幼い頃からクルマが好きで、家にある父親の車雑誌やVHSを眺めたり、トミカでいつも遊んでいる、そういう子供であった。 そんな私が三歳ごろに観て以来、35年が経った現在迄にシリーズ通して100回以上は繰り返し観ている大好きな映画がある。 「バックトゥーザ・フューチャー」 この映画に私は育てられたと言っても過言では無いかもしれない。時間、因果、1,21ジゴワット、アメリカ・・・、幼い私に様々な概念を植え付けた。 色々な事を教えてくれたこの映画なのだが、圧倒的なインパクトをも
兎に角、父親が嫌だった。 私も如何にかこうにか自立して家庭を持ち、両親も老いて来た今となっては、私にとって父親は超えるべき存在では最早無い。それなのにも関わらず、この歳になっても未だに父親の事が嫌なのである。 ここで言う嫌だというのは、嫌いであるという事では無いし、恨み憎しみといった類いのものでも無い。 今日まで私が生きて来れた事は、父親のおかげであり、勿論感謝をしているし尊敬もしている。 嫌いなのでは無い。どうにも相容れない感じがして嫌なのだ。 父親は1962年(
反抗期な様子の長男なのではあるが、そんな彼が私や妻に時折、素直に甘える姿を見ていると、親としては心底安心する。 気分のままに反抗したり、甘えてみたり出来る程度には、彼にとって心理的に安全な存在であり、素直に振る舞える環境を提供出来ているのかなと少しだけ思えるのである。 私の中で一体、いつ頃に物心というものが付いたのであろうか。何を持ってして物心が付いたと言えるのか定かでは無いが、私の中に在る最も古い記憶は二歳半頃のものだ。 夜の寒空の下、マンションのエントランスで母親の
小学生の長男が居るのだが、彼を見ているとまるで幼い頃の自分を見ている様な気持ちになる。 幼児期から幼稚園児、そして小学生となったこれ迄の息子の成長を側で見ていて、つくづくこの人は自分に似ていると思えてならないのである。 身体的特徴のみならず、物事への向き合い方や他者との関わり方、心の機微などの特性といったものまでもが、遺伝子的な要因で引き継がれているものであろうかと思い常々感心する。 かと思えば、次男の特性は私や長男とも全く違う様に見受けられるので、環境の要因も大きいの
先日、三十八歳の誕生日を迎え、三十代が残り少ないという事を改めて実感させられている。 四十にして惑わずの境地に、私は果たして四十歳で至れる事が出来るのであろうか?その為にも今一度これ迄の人生を振り返り、自分自身という存在をクリアにする必要があると、前回の投稿に記した。 ここに来て漠然と思う事は、人生というものを四季に当て嵌めると、二十年毎に季節が移り変わるのではないかという事である。 生まれてから二十歳迄が人生の春。若い時間を青春と称するくらいである。人によっては多少の
この歳にもなると、誕生日を迎える事に対して、純粋に喜びを感じられるものでは無い。 三十代もいよいよ終盤戦である事に焦燥感を覚える今日この頃。 若い頃に思い描いていた、漠然とした三十代後半の中年としての理想像からは、何となくかけ離れている気がしてならない現状の自分。 とは言え、現状に耐え難い不満がある訳でも無く、それなりに人生の問題を抱えてはいるものの、今日の私は幸せを感じながら生きている。 日々に幸せを感じながら暮らしているにも関わらず、それでも感じているこの焦燥感の
海岸沿いの工場で労働に勤しんでいる為、日々のふとした瞬間に水平線を眺める機会が多くある。 天気が良い日などは、空と海が織りなす美しい青色のコントラストに思わず目を奪われ、雑事に追われて荒んだ心が洗われる様な、癒しを感じる瞬間だったりする。 東京ドーム何個分だとか、訳の判らない例えで言い表される、かなり広大な敷地面積を誇る工場に在っても、そこから水平線を眺めていると、なんだか自分が広い世界を観ることも、知る事も許されない、鳥籠で飼われている鳥であるかの様な気分に苛まれるので
日々欠かさず、ストロングゼロを飲んでいる。 正確に言えば、アルコール度数9%のストロング系チューハイなのではあるが、これの500ml缶を二本、仕事からの帰宅中に飲むのが私の日課である。 一日の労働を終えた解放感の中で飲む所謂ゼロ缶は、私を本来在るべき状態へと、すぐさまに戻してくれる。 如何に自分が有用で害の無い、あたかも善良な社会人であるかの様なフリをしている姿から、無責任でだらしのない、何一つ価値を生み出す事も無いただの益体無しである姿に戻るのだ。 馬鹿が世間を渡る
