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20 性分

小学生の長男が居るのだが、彼を見ているとまるで幼い頃の自分を見ている様な気持ちになる。

幼児期から幼稚園児、そして小学生となったこれ迄の息子の成長を側で見ていて、つくづくこの人は自分に似ていると思えてならないのである。

身体的特徴のみならず、物事への向き合い方や他者との関わり方、心の機微などの特性といったものまでもが、遺伝子的な要因で引き継がれているものであろうかと思い常々感心する。

かと思えば、次男の特性は私や長男とも全く違う様に見受けられるので、環境の要因も大きいのだとも感じる。

母親側の遺伝的な要素が半分あるにせよ、こうも自分に似てると感じさせられると、願わくば息子には私と全く違った人生を歩んで貰いたいと考える訳で、可能な限りで私が育った状況とは違う環境を提供したいと思いながら今に至っている。

とは言え、自分によく似た長男の様子を日々観察していると、自分の人生を振り返って追体験しているかの気分になり、意識の奥底に追いやられていた幼い頃の記憶が、鮮明に蘇って来たりする。

子育てというのは子供を育てている様で、自分自身を省みて内省し、成長する為の行為である事をとても実感しているここ最近である。



さて、幼い頃の私はと言うと、とても一人遊びに没頭する子供だった。公園で遊ぶにしろ、玩具で遊ぶにしても、自分の脳内で世界観を構築して、其処に浸りながら遊ぶのが好きなのであった。

かと言って、他の子と一緒に居る事が嫌いだったかと言うとそうでは無い。同じ年頃の子供と一緒になって遊びたいという欲求はあるのだ。

だがしかし、私自身は自分の世界観で遊ぶのが楽しい訳であって、そこに他の子を引き込んで一緒に遊ぶ事を望んでいるのであり、他の誰かの世界観や、集団の中での空気感に参加して遊ぶ事が本意な訳では無い。

その為に、私はあまり友達の輪に入って行く事が得意では無く、守備よくそこに入ったとしても、今一つ私の中では煮え切らず、あまり楽しみきれずに居た。

自分の世界観を他人に否定されたり、退屈だと思われる事がとても恐く、自分が中心で居られないのならば一人の方が気楽で楽しい。そんなエゴの塊りの様な子供だった。


歳を重ねて三十代後半となった今でも、この性分は私の中で何一つ変わっていない。三つ子の魂百までと言ったところであろうか。

ただ単に他と折り合いを付けたりだとか、世渡りの術を多少なりとも身につけただけであって、今も変わらずに私は誰かに自分を理解して貰いたいと願って止まないで居る。

祖母や両親に一人遊びの多い事を心配された事を気にして、そんな気持ちを持て余しながら過ごしていた幼い頃の私に、君は間違ってはいないと伝えたい。


そう、自己主張が苦手なだけの、遠慮がちな子供。ただそれだけの事なのだ。




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