新お笑い論⑩ お笑い第七世代による新しい価値観の笑いについて

 「新お笑い論」は今回で最終回である。「お笑い第五世代」を中心に論を進めてきたが、現在大活躍している「お笑い第七世代」について書きたいと思う。お笑い第七世代というのは、2010年以降にデビューした若手お笑い芸人を対象とした世代の総称である。霜降り明星のせいやがANNで「お笑い第七世代」という言葉を提唱し、それがネットニュースで話題となり、各メディアや番組などで特集されることになった。
 ひとつ注意しておきたい点は、お笑い第七世代の笑いは、お笑いブームとはなっていない点である。それは、お笑いブーム自体が、演芸ブームを前提としたものであるからである。少なからずお笑い第七世代はフィーチャーされている。しかし、新しいネタ番組自体が生まれているわけでもなく、新しいメディア(ネットメディア)を利用した新しいお笑いのコンテンツが生まれているわけでもない。そのため、お笑い第七世代をお笑いブームと呼ぶのは難しいのではないだろうか。
 もし今後お笑いブームが起こるならば、「ネットメディアを利用した新しいスタイルのネタ番組」が登場することが必要である。その場合、芸人ではない人々も参加できるような、例えばM-1グランプリなどもそうだが、あらゆる人が参加可能なネタ番組というものを期待したいと思う。
 

誰も傷つけない笑い
 お笑い第七世代の特徴は、「誰も傷つけない笑い」と呼ばれている新しい価値観の笑いにつきるだろう。それは、多様性に対して配慮をした、誰も傷つけることのない笑いのことである。
 昨年のM-1グランプリで決勝進出したペコパは、その代表的な芸人として注目されている。ペコパが評価された要因は、革新的なツッコミのスタイルにある。それは相方のボケに対してツッコミを入れるのではなく、一度自身で内省したうえで、そのボケに対して肯定するという新しいツッコミだ。本来ツッコミの役割は、ボケの間違いを指摘し、可笑しみを観客に提示する。その根本的な役割を見直し、ボケという存在を排除されないように擁護することで、他者の多様性を理解し、包摂するという試みをしている。
 「誰も傷つけない笑い」は、現在ではひとつのパターンとされているが、今後一般的となり、各メディアからは重宝されることになるだろう。しかし、それは果たして新しい価値観の笑いと呼べるのだろうか。以前、「虚構としての笑い」について取り上げた。それは漫才ブームを境にして現れた「虚構を拠り所として生み出された笑い」のことである。ぼくは、それを新しい価値観の笑いと考え、松本の言う「笑いの変質」をそこに見出した。
 つまり、「虚構としての笑い」は、笑いを作る側の変化を意味し、他方、「誰も傷つけない笑い」は、新しい価値観を持つ人々自体の変化を意味するのではないだろうか。つまり、「誰も傷つけない笑い」は「新しい価値観を持つ人々を配慮したパターンの笑い」と言い換えることができる。ようするに、笑い自体は何も変質しておらず、笑いが多様性に対応したに過ぎない。

