松本信者論 第五章 松本の笑いとお笑い感覚

 松本自身も当時を振り返り、思弁的な試みをしていたと語る。松本自身も説明できないような感覚で作られた実験的な笑い。それは感性に訴えかける笑いであった。そのため、その作品を受容するためには受け手の笑いを解釈する能力が必要となるのである。つまり感覚は主観的に判断するものであり、その評価の仕方には個人差が生まれてしまう。
 松本は自著『哲学』の中で、聴覚経由で想像力に訴えかける笑いであると、自身の笑いについて分析している。 どういうことかというと、松本の発想を受けて、それを脳内で再現することが重要であり、そのためには松本人志のイメージに限りなく近づけなければならない。それができなければ、笑いへと消費することができず、ただのシュール(意味不明なもの)として片付けられてしまうのである。 その点が、松本人志の笑いを理解しているか否かの、境目となる。オタク第一世代以降のように、虚構をシュミレーションの機能として操れることができれば、松本人志のお笑いを理解できる可能性が開かれているのである。笑いとされうる対象を認知し、それを可笑しみとして解釈するまでのプロセスはどのようなものなのか。哲学者のパースの記号論を参考にし、説明したいと思う。
 パースの記号論では、対象を認知した際、その対象を一時的に記号化し、その記号を解釈項を通すことになる。解釈項とは、他の記号との比較で認識するための機能のことである。そしてその対象自体を認識することが可能となり、その対象に意味や意義が付与されることになるのである。ようするに、記号化された観念は、他の記号(概念として保存されている)との比較で概念化が進み、記号から記号へと連鎖的に表象が明確化されていく。
 松本の笑いとは、可笑しみの可能性のある記号を訴えかけることにある。それはベタとされる誰もが共有している笑いのパータンとは別の仕方で笑いとして再構築する必要があるのである。それは受け身としての笑いではなく、能動的に解釈を行うことで生み出される笑いということである。つまり、松本の笑いは共同作業をすることで成立するということだ。そして、その記号自体をいかに解釈するかは、その笑いを受容する人の能力に関係してくる。
 私はここで一つの言葉を提案したい。それは「お笑い感覚」という言葉である。この言葉は、思想家のミハイル・バフチンが使っていた「世界感覚」という言葉を参考にした造語である。世界感覚とは、人間のつくりだす情緒の評価の総和というように定義されている。私の提案する「お笑い感覚」とは、ある対象を可笑しみとして消費する情緒の評価の総和のことである。それはお笑いセンスに限りなく近い意味でもある。 松本人志の笑いを理解するためには、お笑い感覚はとても重要だといえる。それは、ただただ与えられる笑いではなく、対象を可笑しみとして構成する能力なのである。松本の笑いを受容するだけではなく、お笑い感覚を介してシュミレーションし、構築しなければならないのである。

 松本の笑いは、既存の概念を破壊し、暴力的に作用するものである。それはわれわれの思い込みに対して、違う見方を提供するからである。それでは松本の作り出す笑いの本質とはどういうものなのか。
 そもそも、笑いを作り出すという過程とは、どのような経緯を必要とするのか。松本人志は、数々の新しい笑いを生み出してきた。その新しい笑いは、松本人志が、頭のなかで何かを面白がり、それをネタとして生産した瞬間のことである。可笑しみの対象ではない何かが、可笑しみのネタとして変わるタイミングを分析することで、松本人志の新しい笑いについて考察してみたいと思っている。 新しい笑いという言葉では誤解をまねく恐れがあるので、言い方を変えて、新しく解釈された笑い(=再定義された笑い)という表現で進めていきたいと思っている。なぜ、そのような言い方をしなければならないかというと、笑いとは、ある対象を新たな解釈を加えることで、可笑しみへと再定義されるものだからである。
 上記で説明した新たな解釈を加えるという点から、異化という考え方についても着目しておきたいと思っている。この言葉は、ロシア語の訳語とされたもので、ロシア・フォルマリズムで使われていた用語とされている。基本的には、文学で使用される言葉でありながら、芸術的なものを説明する場合でも、しばしば用いられている。
 さて、異化という言葉は、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法である。また、知覚の「自動化」を避けるためのものとされている。大江健三郎は異化という言葉を次のようにして説明している。

ありふれた事物を、見慣れぬ、不思議なものに感じさせる。そのようにして、その言葉を洗い流し、そこに眼をとどめさせる。それが「異化」の作用である。 言外に位置する抽象的で概念的な言葉を、具体的な艶めかしい実在的な言葉として異化する作用すらある。

 異化という言葉は、新たな解釈を加えることで、これまで共有されていた価値観や概念をアップデートする作用があるといえる。松本人志は、既存概念であったり、社会規範であったり、不条理な事柄に対して一石を投じる破壊者でもある。彼の異化された言葉は、世間に反響を与え、価値観の相対化すら変化させてしまうパワーがあるのである。
 しかし、見方をかえると、松本の笑いは他者に委ねた笑いであるといえる。それは、受け手の笑いを認識するレベルによって解釈の仕方が違うため、笑いの質が異なるからである。現在の笑いは、(正確には二〇〇〇年代以降)、ネタ自体がわかりやすく単純化され、前提条件なくとも受容できる均一的な笑いと見受けられる。まるで他者を信頼していないようにさえ感じざるおえない。それは閉ざされた世界の笑いであり、解釈の幅があまりにも狭い窮屈な笑いであるといえる。その笑いの行き着く先は、バフチンの以下の言葉が予言しているかのようである。

真理が開かれるのは、対等な複数の意識が対話的に交通し合う過程においてである。しかもそれは部分的にしか開かれない。究極の問題をめぐるこの対話は、真理を考え、もとむる人類が存するかぎり、おわり、完結することはありえない。対話の終焉は、人類の死にひとしかろう。すべての問題が解決されたならば、人類にはもはやそれ以上生存してゆくための刺激がなくなるであろう。

 注目すべきは、後半部分である。バフチンは対話という概念をとても重要視している。対話とは、話者と他者の関係であり、コミュニケーションのことである。また、創作者(生産者)と消費者の関係から生まれる消費行動といいかえてもいいだろう。そして、対話の終焉は人類の死に等しい、といわれているように、二〇〇〇年代以降のモノローグとしての対話のない笑いは、いずれ終焉してしまう可能性があるのである。
 松本人志の笑いは、対話を通して創出される笑いであり、他者の解釈は更新し続けながら、開かれた状態であり続けるといえるだろう。それは信仰としての笑いが成立しているからだといえる。共有された状態の幻想の中で、終わりなきカーニバル(=祝祭)が繰り広げられるのである。それは過剰な笑いの氾濫のような状態であるといえるが、松本人志の望む世界なのかもしれない。信仰としての笑いは、他者との対話を可能とする笑いである。意味がある無意味として機能するその笑いは、終わらない笑いとして、可笑しみの状態を生み出しているのである。

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松本信者論 第五章 松本の笑いとお笑い感覚
松本信者論 最終章 笑いの神が死んだ

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