新お笑い論⑧ シミュラークルにおける笑いの消費、そして松本の功罪

 前回のブログでは、漫才ブーム以後の虚構をベースとしたお笑いの構造について考えてみた。現段階では単なる仮設にすぎない。しかし、「ネタ番組ブーム」や「お笑い第五世代以降の笑い」に対して新しい示唆を与えられたと思っている。
 そこで注目したいのは、「二次創作」と「シミュラークル」という概念である。二次創作については、前回少しだけ触れているが、かいつまんで説明すると、原作などの既存の作品を元にキャラクターやストーリーの設定を利用した独自の派生作品のことである。ポストモダン以降、アニメやコミックなどの世界の中に存在する虚構(世界観)が共有されるようになり、その虚構の世界観を利用し、二次創作物として原著者の手元を離れて、第三者が創作することが可能となった。そして、その虚構を共有する人々は、二次創作としての作品を肯定的に消費し、広く受け入れられることになったのである。
 他方、シミュラークルとは、「現実を別の何かで置き換えたもの」を意味する言葉である。上記で説明した二次創作に近い概念であるが、東浩紀はフランスの社会学者、ジャン・ボードリヤールを参照し、以下のように説明している。

ポストモダンの社会では、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的になると予測していた。原作もパロディもともに等価値で消費するオタクたちの価値判断は、確かに、オリジナルもコピーもない、シミュラークルのレベルで働いているように思われる。

 肝となる部分は、オリジナル(原作)もコピー(二次創作物)も解体されてしまい、それらの差異自体が失われてしまうことである。『動物化するポストモダン』で東浩紀はその点を指摘し、双方がデータベースのシミュラークルと化してしまったと説明している。現代では、アニメやコミックだけではなく、社会的な文脈で機能するシミュラークルも同様にデータベース化されつつある。
 お笑いに関しても例外ではないだろう。何らかの題材をもとにネタは生み出され、オリジナルなネタとして生み出される。そして、そのネタがひとつのパターンとして共有されることで、当人または他の芸人がそのネタをベースに違うパターンの笑いを生み出す。つまり、このパターンというものが、シミュラークルとして機能し、データベースに登録されることになる。その結果、原点もコピーも解体されてしまい、パターンだけが蓄積されていくことになるのである。
 お笑いの場合は、また他と違い、オリジナルの見分け方が特に難しいように思う。オリジナルとされたネタでさえ、古典の笑いをベースにしている場合があるし、そもそもお笑いのネタは「オリジナルとして登録されることはない」という課題もある。つまり、お笑いには著作権のようなものが基本ない。そのため、あからさまなパクリというものを除いて、パターンを利用するというのは当たり前のように行われている。インターネット文化では、コンテンツをシェアしたり、誰もが二次利用できる「フリー」という考え方が根付いている。根本的な思想は異なるが、お笑い界でも「フリー」という考え方は根付いており、それはもともとお笑い自体が伝統文化を継承するものだからである。師匠から弟子に芸として教え、受け継がれる。現在では、師匠と弟子という関係性は解体されつつあり、横の関係性の中でシェアすることで芸がシミュラークルとして機能し、形を変えながら受け継がれていくことになったのである。


