松本信者論 第四章 信仰としての笑い
これまでの章では、松本人志がカリスマ性を獲得していき、神格化していくまでの契機について考察してきた。松本人志という存在を抽象的な観念とし、次第に信仰の対象としはじめることになるのだが、その重要な手がかりとして、虚構という概念に着目した。松本の笑いが、それ以前の笑いと異なるのは、虚構をもとに笑いを生み出しているからである。松本の笑いが、新しい笑いとして評価されている理由は、その点が深く関係している。伝統的な笑いを破壊していき、分かるものだけが分かればいいと、排他的な態度で笑いを理解できない人々を排除していったのである。虚構と戯れることができない人は、松本の笑いの本質を捉えることはできない。特に、松本人志よりも上の世代は、松本人志の笑いを意味が分からないと否定する。それは繰り返し述べてきたように、虚構に潜む笑いを消費できないからである。
一方、松本人志を崇拝するものは、全く違ったアプローチで笑いを理解しようと試みる。それは、松本人志の笑いが理解できない場合でさえ、崇高な笑い(自身がたどり着けない笑い)であると認識し、可笑しみを見出そうとするのである。その点について、以前「放送室」というラジオ番組で、放送作家の高須光聖が、知り合いの出版社の方の話を引用し、次のような話をしている。「これまでいろいろなお笑い芸人を好きになって、その芸人が意味の分からない発言やボケをしたとき、面白くないと否定していたが、松本さんの場合は、それはわたしが理解できていないだけで、本当はすごいことをいってるのではないか」という内容である。松本の意図していた笑いを理解できなかった場合でさえ、自身の能力が足りないため、可笑しみが得られなかったと解釈してしまうということである。本来、笑いというものは、主観的に、自身の判断によって、面白いか否かを評価するものである。だが、自身の評価よりも、松本の判断が、笑いの評価を決定づけていたのである。それはつまり絶対的な評価の基軸となっていたということなのである。
ここに私は信仰としての笑いが機能していたと考えている。松本を崇拝する人々は、信仰することで、彼の笑いに絶対性を感じるようになり、松本の作り出す笑いを普遍的な真理として受容するようになる。そのため、意味のわからない笑いでさえ、可笑しみを探求し、松本の意図を汲み取ろうとするのである。
信仰とは、神仏などの存在を信じて崇めることである。また、経験や知識を超えた存在を信頼し、自己を委ねる自覚的な態度とされている。現代の日本では、宗教や神に対して親しみを感じない人が多いように思う。そのため、新興宗教や一神教などの原理主義的な宗教に対して寛容さや理解に欠けていると指摘されている。日本人の宗教観は、日本の風土や生活様式に基づいた神道が古くから根付いており、祖先崇拝と自然崇拝を中心とする日本固有の信仰がある。
われわれが松本に対する信仰は、カリスマ的な存在として崇拝される偶像崇拝と呼ばれるものであろう。偶像崇拝とは、神以外の人や物などの偶像を崇拝する信仰行為のことを指す。われわれは、偶像崇拝と呼ばれるものではあるが、松本に対して宗教的な対象としてみるようになる。そのため、松本を神格化し、松本の笑いに崇高性を感じるようになったのである。
信仰が機能している状態では、どのような性質の笑いであろうとも、それ自体から可笑しみを捉えようと試み続けることになる。答えなき笑いであったとしても、また意味なき笑いであったとしても、松本の笑いを消費するために、思考は止むことはない。そこに意味があると信じているからこそ、可笑しみを得られなかった場合でさえ、それ自体には可笑しみが内在していると、根拠なく判断してしまうのである。
その状態を説明するために、千葉雅也の『意味がない無意味』という著書で提案されている「意味がある無意味」という概念を参考にしたいと思う。同書の中では、意味がある無意味と意味がない無意味と名づけられた二つの無意味について提案されている。意味がある無意味とは、過剰に意味が溢れ、無限に多義的なものとされている。どういうことかというと、ある対象を意味づけしようとした場合に、それ自体の認識の仕方は解釈するものによって異なるため、正確に定義づけすることは困難とされている。そのため、様々な解釈が可能となり、無限に多義的なものとしてしか認識できないのである。
著者は、無限に多義的なものを、意味がある無意味と名づけている。意味がある無意味は、意味が溢れ、様々な解釈が繰り返され、意味と成りえない意味を生産し続ける。それは意味が定まっていない状態だといえるだろう。われわれは、自身の能力の範囲でしか実在の対象を認識することができない。そのため、複数の人々が同一の対象を認識しようと試みても、その対象を認識するための能力に差異が生じるため、正確に同一の対象として認識できないのである。哲学者のイマヌエル・カントは、物自体と表現し、われわれは、現象としてしか対象を認識できないと説明する。それこそが思考することができない外部の実在とされているものであり、著者の提唱する意味がある無意味なのである。その外部の実在を合理的に意味づけすることは不可能であり、それ自体を共有するためには、非合理的な実在として信じ込むしかない。それはもはや信仰心でしかないのである。信仰心があるからこそ、理性的に判断できないもでさえ、解釈を試みようとするのである。
哲学者の稲垣良典は、「信仰は人間理性が自力では近づくことのできない神秘に直面したときに自らの無力を自覚し、自らの認識能力の第一根源であり、これまでも自らの認識能力はそこから光を得ていると認めてきた第一の真理である「教える神」に直接に聴従することによって学ぼうとする態度、それに伴う謙遜と従順の態度なのである」と説明する。すなわち信仰とは、われわれの理解すらできないものに直面した際に、それが無意味であろうともそこには意味が存在するという信念にほかならない。
九〇年代の松本の笑いは、意味がある無意味な笑いとして、意味が過剰に解釈されていた時代だといえる。それはつまり、信仰としての笑いが成立していた稀有な時代だったのである。当時の松本の笑いは、複雑で高度な笑いと認識され、不条理やシュールと称されていた。いわゆるナンセンスと呼ばれる笑いであり、それは無意味な笑いといいかえられる。松本の笑いは、意味に置き換えることが不可能であり、われわれの理解を超えた笑いであった。その意味不明な何かに対して、われわれは魅了され、そこに価値や意味を見出そうと試みたのである。
そのような崇高な笑いを目の当たりにして、われわれは理解できない場合でさえ、それ自体から意味を見出そうと試みる。しかし、それだけではない。能動的にその意味を獲得しようと努めるだけではなく、それと同時に、意味自体の押しつけを強いられているとさえ思われるのである。すなわち、松本の笑いは、時にして、暴力的に作用してしまうということである。前述している、ブルデューの象徴的暴力が、このレベルにおいても機能していたということである。
信仰としての笑いには、飛躍があることも事実である。われわれが理解できる笑いには限界がある。われわれの認識能力を超越したそのような笑いは、それ自体に意味があるであろうという根拠のない信念があるからこそ、可笑しみを得られるのである。その飛躍で生まれた距離こそが、信仰によって獲得された可笑しみの量なのである。それはときとして暴力的であるが、強烈な享楽として身体に刻み込まれるのである。それこそが笑いとしての至高体験なのである。
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