新お笑い論⑥ 動物化するポストモダンの笑いについて

 前回のブログでは、お笑い第五世代のネタ自体に注目し、分析を試みてみた。だが、お笑い第五世代を説明するためには、まだまだその本質を捉えていないように思うのである。あくまでこれまでの解説については、足がかりにすぎない。さらにその本質に迫りたいと思っている。そのためには、別の観点から見直す必要があるだろう。
 そこで着目したのが、消費者についてである。消費者とは、観客であり、視聴者であり、お笑いを消費する人々のことである。とくに、2000年代以降に現れた消費者は、その「消費の仕方」が変質しつつあると思っている。
 そこで注目したいのは、哲学者の東浩紀の著書『動物化するポストモダン』である。同書の中で語られているのは、オタク系と呼ばれている人々の消費の仕方であり、文化や時代にずれはあるにしろ、その捉えている概念は、お笑い第五世代の消費者の仕方と似ているように思う。できる範囲にはなるが、同書の関連する要素を抽出し、その要素をかけ合わせながら、ぼくなりのアプローチを試みたいと思っている。それでは関連する論点にだけ的を絞り、解説していこう。

ポストモダンについて、虚構の時代

 まず、『動物化するポストモダン』の概要について説明する必要があるだろう。タイトルの示す通り、ポストモダンの日本文化(オタク系文化)の消費の仕方について論じたものである。ポストモダンとは、1970年代以降の「大きな物語」が失われてしまった時代をさす。そもそも、それ以前の社会の秩序は「大きな物語」の共有によって支えられていたというのである。
 大きな物語は説明しづらい概念でもあるが、イデオロギーであったり、ライフスタイルであったり、社会全体で共有されている価値観の拠り所のようなものである。それらの諸条件が瓦解したことで、維持されていたシステムが機能しなくなり、ポストモダンと呼ばれる時代が到来してしまったのである。
 そのような経緯があり、失われてしまった大きな物語を補填するために、人々は虚構を欲望しくいくことになる。虚構とは、事実でないことを事実らしく作り上げることである。そうすることで、人々を支えていた大きな物語の穴を、虚構で埋めるようになったというのである。
 そこで注目されたのが、同時期に現れたオタクと呼ばれる人たちである。社会に馴染めず、趣味の世界に閉じこもり、「自我の殻」を作り上げる。オタクにはそんなイメージがある。だが、そのような振る舞い自体が、失われてしまった大きな物語の穴を虚構で埋めるために現れた行動様式の一つであると、東浩紀は分析している。


1980年代以降、物語消費の時代

 そして1980年代以降、消費の仕方はさらに変化していくことになる。消費者は、虚構を欲望するだけではなく、自ら虚構を生成し始めるというのだ。どういうことか。批評家の大塚英志は、著書『物語消費論』の中で、物語消費という言葉を提唱し、その消費の仕方について解説している。簡単にまとめると、物語消費とは、情報の断片を与えることで、消費者はそれらの断片を接合していき、勝手な解釈を加えて世界像を構築するというのである。それは絶対的な世界像(大きな物語)が存在しなくても、副産物として、製作者すら意図しない物語が自動的に生成されるというのである。また、東浩紀は、大塚英志の『物語消費論』を参照し、以下のように説明している。

大塚はここで、「小さな物語」という言葉を、特定の作品のなかにある特定の物語を意味するものとして用いている。対して「大きな物語」とは、そのような物語を支えているが、しかし物語の表面には現れない「設定」や「世界観」を意味する。……そして大塚によれば、オタク系文化においては、個々の作品はもはやその「大きな物語」の入口の機能を果たしているにすぎない。消費者が真に評価し、買うのはいまや設定や世界観なのだ。とはいえ、実際には、設定や世界観をそのまま作品として売ることは難しい。したがって現実には、実際の商品は「大きな物語」であるにもかかわらず、その断片である「小さな物語」が見せかけの作品として売られる、という二重戦略が有効になる。大塚はこの状況を「物語消費」と名付けた。

 物語消費のメカニズムはとてもややこしいものであるが、要するに、小さな物語(情報の断片)を消費することで、複数の小さな物語が組み合わされていき、大きな物語の世界像が出現するというのである。