 そもそもの話だが、誰も傷つけない笑いは存在するのか。あらゆる人に配慮した笑いであったとしても、知らぬ間にどこかの誰かを傷つけている可能性がある。それは言葉自体が人によって解釈が異なるように、笑い自体もそれを受容する人によって解釈が異なり、笑いとなるか、暴力的な言葉になるかは、すべての人に受容されない限り、それ自体が誰も傷つけないか否かは総合的な判断ができないからだ。
 反論もあるだろう。究極的に「誰も傷つけない笑い」が存在すると確信している人も少なからずいるかと思うが、それはそれで「誰も傷つけない笑い」というものを信じすぎているとぼくは思う。
 現在、ぼくたちを取り巻く環境、特にネット空間では、言葉に対する世間の目は厳しくなりつつある。昨年、若手芸人の差別発言が話題となり、また岡村隆史のラジオでの女性蔑視発言も話題となった。たとえ、誰も傷つけないように配慮したネタでさえ、社会自体の価値観が変容するにつれて、表現の幅自体が変わってくるだろうし、芸人自体に求められる笑いのニーズは変質しつつあると思う。今後、更にコンプライアンスは強化され、笑いの幅は限られてくる可能性がある。それに対して、「誰も傷つけない笑い」で対抗できるのか。
 2000年代以前、過激な笑いというものが当然のように行われていた。それは現在では批判の対象となるだろうが、その不道徳な笑いに対してぼくは魅了されたし、憧れた時期もあった。しかし、そのような表現自体が多様化する社会の変化に適応できておらず、時代からズレてしまっているように思う。
 古典的な笑いの理論に優位理論と呼ばれるものがある。それは、ズレ理論に並ぶ、最も古いとされる笑いの理論である。笑いの中核には優越という感情が関係しており、それが笑いの本質とされている。古くはプラトンやアリストテレスが提唱しており、トマス・ホッブズがその理論を体系化している。ホッブスの有名な一文に「笑いとは、標的となった他の誰かよりもあるレベルで優っている、または卓越しているという感覚または認識から生じる突然の栄光または勝利のことだ」というものがある。簡単に説明すると、対象を蔑むことで優越感を覚え、それが可笑しみを発生させる要因であるという考え方だ。
 新しい価値観を持つ人々には、この優位理論で提唱されている笑いが通用しない。そのことを想定し、笑いを組み立てなければならない。つまり、「誰も傷つけない笑い」のように違うアプローチをすることが必要なのである。
 第七世代ではないが、ウーマンラッシュアワーの村本は、違うアプローチで「他者に配慮した笑い」を行っている一人である。それは、ネタの中に政治や社会問題などを取り入れることで、ある種の社会運動としての笑いというものを披露している。例えば、原発問題、沖縄辺野古問題、在日朝鮮人差別などを題材にし、テレビなどのマスメディアではタブーとされている題材を取り入れることで、視聴者や観客、またはメディア自体に訴えかけ問題提起をすることになる。村本は、原発のある福井県おおい町出身ということもあり、自身が身近に感じてきた原発に対する考えや不満をネタにすることもあるが、そこに住む地域の人びとの声に耳を傾け、そのネタを見る可能性のある人びとに配慮した上で、漫才や漫談によって彼らの声を届けるという役割を行っている。村本がネタを披露すると、笑いだけではなく、賛同の拍手と声援が送られる。日本ではそのような笑いがあまりないためとても異様な光景ではあるが、日本における社会的な笑いとして成功しているように思う。
 しかし、村本のネタはあまりにもテーマ性が強いため、SNS上では賛否が激しい。特定の人々には配慮しているが、それでもそのネタをすることで誰かを傷つけてしまうことになってしまうかもしれない。
 つまりそれは、意味を感じさせる笑いだからである。しかし、すべての言葉には意味があり、それは言葉である以上しかたがないことなのかもしれない。繰り返すが、言葉を受容した人の数だけ解釈の仕方が異なり、その中には傷ついてしまう可能性があるかもしれない。

 お笑い芸人にとって、過酷な時代なことは確かだ。時代が変遷しつつある中、通用していた言葉が、突然手のひらを返したように通用しなくなってしまう。どんなに可笑しみを備えたネタであったとしても、そのネタに対して不快に感じるひとは少なからず存在する。そして、運が悪ければ、そのひとの主観的な情報をもとに、言葉だけ切り取られた状態で伝わってしまう。
 それではどうするか。「すべての人が」という前提で物事を考えるのはもはや不可能である。ギリギリのラインの中で、人々があらゆる解釈をし、喜怒哀楽を抱いたとしても、そこから生まれるものがぼくはあると思う。他者との違いの中で生まれる距離感こそ、クリエイティブをしていく中でとても重要なことだと思うし、そのラインを攻めているからこそ、新しい価値観の中で生まれる笑いがあると思う。
 その点は次回の課題とし、改めて考えていきたいと思う。それは、「笑いの限界」についてである。

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