リヴァイアサンの哄笑

古典的なSFでは、ディストピアとユートピアが空想的な未来として描かれております。ディストピアとは、監視社会や行動の制限された世界が描かれており、全体主義的な管理社会として描かれております。他方、ユートピアとは、あらゆる文化が交わり、あらゆる関係性を超えて人々が共生し合う世界として描かれております。昔のSF作家はあらゆる未来を創造し、思弁的に双方の近未来をを夢想しているのだと思われます。

現在、私たちはあらゆる人から監視されている相互監視社会だと言えます。それはSNSのようなソーシャルメディアの普及により、個人個人が常に見張っているような状態にあり、不用意な発言をしようものなら、様々なところから批判されしてしまいます。新型コロナウイルス感染症拡大に伴って、日本では自粛警察と呼ばれる人たちが問題化しました。それは偏った正義感や嫉妬心、不安感などから私的に取り締まりや攻撃を行う一般市民やその行為のことをさしております。

もともとその役割を担っていたのは国家という大きな概念です。党や軍が一方的に国民を統制し、監視することが始まりだとされております。現在では、監視カメラが市民を監視し、ネット利用者のビックデータを解析することで、テクノロジーを利用した監視社会というものが中国をはじめ台頭してきております。そもそもなぜ、国家が人を管理する必要があったのでしょうか。

その点については、哲学者のトマス・ホッブズは次のように説明しております。人間は自然状態(=他者を脅かす可能性のある存在)では、戦争状態や闘争状態であるため、絶対的な権力を持った国家による支配が必要だと説きました。その支配とは、強制的なものではなく、あくまでも共通権力による相互の約束を監視するということです。そのために、社会契約を結び、国家に見張ってもらう必要があるということです。そうすることで、万人の万人に対する闘争を回避することができ、監視下のなかでという条件付きではあるのですが、共生と平和を維持することができるという考え方となります。その管理状態についてホッブズは、旧約聖書に出てくる怪獣になぞらえて、リヴァイアサンと称しています。人間の技術の発展は、最終的には人間自体をも創造しうると仮定し、そのひとつとして、国家(=リヴァイアサン)という人工人間的存在を創造するだろうと考えられているのです。

ホッブスは、人造人間としてのリヴァイアサン自体を、統治機構になぞらえて説明しておりますが、現在、リヴァイアサンはホッブスの期待していた存在とは異なる形で変貌を遂げていると言えるでしょう。日本政府だけではなく、各国の新型コロナウイルスに対する対応はあまりにもずさんで、国家の機能不全を私は感じられました。どちらかというと、政府よりも、SNS上での有権者の声が非常に力強く、一つの指針として機能しているように思われるのです。

このような状況下で、リヴァイアサンは新たな姿と化し、私たちの現前に立ち現れているのかもしれません。それは国家という大きな概念ではなく、SNS上で声なき声を上げる人々の総称として立ち上がっているように思われます。それは、国家からの一方的な監視ではなく、ネットワークの中で互いに監視をし合い、一般意志として蠢いているような存在です。IT技術の発展によって、人と人とが容易に結びつくことが可能となりました。そしてそれらは人工知能により集約され、最適化されて上で、人工知能を備えた人間的存在として、総体としての意志を獲得しようとしているのです。それは、イスラエルの歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラリの提唱するホモデウスに近い存在と言えます。

リヴァイアサンは、ホッブスの説明するような統治を分散するための機関が存在せず、欲望によって集団と成している存在と言えるでしょう。それは、その志向性に共感する同士の集合であり、その場その場で構築されながら、目的を失うと解体されていく程度の集団です。それは、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが、アントナン・アルトーの言葉に新たな概念を与えて提唱した器官なき身体を彷彿とさせます。器官なき身体は、あらゆる器官が存在せず、それは象徴としてのファルス自体も切断された状態とされております。そしてそれは、分裂症的に、妄想や幻想に囚われた存在です。器官なき身体としてのリヴァイアサンがは、すべての人びとを再帰的に嘲笑しているようにすら感じられるのです。