1990年代の後半以降、データベース消費の時代

 そして、1990年代の後半以降、小さな物語はさらに細かく分解されていくことになる。いわゆるそれは、データベース消費と呼ばれるものである。その消費の仕方こそ、お笑い第五世代のお笑いを分析するうえで、とても重要な概念だと思っている。
 データベース消費とは、物語自体を消費の対象とするのではなく、それらを構成する各要素が消費の対象となるようなコンテンツの消費活動のことである。この段階では、もはや大きな物語は存在せず、コンテンツ自体の拠り所は、データベースに保存されている情報の集合体(大きな非物語)となる。消費者はその細かく分けられた情報(パーツ)自体を消費することとなる。
 とはいっても、データベース消費自体が、すべての文化圏で成立しているわけではない。オタク文化のような、ハイコンテクストを共有できる文化が成立しているからこそ成り立つのである。日本の文化はしばしばガラパゴス的であると指摘されているが、閉ざされた文化圏で独自の進化を遂げることは、ひとつの条件なのかもしれない。同様に日本のお笑いは、日本独自の文化として確立されているように思う。それはときに揶揄されることがあるが、誰もが笑いをベースにコミュニケーションされており、それは日本全体でハイコンテクストを共有しているということだと思う。そもそも笑いは、集団的なものであるし、共感的なものだからである。現在のお笑い界では、空気を読むということはとても重要視されており、この感覚(空気を読む)は、芸人ではない一般人でも共有されつつあるのである。
 この空気を読むという行為自体は、言語化すらできていないし、不思議なハイコンテクストでもあるが、お笑いの消費の仕方について分析するうえでとても重要なものなのである。


「萌え」について

 さて、オタクの消費の仕方について説明してきたが、ぼくはこの考え方を、お笑いの消費の仕方として捉えなおすことを提案したい。その中でも重要なキーワードは「萌え」という概念である。オタク系の人々は、情報(パーツ)を消費する行為を「萌え」という言葉で表現している。東浩紀は、同書の中で「萌え」という概念を以下のように説明している。

萌え要素のデータベース化は1990年代に急速に進んだ。「萌え」とはそもそも、80年代末に生まれた言葉で、コミック、アニメ、ゲームなどのキャラクター、あるいはアイドルなどに向けられた虚構的な欲望を意味していたと言われる。

 つまり「萌え」のメカニズムとは、物語やキャラクターを構成する要素を分解し、データベース化された情報(パーツ)の一部を消費することで、反射的に欲望してしまう消費行為である。たとえば、猫耳を付けたメイドさんに、オタク系の人が「萌え〜」といっているシーンを思い浮かべてみてほしい。この場合の萌え要素は、猫耳とメイドさんである。それ自体に萌えつつ、それらの組み合わせで、オタク系の人たちは萌えてしまうのである。パブロフの犬という有名な話がある。それは訓練や経験によって後天的に獲得される反射行動のことである。まさに萌えの原理と似ているように思う。猫耳を見て、反射的に萌えてしまうオタクたち(ポストモダンの人々)は、パブロフの犬のように信号をたどり、それに対して反応しているだけなのである。
 前回、ネタの「イージー革命」というものを提案した。それは、客(受け手)の笑いのツボを的確に捉える技術であり、極端に言えば、ネタを見た瞬間に反射的に笑えてしまうようなネタの技術のことである。こうすれば笑いが取れるというノウハウが蓄積、的確に笑いをとるための精度が向上が深く関係しているのだが、その結果、「萌え」というオタクの消費と同じ仕方で、お笑いを消費する人々も笑いをデータベースをもとに消費しはじめることになる。
 2000年代前後では、ネタ時間が5分以上が当たり前だったが、ネタ番組ブームとなり、ネタ時間は次第に短くなっていった。「レッドカーペット」では1分という短い時間でネタを披露しなければならない。それは、短時間でつかみをし、爆笑まで持っていかなければならない。これは至難の業であるが、笑いがパターン化され、それを視聴者や観客が共有することで、断片的なネタでさえ、可笑しみを見出すことを可能としたのである。そのため、笑いを瞬間的に消費することが可能となったのである。それは自発的に可笑しみを得るというよりも、受動的に与えられた可笑しみといえる。90年代の複雑な笑いでは、それ自体がどのような笑いのパターンであるが一見理解できないが、お笑い感覚を介し、意図を汲み取ろうとする過程で可笑しみが生成されていた。それはある意味、共同作業としての笑いが成立していたといえる。対話としての笑い。それは解釈によって可笑しみの内容は異なってくるが、その数だけ笑いの多様性があり、様々な仕方で笑いを消費できたといえる。データベース的な消費では、与えられた笑いのため、単一の結果でしか消費できない。同じところで、同じように笑う。それがいいのか悪いのか定かではないが、ネタ番組ブームでは、そのような笑いが成立してしまっていたのである。

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