松本信者論 第三章 虚構について

虚構について

松本の作り出す笑いは、他の芸人の作り出す笑いと、なにが違ったのか。それは松本人志以前、以後で明らかに笑いの質が異なっているように思うのである。時代を経るに従って、笑いのパターンは増えていき、笑いのテクニックは向上していくだろう。だが、閉鎖的なお笑い界では、封建的な師弟関係から引き継がれる芸のマイナーチェンジがやっとだった。古い伝統を重んじることが日本の伝統芸といわれればしかたがないのだが、異次元のレベルへと引き上げる特異点が生まれる可能性は低い。

それでは松本人志の作り出す笑いは、それ以前の笑いと根本的になにが異なるのか。それは、虚構という概念が深く関係している。虚構とは、想像力によって、あたかも現実のように作られた世界のことである。なぜその虚構が松本人志以後の笑いに関係するのか、順を追って説明していきたいと思う。


島田紳助は松本人志との共著である『哲学』の中で、松本の笑いを次のように分析している。「松本の喋りのセンス、笑いのセンスは間違いなく天性のものだ。ツッコミは努力で上達するものだが、ボケの才能はそうはいかない。生まれつきのもので、努力は一切関係ない。(中略)純粋に笑いを突き詰めていく過程で、出合い頭の事故のように時代にぶち当たった。だからこそ、あれだけの強烈な笑いのインパクトを与えたのだ」と説明する。

松本人志が吉本興業に入った頃、漫才ブームが終焉を迎え、焼け野原のようだったと述懐している。漫才ブームとは、いわゆるお笑い第二世代を中心に起こした演芸ブームのことである。B&B・ツービート・紳助・竜介を中心に、新たなスタイルの漫才が、若手の漫才師を筆頭に創出された。松本人志は漫才ブームを振り返り、「漫才の上手下手ではなしに、発想で勝負できるように、あのブームの頃からお笑いというものが変質していった」と分析している。テクニックやお決まりの芸で笑いを生み出すのではなく、発想で笑いを生み出すという点に、松本は着目している。漫才ブームの当事者である島田紳助は、その点に関しては触れておらず、漫才ブームが起こった要因を、「速いテンポが漫才ブームの起爆剤となった」と説明しており、あくまでもスタイルの革新性に触れているだけである。双方に、漫才ブームに対する認識のズレが生じているのは明らかだろう。島田紳助は、松本の指摘する性質の変化に気がついていない可能性すらある。

それではその変質したものとはなにか。私はその原因に虚構というものが関係していると思っている。その原因を探るための手がかりとして、松本人志が生まれた時代を考察する必要があるだろう。

そこで注目したいのは、哲学者の東浩紀の著書『動物化するポストモダン』である。同書の中で語られているのは、オタク系と呼ばれている人々の消費の仕方であり、文化や時代にずれはあるにしろ、その捉えている概念は、現代の笑いの消費の仕方と似ているように思う。現代の笑いの消費の仕方については後述するとして、性質の変化を援用するための要素を抽出し、関連する論点にだけ的を絞り、解説していこうと思う。


ポストモダンについて、虚構の時代

まず、『動物化するポストモダン』の概要について説明する必要があるだろう。タイトルの示す通り、ポストモダンの日本文化(オタク系文化)の消費の仕方について論じたものである。ポストモダンとは、一九七〇年代以降の「大きな物語」が失われてしまった時代をさす。そもそも、それ以前の社会の秩序は「大きな物語」の共有によって支えられていたというのである。大きな物語は説明しづらい概念でもあるが、イデオロギーであったり、ライフスタイルであったり、社会全体で共有されている価値観の拠り所のようなものである。それらの諸条件が瓦解したことで、維持されていたシステムが機能しなくなり、ポストモダンと呼ばれる時代が到来してしまったのである。

そのような経緯があり、失われてしまった大きな物語を補填するために人々は虚構を欲望しくいくことになる。虚構とは、事実でないことを事実らしく作り上げることである。そうすることで、人々を支えていた大きな物語の穴を、虚構で埋めるようになったというのである。そこで注目されたのが、同時期に現れたオタクと呼ばれる人たちである。社会に馴染めず、趣味の世界(共同体)に閉じこもり、「自我の殻」を作り上げる。オタクにはそんなイメージが強い。だが、そのような振る舞い自体が、失われてしまった大きな物語の穴を虚構で埋めるために見出された行動様式の一つであると、東浩紀は分析している。

そして虚構自体が産業のひとつとして消費されていくようになる。上記で説明したように、人々は虚構自体を欲望するようになり、その欲望自体が消費されていくことになったのである。

 
虚構と笑いについて

それでは改めて、前述した内容に絡めてみようと思う。一九八〇年以降、笑いの消費の仕方が変化し、消費者自体が虚構を求めるようになったと言える。松本人志の説明する発想というものが、消費者から受け入れられるようになったことも、その点に符合する。要するに、産業文化の構造の変化に重なるようにして、笑いの消費者自体も虚構というものを欲望するようになり、発想(虚構)をベースとした笑いの変化に敏感に反応するようになったのである。

