつもりがない場合でさえ、誰かを傷つけてしまう可能性があります。お笑い芸人の間では、「たとえ誰かを傷つけたとしても、愛さえあれば許される」という言説が存在します。誹謗中傷や攻撃的な嘲りとしての笑いだけではなく、身体的に攻撃する笑いも含まれます。それはとても無責任で、身勝手な考え方でしょう。

それに対して、「そもそも笑いは暴力的なものであり、表現者の意図に関係なく、誰かを傷つける可能性がある。それは受け手の受容の仕方によって解釈が異なるため、どのように受け取られるかは受け手の判断に委ねるしかない」という立場です。それはつまり、誰かを傷つけてしまう可能性はあるが、笑いをする以上それは仕方のないことで、その責任を引き受けたうえで表現をする必要があるということです。ある意味それは、芸人としての性であり、連綿と続く笑いの表現者の美学のようにも感じられます。

しかし、その主張自体は危険なものであることも事実です。現にそれが差別的な発言やネタであったとしても、お笑い界の中ではひとつのノリとしてまかり通っている場合があるからです。時代の移り変わりの中で、そのような笑いは少しづつ減ってきているように思われますが、芸人ということを免罪符として、現在でもそのような暴力的な笑いが数多く存在します。

そのような現在の状況に幻滅しつつありますが、それでも私は笑いに対して少なからず信頼している部分があり、笑いを通じて乗り越えられるものがあると思っております。それが倫理や道徳を逸脱した表現であったとしても、それ自体が笑いとして昇華さえすれば許されると信じているからです。乱暴な議論のように思われますが、笑いに暴力的な側面が存在するように、他方で、その毒にもなりうる暴力的な笑いが人を救う瞬間があるからです。それは悲しいとき、辛いときでさえ、可笑しみから何かを見出すことで、救われる瞬間があるからです。

繰り返しますが、笑い自体には誰かを知らぬうちに傷つけている可能性がありますが、それと同時に誰かを救っている可能性があります。その毒にも薬にもなりうる笑いの作用は、多様性を受け入れ、包摂する力があります。その毒にも薬にもなりうる笑いの可能性を探りたいと思っております。それは笑いと暴力の境界線を探る試みです。

 
差別的なネタについて

近年、お笑いを取り巻く環境は年々変化しており、差別的な表現や暴力的な笑いに対する世間の目は厳しくなりつつあります。そのような発言をしようものなら、ネット上で情報が拡散され、マスコミによる社会的な制裁や個人や集団からの私的な制裁を受けることになります。それは、そのような表現自体が多様化する社会の変化に適応できておらず、時代からズレてしまっているからだと思われます。そのためメディア側の自主的な倫理規定は日に日に厳しくなっている現状があり、問題発言があった場合に、それは表現者だけではなく、放送するメディア側にも責任が生じ、バッシングの対象となる恐れがあるのです。つまり、笑い自体に求められるニーズは変質しつつあるということです。

昨年、立て続けにそのような笑いがネット上で叩かれ、番組内での謝罪し、公の場で芸人自らが謝罪することになりました。それはジェンダー的なものに対する嘲笑的な笑いや、差別的なジョークが問題となりました。その中でも、若手芸人Aマッソの大坂なおみ選手に対する差別的なネタは、各方面からバッシングされ、SNS上で炎上しました。それはイベントライブのコーナの中で、大坂なおみ選手に必要なものについて問われて、「漂白剤。あの人日焼けしすぎやろ」という内容の発言をし、イベントライブ後にSNS上で差別的な発言であると批判の声があがりました。それは、国内だけでなく、イギリスのBBCで取り上げられるなど、国外でも波紋を呼び、後日、所属事務所が「ダイバーシティについて配慮を欠く発言を行った」として、公式サイトに謝罪声明を発表しております。

その発言は、人種差別、黒人に対する差別的な発言に値するでしょう。彼女たちにとっては、あくまでもネタであり、差別意識はなかったのかも知れませんし、これほど大事になるとは思わなかったのだと思います。しかし、その発言は、人種差別、黒人に対する差別的な発言として受け取られても仕方がなく、配慮の欠けた発言であることは事実です。日本では他国と比較して、人種差別や、特に黒人差別に対する意識は低いと言えます。そのため、差別的な発言をしているという自覚や意識がなく、不用意な発言をしてしまったのだと思われます。

また、その余波を受けて、若手芸人である金属バットが以前ライブで披露したネタ動画が、差別的なネタとしてネット上で話題となり、同様に論争となりました。ネタの内容は、差別をしてはいけないということを指摘(ネタフリ)したうえで、無意識に差別をしてしまうという内容です。金属バットの場合は、あきらかにフィクションとしてのネタで、思弁的なネタのように捉えることができます。しかし、そのようなネタであったとしても、差別をネタの題材としている事自体が差別的発言としてSNS上で炎上することとなりました。彼らのネタは、人種差別を茶化してはいるように受け取ることもできますが、特定の人を攻撃したわけでもなく、無意識に差別をしているということを批判的に表現しているという見方もできます。しかし、その点は考慮されず、「差別的なネタをした」という事実だけが、批判の対象とされてしまうのです。

