新お笑い論③ お笑いブームとお笑いメディア史

 お笑いブームは一定の周期で訪れる。程度の差こそあれ、10年前後のサイクルで繰り返されている。

 私が小学生の頃に、お笑い第四世代を中心としたブームがあり、二〇〇〇年を過ぎた頃、お笑い第五世代を中心としたブームがゆるやかにはじまった。それ以前のお笑いブームについては、テレビの特集や特番でしか見たことがない。
 一般的にお笑いブームと呼ばれるものには、お笑い第一世代の「演芸ブーム」、お笑い第二世代の「漫才ブーム」、そしてお笑い第五世代による「ネタ番組ブーム」などがある。お笑い第三世代、第四世代による明確なお笑いブームというものは存在しないが、「お笑い」というコンテンツを違うステージにあげたといえる。それはコンテンツ自体の多様化、またコンセプチュアル・アートとしての笑いが機能していたように思う。「笑い」とは、常識を否定したり、壊したり、変えたりすることで生まれるものであるが、その世代に限り、彼らは「笑い」自体の常識を定義し、その定義された「笑い」自体の常識を覆すことで新しい笑いというものを作り出したいえる。松本人志は「日本国民の笑いのレベルをあげる」と豪語したように、「お笑い(=演芸としての笑い)」ではなく、「笑い」の本質に迫り、それは「笑いの革命が起こりつつあった」のである。そのため、お笑い史というものが存在するなら、その世代を境に前期後期と分けることができ、お笑い第三世代、第四世代による明確なお笑いブームとならなかったにせよ、「笑いのムーブメントを起こした」といえる。
 現代のお笑いは、間違いなく当時のお笑いから多大なる影響を受けている。それは後述する予定であるが、お笑い第五世代による「ネタ番組ブーム」は、九十年代の複雑な笑いを大衆化・エンタメ化したことでブームとなったと言い換えることができるからである。本論のテーマはそれと深く関連している。九十年代の複雑な笑いが後世の芸人にどのような影響を与え、お笑い第七世代に至る現在の笑いにまでどのような影響を与えているか。それは言い換えると、「日本国民のお笑いのレベルがあがったのか」という大きな問でもある。松本人志の試みは成功したのか否か。それを探っていくために、まず、今回のテーマである「お笑いブーム」から見ていきたいと思う。


演芸ブーム(お笑い第一世代)

 日本のお笑いブームのはじまりは、1960年代の「演芸ブーム」とされている。もともと寄席で披露していた伝統芸としてのお笑いが、新たなメディア(ラジオ・テレビ)の出現により、演芸番組という新しいコンテンツが生まれることになった。そしてその演芸番組を中心としたブームがいわゆる「お笑いブーム」だといえる。
 では、どのような条件でお笑いブームが起こるのか。上記の通り、お笑いブームにはサイクルがあり、それが周期的に訪れることは分かっている。そのため、何らかの規則性があり、何らかの条件を満たすことで、お笑いブームとなっていると考えられる。
 一般的によく言われているのが、お笑いブームと不景気についての関係である。お笑い第一世代のブームは、いわゆる不景気の時代(たぶんそれは40年不況と呼ばれる、東京オリンピック後の反動的な不況)が原因とされており、不況のあおりを受けたため、各テレビ局は番組制作費の削減を強いられることになり、セット(舞台)さえあれば視聴者を楽しませることに長けている芸人は重宝されることとなったようだ。現在でも言えることであるが、お笑い芸人のギャラはそれほど高くはない。そのため、テレビ局側は人件費がかからない芸人を起用したのだと考えられる。
 次に考えられるのは、新しいメディアの登場である。1953年から白黒テレビの放送が開始され、1950年代後半から1960年代前半にかけて一般家庭に広く普及している。ゆえに、白黒テレビが普及しはじめたことにより(一時的な不景気があったにせよ)、演芸というコンテンツが新しいメディアと結びつくことで、大衆の心をつかみブームが巻き起こったのである。


それ以前にお笑いブームは存在したのか?

 そうすると気になるのが、それ以前にもお笑いブームは存在したのか? という素朴な疑問である。お笑いの歴史を遡れば、それ以前にもブームはあったに違いないが、それまでのブームは記録に残っていない。最初の演芸ブームが端境期ということもあり、運良くフィーチャーされ、「演芸ブーム」とコピーライターに名付けられたのかもしれない。
 そこで注目しておきたいのはラジオの登場である。それは演芸とメディアの劇的な出会いであり、黎明期のため大きく取り上げられていないが、とても重要なファクターである。