つまり、私たちが生きる世界は、過去にディストピアとして空想されていた世界ということになります。器官なき身体としてのリヴァイアサンに監視されている世界なのです。


それでは私たちにとってのユートピアとはどのような世界なのでしょうか。 私は、バフチンのグロテスクリアリズムという考え方を想起します。それがこれからの社会を救うための指針になるのではないでしょうか。


グロテスクリアリズム

ロシアの哲学者ミハイル・バフチンは、グロテスクリアリズムという概念を提唱しております。グロテスクリアリズムとは、民衆の笑いの文化のシステムのことをさしております。それは、祝祭やカーニバル的な状態で行われる笑いの場のことです。グロテスクリアリズムは、嘲りや冷笑、皮肉でも風刺でもなく、すべての者が笑い、すべての者が笑われる状態のことです。ロシア文化学者の桑野隆は、著書「バフチン<対話>そして<解放の笑い>」にて、グロテスクリアリズムについて、以下のように説明している。

グロテスク・リアリズムの主要な特質は、格下げ・下落であって、高位なもの、精神的、理想的、抽象的なものをすべて物質的・肉体的次元へと移行させることである。この大地と肉の次元は切り離し難い一つの統一体となっている

それはつまり、笑いを肯定的にとらえ、崇高な存在を格下げし、エロティシズムや官能的表現、そして大地へと引きずり込むのです。それらは、すべての対象を笑いへと変えてしまい、それは心、身体、社会、宇宙など、あらゆるものを多義的に意味づけし、可笑しみが生まれるのです。そのような状態こそグロテスクリアリズム的だと言えます。

バフチンが、民衆の笑いに着目したのは、笑い自体が普遍的であり、自由であるからです。そして、そのような世界をユートピアと言っております。世界には様々な支配的関係や階層的な関係が存在しますが、グロテスクリアリズムはそれらを一時的に開放します。そして不平等を破棄し、あらゆる関係が無効化された状態で、あらゆる場面から可笑しみを見出すのです。グロテスクリアリズム的な世界であれば、差別ですらも多義的に解釈され、差別するものも差別されるものも存在しない、ある意味平等な世界といえます。


最後に

月は無慈悲な女王というハインラインの古典的なSFがあります。それは機動戦士ガンダムの元ネタとされておりますが、その中にマイクという自意識を持つコンピュータが登場します。マイクは対話ができる人工知能のような存在ですが、マイクは笑いという物に興味を持ち、あらゆる笑いに関連する文献を読み込み、分析します。そして、主人公や人間とのコミュニケーションの中に笑いを取り入れ、笑いというものに重要性を見出します。

なにが言いたいかというと、新たなリヴァイアサンが誕生したとしても、マイクのように笑いを学び、笑いをベースに物事を考えられる社会システムが構築できればそこにはユートピアが生まれうる可能性があるのだと思うのです。今後の世界が監視社会をベースとした社会となったとしても、そこにユーモアが介在し、グロテスクリアリズム的な身分や地位などの立場が解体される世の中となれば、少しは生きやすい世界になるのではないでしょうか。

私の考えるリヴァイアサンの哄笑とは、嘲りとしての笑いではなく、笑い、笑われ、笑い合うという誰もが豊かになるような状態です。そう、ネット空間が、国会のような重箱の隅をつつきあう空間ではなく、カーニバルのような誰もがワクワクするような空間になることを期待しています。  

新お笑い論① お笑い感覚
新お笑い論② お笑いの歴史について
新お笑い論③ お笑いブームとお笑いメディア史
新お笑い論④ 大量供給・大量消費。そしてネタ見せ番組について
新お笑い論⑤ ネタのイージー革命について
新お笑い論⑥ 動物化するポストモダンの笑いについて
新お笑い論⑦ フィクションから、ノンフィクション、そしてフィクションへ
新お笑い論⑧ シミュラークルにおける笑いの消費、そして松本の功罪
新お笑い論⑨ 笑いの消費の仕方について
新お笑い論⑩ お笑い第七世代による新しい価値観の笑いについて

松本信者論 第一章 松本人志について
松本信者論 第二章 松本人志のカリスマ性
松本信者論 第三章 虚構について
松本信者論 第四章 信仰としての笑い
松本信者論 第五章 松本の笑いとお笑い感覚
松本信者論 最終章 笑いの神が死んだ

リヴァイアサンの哄笑

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