ひとつ注意しておきたい点は、彼らのネタは、テレビやラジオで放送されたわけではなく、小さな劇場で行われたことです。それが口伝いに広まり、ネット上で問題となりました。彼らの認知度はまだそれほど高くはなく、アンダーグラウンドで活躍している芸人です。彼らを庇うつもりはありませんが、まだまだ売れていない芸人ですら社会的な振る舞いが求められてしまう現状があるのです。このようなネタは、以前は当たり前のように行われていたように思います。それがSNSが普及したことで、簡単に拡散するようになり、想定する観客を超えて、不特定多数の人々に届いてしまうことになったのです。もちろん、そのような差別的なネタをしてしまったことについて弁解の余地はありません。彼らに悪意はなかったのかもしれませんが、少なからずそのような笑いは、誰かを傷つけている可能性があるということです。


私たちは、それ自体が倫理的に問題のある表現であったとしても、そのような笑いを求めてしまうことがあります。現代社会にそぐわない笑いであったとしても、その危険性に魅力を感じ、可笑しみを見出そうとしてしまいます。若手の芸人が、過激さを追求した際どいネタをすることがよく見受けられますが、それは他の芸人にはできないことをしたり、狂気性や異常性を表現することはそれなりの器量を測ることになり、それは芸人に求められる資質のひとつとされているからです。私自身もそのような笑いは嫌いではないですし、自身がそのようなネタに対してどこまで許容できるかという限界を知りたいという欲望もあります。しかし、そのような笑いが過激化していく先に、彼らのように差別などのタブーに触れることになるのです。

差別的なネタには、少なからず対象を見下し、嘲笑としての笑いと位置づけられます。しかし、それが良くない笑いだと認識しつつ、そこから可笑しみを見出してしまうことがあります。それが倫理的、道徳的に逸脱した笑いであったとしても、嘲りとしての笑いにはそれらを超越した魅力が感じられる場合があるからです。


なぜ、私たちはそのような笑いを求めるのか? 笑いの優位理論について

古典的な笑いの理論に優位理論と呼ばれるものがあります。優位理論は、ズレ理論に並ぶ、最も古いとされる笑いの理論です。笑いの中核には優越という感情が関係しており、それが笑いの本質とされております。古くはプラトンやアリストテレスが提唱しており、トマス・ホッブズがその理論を体系化しております。ホッブスの有名な一文に「笑いとは、標的となった他の誰かよりもあるレベルで優っている、または卓越しているという感覚または認識から生じる突然の栄光または勝利のことだ」というものがあります。簡単に説明すると、対象を蔑むことで優越感を覚え、それが可笑しみを発生させる要因であるという考え方です。

哲学者であるベルグソンは、優越理論をベースに笑いを社会的なものと捉えて考察した一人です。ベルグソンは、社会や文化の中で現れる滑稽さというものに着目し、無意識的な動作やぎこちない振る舞いに非社会的な態度を見出し、それを滑稽と呼んでおります。つまり、集団の中で共有されている認識の中に笑いが内在されており、そのズレが笑いを生み出すということです。

その集団の笑い(滑稽な人を嘲笑うこと)は、社会を維持・統制するための一つの役割を果たしているとベルグソンは考えました。どういうことかというと、滑稽な振る舞いをする人は、逸脱した行為や非社会的な振る舞いをすることで、社会の秩序を乱す。そのため、そのような滑稽な人に対して、笑いによる社会的な制裁を加えることで、「社会を統制する機能」があるということです。

社会心理学者のM・ビリッグは、著書「笑いと嘲り」の中で、そのような笑いを「懲罰的ユーモア」と名付けております。懲罰的ユーモアは、「社会ルールを破る者を嘲笑い、そうすることでルールの維持に役立つ」と説明しております。これはベルグソンの笑いの理論をベースに考えられております。たとえば、SNSではよく私的制裁による笑いが横行しているように思います。出る杭は打たれるではありませんが、ネット上で注目され、差し出たことをすると、よってたかって非難されることになります。つまり、それが間違っていると指摘したり、または嘲笑することで、そのような人を排除(もしくは取り締まる)することができるのです。それにより、社会の治安や秩序を守ることが可能となるのです。

他方、M・ビリッグは、懲罰的ユーモアと対を成す理論として、「反逆的ユーモア」という理論を提唱しております。反逆的ユーモアは、「社会ルールを嘲笑い、そして今度はルールを疑い、反逆すると考えられる」と説明されております。一見して、反逆的ユーモアは、あまり良い印象を得られないかもしれないが、本来ユーモアの持つ効用というものが感じられます。それは、言語であったり、私たちが抱いている観念や概念、または社会的慣行などに対して、違う見方を示す役割があるからです。

私が、嘲りとしての笑いに対して期待している点はそこにあります。固定観念に囚われている者やルールを疑わない者に対して一石を投じ、笑いを通して新しい価値観に出会える可能性があるからです。先程、若手芸人の差別的なネタについて取り上げましたが、そのネタは人を不快にさせるかもしれませんが、金属バットのネタのように、そのネタを通じて差別の新たな見方を問い直させる力があるのです。

差別的なネタをすべきではないという主張ももちろん理解できます。少なからず、誰かを傷つける可能性があり、あらゆる人に対して配慮すべきことだからです。他方、表現の自由という人間としての権利も私たちには存在します。人間としての尊厳を維持するために表現を自由に行うことはとても重要とされており、それは民主主義の根幹を成す権利とされております。

本論のテーマは、その境界を探る試みです。差別と笑いの境界線はどこに引くべきか。この相容れない双方の言い分にできる限り寄り添い、答えに近づけたらなと思っております。


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