松本の功罪

 前回のブログでは、アニメやコミックなどで形成された虚構を写実することで新たな笑いが誕生することになったことを説明した。それはオタク第一世代やその第一人者でもある松本人志による功績が大きい。彼らによって、新しい笑いの形や数々のネタが量産されていく事になったのだが、それらはシミュラークルと化していき、あらゆる形態に姿を変えながら複製され続けている。いわゆるパターンのデータベース化である。
 最もその影響を受けたのは、お笑い第四世代、第五世代である。彼らの大半は、ダウンタウンの笑いのスタイルに憧れて芸人を目指したといっても過言ではない。彼らも同様に、虚構を元にお笑いを創作し、また松本人志のお笑いを前提にしつつも松本を乗り越えようという試みで笑いを創作している。その世代の笑いは、松本の笑いをベースにしたシュールなネタが散見された。松本っぽい笑い。それはつまり、彼らの笑いは松本人志の笑いの二次創作として機能してしまったということである。
 当時、松本人志の笑いというものは、芸人間だけではなく、一般の人々にも共有されていた。それは、繰り返すが、複雑でシュールな笑いというスタイルである。そのため、そのスタイルが確立されていることで、松本人志のスタイルを真似ることで、それ自体が意味不明な笑いだとしても、松本人志的な笑いとして広く受け入れられることになるのである。
 島田紳助曰く、それは松本の功罪であると語っている。松本人志に憧れてお笑いを志す人が増えていったことは喜ばしいことであるが、それと同時に、「笑いが俺にでもできる」と勘違いしてしまうことになったのである。松本の笑いを理解している人であれば、松本の笑いが基礎づけされたものをずらすことで生み出された「高度な笑い」として判断することができるが、その素養がない人にとってはただのナンセンスでしかない。そうつまり「無意味な笑いとしてセンスさえあれば誰にでもできる」という勘違いがされてしまうことになったのである。島田紳助はそのことを見抜き、それ自体を「松本の功罪」と説明したのである。
 松本人志は「俺の真似をする奴らはセンスがない」と自著で語っているが、皮肉にも、松本の笑いは誰でもできると勘違いされてしまい、松本っぽいお笑いが二次創作物「大量生産」されてしまったのである。


高度な笑いとは何か

 松本は自著の中で、「聴覚経由で想像力に訴えかける笑い」であると、自身の笑いについて分析している。どういうことか。それはつまり、松本のネタは、「言葉をイメージに置き換えることで生まれる笑い」ということを意味する。そのため、聴覚から受け取った言葉を、脳内で再現することが重要であり、その再現するイメージは松本の頭の中に存在する。松本のイメージに再現することで可笑しみを得られることが可能となるが、それができなければ、笑いへと消費することができず、ただの意味不明な笑いとなってしまうのである。その点が、松本人志の笑いを理解しているか否かの、境目である。オタク第一世代以降のように、虚構をシュミレーションの機能として操れることができれば、松本人志のお笑いを理解できる可能性が開かれている。それがいわゆる高度な笑いの本質である。
 松本人志は、視聴者やお笑いの消費者の笑いに対する偏差値を上げたと豪語している。それはあながち間違っていないように思う。それは高度な笑いを理解する能力が身につき、また松本のように「聴覚経由で想像力に訴えかける笑い」を生み出すことができる人々が現れることになったのである。
 しかし、松本人志のスタイルが共有されたことで、表面的なシュールなネタでさえ、松本っぽい笑いとして受け入れられることになったのである。それは先程説明した松本の功罪ということであるが、松本っぽいから面白いに違いないという思い込みが、雰囲気や空気感もあるだろうがなんとなく面白いと判断されてしまい、図らずも笑いを生み出すことになるのである。
 そうそれはつまり松本人志のもう一つの功罪である「象徴的暴力」が働いてしまった結果である。「象徴的暴力」とは、特定の社会空間の中で支配する者の恣意性を無条件に教え込み、またそれを隠蔽することで正当な価値観であるということを押し付ける権力のことである。以前、松本信者論の中で「信仰としての笑い」というものを提案した。それは、松本の笑いが理解できていない場合でさえ、松本の笑いだから面白いだろうと考えてしまうことである。それはつまり松本の笑いに敗北しているため、意味がわからない笑いでさえ、可笑しみを見出そうと試みてしまうということである。その根底には「象徴的暴力」が関係していると考えられる。そのため、松本っぽい笑いでさえ、それ自体から意味は見いだせないが、「松本っぽいから面白いに違いない」という考えに至ってしまうのである。


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松本信者論 第三章 虚構について
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松本信者論 第五章 松本の笑いとお笑い感覚
松本信者論 最終章 笑いの神が死んだ

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