 大正時代に日本でラジオ局が開局され、昭和初期にはラジオで演芸番組は放送されていた。それは番組の制作費などによる理由もあるだろうが、テレビと同様に演芸というコンテンツに万能性とお手頃感があり、見出されたのだろう。そして、寄席による演者と客との関係性と、通信メディアによる情報発信者と視聴者の関係性はとても似ている形態(インタラクティブ性の欠如(一方的な垂れ流しの状態))である。そのため、シームレスにお茶の間に溶け込むことができ、大衆に認知されることになったのである。
 また、メディアが変わることで、コンテンツ自体もそれに対応して変化することにも注目しておきたい。1934年6月に、エンタツ・アチャコの漫才「早慶戦」がラジオ中継されたが、その漫才はしゃべくり漫才の原型と呼ばれている。それは、ラジオというメディアに制限された環境下で、実験的にチャレンジして得られた結果である。
 従来の漫才(当初は「万才」と表記されていた)は、和装でお囃子や鼓の演奏をおこない、エンターテイメント性の強い伝統的な演芸であった。そしてそれらは見て楽しむ要素の強い芸でもあるため、ラジオで漫才を披露するためには、芸そのものを改良する必要があったのである。そのため、会話だけの話芸(しゃべくり漫才)は、ラジオと親和性も高く、聴衆者から受け入れられたのである。
 そのような経緯があり、ブームとまではいかないにしろ、お笑いブーム以前についても、それなりに人気を博し、大衆の娯楽(エンターテイメント)として浸透していたのである。


MANZAIブーム(お笑い第二世代)

 演芸ブームの終焉から十数年後、新たなお笑いブームが起こった。それは「MANZAIブーム」と呼ばれる「お笑い第二世代」を中心にしたブームである。言うまでもないが、「MANZAIブーム」とは、漫才を中心としたブームのことである。
 それまでの漫才は、演芸の中でも色物とされており、どちらかというと古いタイプのお笑いのスタイルであった。ところが、若手の漫才師を中心に漫才がスタイリッシュなものに生まれ変わり、若者層に受け入れられる新しいスタイルを確立させたことでブームとなったのである。
 島田紳助は当時のことを振り返り、戦略的に若者にターゲットを絞り込み、彼らの感性に訴えかける漫才を作っていたそうだ。「極端にいってしまえば、関西のおっちゃんやおばちゃんの娯楽に過ぎなかった漫才に、日本中の若いもんが注目するようになった。逆にいえば、あの速いテンポが漫才ブームの起爆剤になったのだと僕は思っている」と、松本人志との共著である『哲学』で語っている。
 それは紳竜(島田紳助の漫才コンビ)にかぎらず、当時の若手の漫才は、スピーディーな漫才が主流だった。今聞くと聞き取れないほど早口である。それはエンタツ・アチャコが生んだ、しゃべくり漫才の正当進化だといえるだろう。
 つまり、芸を極めるという古い価値観を否定し、誰もやっていない新しいネタを創り出すことが求められたのである。同じことをやっていてもいずれ淘汰されてしまうため、これまでのの芸人とは異なる仕方で差別化することが必要だった。その結果、競争原理が働き、相乗効果的に漫才が進化し、ブームが巻き起こったのである。「お笑いの神の見えざる手」が機能し、この世代によってお笑いのレベル自体も底上げされたといえるだろう。
 最後に指摘しておきたいのが、番組の演出自体も装いを新たに刷新されていることである。ただ単に芸を演じるだけではなく、テレビ的な演出をすることで演芸というコンテンツ自体が進化しているのである。それには理由があり、それは漫才ブーム以前に実験的に取り組まれていたバラエティ番組に影響されているといえる。
 演芸ブーム(お笑い第一世代)の後、コント55号やザ・ドリフターズなどの東京勢のお笑いタレント、コメディアンを中心としたバラエティ番組が流行した。演芸ではない仕方で、お笑い番組は発展し、実験的にあらゆるパターンのお笑いが実践されており、大道具や小道具などの美術的な施しをしたことで、番組自体の演出に変化があったのである。 
 しかし、しばらくするとムーブメントに陰りがみえはじめる。そこで台頭してきたのが、大阪で活躍していた漫才師なのである。演芸としての実力は去ることながら、ガラパゴス的に進化していた漫才とテレビ的な演出をかけ合わせたことで、新しいコンテンツ(漫才ブーム)が誕生したのである。


 再度繰り返すが、お笑いブームは一定の周期で訪れるのである。そして揺り戻しは必ずといっていいほど起こる。それはそのままの状態で繰り返されるのではなく、螺旋状に少しづつ改良されながら、その当時の流行の影響を受けつつ、進化することで巻き起こるのである。
 演芸というコンテンツは、現代のメディアでもまだまだ重宝されており、通常番組や特番で大きな役割を果たしている。今後、演芸がどのような形で進化していくかは定かではないが、ネットメディアと関連しながら新しいスタイルを確立していくのだと思う。

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