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言語のジレンマ
こんにちは。なんか言語のことばっかり書いてる気がします。
なんでだろう。特に意識してるわけではないんですけど、パッと思いつくのが言語とか会話とかに関係するものばっかりなんですよね。
というわけで今日も言葉についてのお話です!!!!(強引)
言葉は共有物
言葉というものは、他者に物事を伝えるために誕生、発展してきました。
赤くて丸くて甘い木の実のことを「りんご」と言うことで、人は「りんご」というものを相手に伝えられるようになり、共有が可能になります。
黄色くて長くて甘いものを「バナナ」と呼ぶことで、人々はバナナの観念を他者と共有することができます。
すなわち、言語は自分の認識や感じたことを他者に伝えるためのメディア、ないし媒介ツールとして働くと言うことです。
言語というものは、その性質上、自己完結できるものではなく、発信者と受信者がいて初めてその存在意義を見出す、共有物であるということがわかるでしょうか?
言語は抽象物
言語が機能するためには、他者との共有がなくてはなりません。
そのため、ある状態や物を言語で表すためには、自分と相手の間にある、表される対象の共通事項のみを捉える必要があります。
これはある心的状態を例にとって説明すると分かりやすいと思われます。
ある人が
「ディズニーランドに行けて楽しかった」
と言っているとしましょう。
ここで僕らがわかるのはその人が、ディズニーランドで夢のような時間を味わい、気分が高揚していると言ったことだけです。もちろん詳細を聞いてみれば、彼女が大好きなチップとデールにあって嬉しかったことや、スペースマウンテンの暗くて周りが見れないところが好き、こういうような追加情報は得られますし、より彼女の体験を細かく追跡することができます。
しかし、いくら言語による情報を積み重ねても、彼女の心理状態を完璧に他の人物が再現することはできません。
なぜなら、言語というものは、個人の認識や内的状態の中から、他人や社会と共通した部分を抽出し、結晶化したものに過ぎないからです。
すなわち、言語化の過程で、他人との共有は可能となりますが、完全に個人的なものに属する観念は切り捨てられていくのです。
言語とは、各人に独自な部分を取り除き、他者との共通項だけを伝達可能なツールとして昇華させたものに他なりません。
そのため、下図のように個人の内的状態は、他者との共通観念たる言語が表現できる範囲よりも、圧倒的に広範囲に渡ります。
もう一つの例。
「3年間付き合ってた彼女と別れた。本当に辛い。」
この場合も、僕たちは彼にいろいろ聞いて、別れた背景やきっかけ、彼が彼女と一緒に過ごした時間が本当に楽しくて、その分喪失感が大きすぎる…などなど、様々なディテールを得て、より仔細に彼の経験を理解することができます。
しかしここでも、彼の心的状態の完全な再現は不可能です。なぜなら、言語化することで彼が伝えたものは全て、完全に個人的な部分を取り除いた他者との共通観念でしかなく、彼が実際に体験したことを、他者が追うことはできないからです。
ジレンマ
ここに言語が孕むジレンマが見て取れます。
すなわち、言語とは自己と他者の間での理解・伝達を存在意義として持つのにもかかわらず、両者の完全な理解は言語を介しては行われない、ということです。
ここで19世紀を代表する哲学者の一人、ベルクソンの『時間と自由』から一つ引用させていただきたいと思います。
……言語というものが内的諸状態のあらゆるニュアンスを表現するようにはつくられてはいない…… 岩波文庫『時間と自由』 P191-192
ベルクソンも言っているように、言語はある個人の感情や情動を他者と共有するために表現することができないのです。
言語による他者との完全な理解は不可能なのであると言って良いでしょう。
限界に挑む言語
言語による100%の相互理解が不可能だとするのならば、言語を使って自分の内的状態を伝えることを諦めてしまって良いのだろうか?
答えは否であると思います。
例え100%の理解が不可能で、どんなに頑張っても99.999999....%の理解までしかできないとしても、決して100%へ向かう意志を捨てては行けないと思います。
なぜなら、100%は無理だとしても小数点以下の99999...は増やして行けてるし、100%に限りなく近づいてはいるからです。
しかも、100%へ向かう意志を失ったら、たちまち99%どころか80、60、40、15...と、どんどん相互理解の深さは失われていくと思うのです。
僕たちは、言語の限界を認めつつも、その限界に挑戦していかなくてはならないのだと思います。
この辺で。ばあい。
昨日の記事はこちら!
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