家に居て、寝るにはまだ早いがやるべき事も終わっていて、これと言って特に何かをする気も起こらない時、私は自分の顔に生えている髭を抜く。 左手に手鏡、右手に毛抜きを持ち、ただ黙々と髭を抜き続ける。私は中学生の頃に髭が生え始めてからというものの地味にこの時間が好きで、今だに暇があるとつい行ってしまう手癖の一つなのである。 髭を抜くにあたって、髭自体がある程度の長さを有している必要があるのだが、私の場合は皮膚から大体2ミリ程の長さに育った状態がベストだ。 短過ぎても毛抜きで摘み
2月3日。五年ほど前よりこの日に私は鬼と化すのである。 その日、私は仕事から帰ると、物音を立てずに外で鬼の姿に変身する。 着ている服を脱ぎ捨て、黒いヒートテックの上下に、ドンキホーテで購入した鬼のパンツとお面、赤いアフロヘアーのカツラを被り、完全なる赤鬼の姿へと変貌して玄関前に立ち、インターホンを押す。 冬の夜に閑静な住宅街の一角で、インターホンのカメラに向かってクネクネと踊る赤鬼。不審極まりない異様な姿に、通行人や近所の住人からの視線と、吹き抜ける冷気が容赦無く私に突
歳と共に自分の事が全て他人事の様に思えてならなくなってしまった。自分自身の事である筈なのに、私を取り巻く全てを少し離れた所で眺めている様な感覚なのである。 私という存在を、私が観察している。実に不思議な気分だ。 観察されている私は欲に塗れていて、常に煩悩に振り回されている様な、実に愚かしい存在だと見える。 だからと言って観察している方の私が別段、高尚なものかといえばそんな事も無く、ただ単に私の感情や行動をそうなんだーなどと思いながら眺めているだけである。 所謂、メタ認
新年早々から能登半島での地震で、多くの人々が被災している現実に心が傷む。 被災した方、亡くなってしまった方や身内の方々、未だに家族と連絡が取れない方、帰る家を失い極寒の中で厳しい避難生活を送っている方々。現地の人達の状況は本当に辛くて不安であると思われる。 29年前の1995年1月17日。当時八歳であった私は阪神淡路大震災に被災した。 地震の瞬間の恐怖、断続的に続く余震に怯え、何とか外に出るとそこは昨日までの景色とは似ても似つかない、倒壊した家屋や崩れかけたビル、火災で
誰も好き好んで年末年始にわざわざ働きたくは無いのである。にも関わらず私は年末30日の夜から、新年5日の朝までの六日間に渡って夜勤と洒落込んでいる。 昔から世間が休みの日に働く事が堪らなく嫌でしょうがないのである。かつて私は大型トラックの運転手をしていた時期があったのだが、世間が休みの時ほど荷物は増えるわ、道路は渋滞するわで本当に碌な事が無かった。 忙しい上に行楽気分で浮かれた一般車が作り出す事故渋滞に辟易とさせられ、連休の時期には本当に心が荒んでいた。 そんな事もあって
私はお酒が好きである。大好きと言っても過言ではないし、愛していると言って差し支え無い。 そんな愛して止まないお酒ではあるのだが、何がそんなにも私を魅了して来るのであろうか。 今でこそ私も節度というものを知り、お酒と上手に付き合う術を漸くながらも身に付けたと自負しているのであるが、ここに至るまでには数え切れない失敗を繰り返しては後悔と反省を積み重ねてきた訳である。 それでもお酒を飲み続け、時に二度と飲むものかと憎しみながら誓った朝が幾度となく訪れようとも、今なお人生に欠か
思い返せば幼い頃からずっと自由というものを求め続けていた気がする。 別段、何かコレと言ったものを強制されて育った訳でも無く、寧ろほったらかされて育ったという自負はあるのだが、私の心は常に自由という概念に縛られているのである。 自由とは一体何なのであろうか。小学一年の息子と接していると自分の思うがままに振る舞う事、即ち我儘にある事こそが自由であると七歳の人は考えている様に見受けられる。 そんな七歳の人が考える夢のような自由が本当の自由では無い事などは、悲しいかな私も理解し
常に比較の中で生かされている事にウンザリしている。あらゆる事象において比較をされながら、私自身も無意識のうちにあらゆる事象において比較をしながら生きている。 人間というものは相対的にしか物事を観ることが出来ない様に出来ているらしい。自分の事ですら他人と比較しなければ自分の位置が解らずに不安でしようが無いのである。 アレに比べれば自分は劣っているけど、コレに比べたら自分は優っている。こうして自分にとって都合のいい上下をつけて安心している。どうやら人間は誰しもが何かに勝ってい