松本人志はいち早くその変化に気がつき、いや、それは無意識の産物として創作されたのかもしれないが、発想(虚構)にこそ、新しい笑いの文脈があることを発見し、新しい笑いを生み出すことに成功したのである。その新しい笑いとは、虚構の中にあるイメージや共有されている価値観や概念をもとに創造した発想としての笑いである。


その点について説明するために、大塚英志の「まんが・アニメ的リアリズム」という概念を参照したいと思う。まんが・アニメ的リアリズムとは、アニメやコミックという世界の中に存在する虚構を「写生」することで作られた作品と定義付けされている。要するに、物語の中にある世界観自体を創作の拠り所にして、新たな作品として創作しているということである。松本人志の作り出す笑いは、その虚構自体にある世界観から可笑しみを見出すことで笑いを生みだしているのである。

松本人志以前の笑いはどうかというと、変質の段階ではあったようであるが、虚構自体を創作の拠り所にしている漫才はなかったように思う。少なからず、空想的で非現実的なネタも存在しているが、それらはあくまでも、現実を観察したり、日常の出来事を題材にすることで創作したネタである。B&Bのご当地漫才であったり、ツービートや紳助竜介の風刺のきいたネタであったり、社会を滑稽に茶化す批評性のあるテーマのネタが比較的多かったように思う。

高田文夫は、著書「笑芸論」の中で、山本章二宗匠の次の言葉を引用し、当時の漫才ブームを次のように分析している。それは「漫才がフィクションから、ノンフィクションに変わった」という内容である。大塚英志は、まんが・アニメ的リアリズムに対して、現実を写生することで創作された作品を、自然主義的リアリズムと提唱している。それはつまり、松本以前に存在したフィクション性のネタというのは、あくまでも現実の否定としてのファンタジー(フィクション)であり、ノンフィクションとして認識されていたネタに過ぎないということである。すなわち、松本以前以後での変化の流れは、「ノンフィクションから、フィクション(虚構)に変わった」ということである。
 

さて、改めてここで再度議論を戻すが、大塚によれば、まんが・アニメ的リアリズムの契機を、一九七〇年代後半としている。そこで大塚が注目したのはSF作家の新井素子である。「『ルパン三世』の活字版を書きたかった」という新井の発言を参照し、「近代日本の小説の約束事の外側にあっさりと足を踏み込んでしまった」と説明する。どういうことかというと、それまでは、現実を描いたり、現実を否定した物語(ファンタジー)を描くことが一般的であったが、新井はアニメの中に存在する世界や世界観を写実することで、創作し始めたというのである。現在であれば、それは二次創作的だといえるだろう。だが、当時としては、そのような試みは珍しく、そのような発想自体が革新的だったと思われる。

新井が生まれたのは、団塊世代と団塊ジュニア世代のちょうど中間に位置する世代である。いわゆる、しらけ世代と呼ばれており、その世代は一九五〇年から一九六四年まで位置づけられている。新井は後期しらけ世代の生まれであり、オタク第一世代である。従来とは異なった感性や価値観を備え、新人類世代とも定義されている。

偶然にも、松本人志が生まれたのは一九六三年であり、新井と同様に、虚構を前提とした世界観を共有している世代なのである。そして松本自身、自らをオタクであると公言し、漫画やアニメ、特撮好きとして知られている。彼のコントや映画などでは、特撮技術を使用したパロディーネタが多く、例えば、ごっつええ感じでは、怪獣コント、レンジャイもの、アホアホマンなどが有名である。また、自らが企画し、同番組で松本原作のアニメ「きょうふのキョーちゃん」を手がけている。それらは新井の手法と同様に、二次創作としての作品が多く見受けられる。それはつまり虚構を前提とした世界観を拠り所とし、創作されているということである。

それらを踏まえて指摘したい点はこういうことである。松本は虚構をもとに笑いを創作した初めての芸人なのではないのかということである。もちろんそれまでにも虚構を前提とした笑いを生みだしていた人はいるかと思う。だが、当時の時点で、高い完成度の笑いへと昇華し、笑いの評価軸を変えてしまうほどの影響を与えることができたのは、まぎれもなく松本人志だけである。

同時期に、彼らのような虚構を前提とした発想をするクリエイターが数多く発生した理由として、たまたま偶然が重なったわけではなく、日本文化全体に関係する文化的特異点に遭遇してしまったからなのである。その文化的特異点に登場したのが、新人類世代と呼ばれる虚構を前提とした創作を可能とする人々なのである。


以上を経て、ようやく虚構と笑いの関連性を説明できたのではないだろうか。繰り返し述べてきたように、虚構を前提とした笑いは、新しい価値観を備えた世代の人々に受け入れられるようになる。そのため、世代によって新しい笑いの消費のされ方にはばらつきがあり、そのため、とくに松本人志の上の世代は、彼の笑いを理解できず、否定的なのである。それは、虚構を前提とした消費ができないため、可笑しみが共感できず、複雑で意味が分からないと判断されてしまうためである。

松本人志の笑いが賛否両論なのはそのためである。少なからず、松本の笑いに反応できる人は、虚構を前提とした消費の能力があり、可笑しみを見出すことができる。そして、九〇年代以降にそのような消費ができる人が増えることで、松本の笑いは大衆を獲得し、玄人から素人まで幅広い層から評価されることになったのである。


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