16 嗚呼、ストロングゼロ
日々欠かさず、ストロングゼロを飲んでいる。
正確に言えば、アルコール度数9%のストロング系チューハイなのではあるが、これの500ml缶を二本、仕事からの帰宅中に飲むのが私の日課である。
一日の労働を終えた解放感の中で飲む所謂ゼロ缶は、私を本来在るべき状態へと、すぐさまに戻してくれる。
如何に自分が有用で害の無い、あたかも善良な社会人であるかの様なフリをしている姿から、無責任でだらしのない、何一つ価値を生み出す事も無いただの益体無しである姿に戻るのだ。
馬鹿が世間を渡る為に頑張ってお利口さんの服を着ている訳で、用が済んだならさっさとそんな着心地の悪い服を脱ぎ捨てて、一刻も早く裸の馬鹿に戻らなければならない。
そう、シラフの状態なんて云うのは、世を忍ぶ仮の姿である。酔っている状態こそが、私の本来在るべき姿なのだ。
小汚いおっさんがコンビニで購入したゼロ缶に、ストローを突き刺して飲み歩く姿は、まさしく近寄ってはいけないタイプの人間のそれである。しかし、そんな自分の姿こそがありのままであって、中年の哀愁すら漂う、ある種のグルーヴを感じてそんな自分が堪らなく愛しくなる。要するには御機嫌なのである。
どうでもよくない世間からゼロ缶一本で、何もかもがどうでもいい境地へと速攻で意識を連れて行ってくれる。煩わしい世俗から解放された意識は、凡ゆる偏見を離れ、目に映るありのままの世界をぼんやりとただ眺めているだけであり、苦も楽も無い、これこそが涅槃寂静であるかの如く穏やかさに包まれながら歩く帰り道なのである。
しかし、そんな御機嫌な時間は最初だけで長くは続かない。一本目を飲み終える頃には、この世の全てに祝福されたかの如く、安らぎに満ちた心地良さは消え失せ、脳を布団圧縮袋に入れられて真空状態に晒されている様な圧迫感に意識は苛まれ、身体に掛かる重力が通常の1、25倍に増した様な怠さが全身を包み込む。
あまりの不快感にその場で目を閉じて横になり、意識をシャットダウンしたくなる気持ちを抑えて、まるでゾンビの様になりながら彷徨い歩く。この不快感から何とか逃れようと私はコンビニに駆け込み、気が付けば二本目のゼロ缶を手に、震える指先でプルタブを起こしてストローを突っ込んでいる始末。
一瞬の安楽の後に襲い来る不快感から逃れるべく、更なる安楽を求めて同じ事を繰り返してしまうその状態は、まさしくドラッグのそれである。
困った事に、ゼロ缶はそこいらのコンビニで簡単に手に入る。飲みやすい自分好みのフレーバーが確実に置いてあり、酔いがイイ感じの領域までに達するコスパが圧倒的に良い。
そして、飲み続ける程に耐性がついてしまい、飲酒量が増していくというスパイラルに陥る。
昨今、大手アルコール製品のメーカーが、アルコール度数8%以上の商品に関して、相次いで新規開発を行わないといった方針を示している。
ユーザーの健康被害を懸念してとの理由ではあるが、愛飲者の私からしてみたら、大きなお世話だよと思う反面、我が身を省みて本当にその通りだから自主規制した方がいいとも同時に思うのである。
本当の意味でユーザーの事を考えるのであれば、特にこういったストロング系のチューハイを日常的に摂取する様な人々が自身の健康と引き換えにして、そこに何を求めているのかという現実の部分を考えて頂きたいものである。
国家権力と既得権益、法規制と産業構造、国民の健康と幸福と社会のあり方。
たかが嗜好品、されど嗜好品。何かに縋らなければやってられない人々にとっては、この世知辛い現実からの逃避であり、救いでもある様に感じる。
それが必ずしもストロング系チューハイである必要は無いし、本当ならこんなロクでもない物に縋りたくは無いものであるのだが、現在のこの国における法規制ではコレが是とされている様である。
一刻も早く、幸福のひと時を彩る為のアイテムがゼロ缶などでは無く、より自然なものを堂々と傍らに置ける時代になり、多くの人々が多幸感に包まれながら暮らせる世の中になる事を願って止まない。
そんな事を思いながらストロングゼロを飲む、今日この頃なのである。