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⑨ 不自由で無責任

思い返せば幼い頃からずっと自由というものを求め続けていた気がする。

別段、何かコレと言ったものを強制されて育った訳でも無く、寧ろほったらかされて育ったという自負はあるのだが、私の心は常に自由という概念に縛られているのである。

自由とは一体何なのであろうか。小学一年の息子と接していると自分の思うがままに振る舞う事、即ち我儘にある事こそが自由であると七歳の人は考えている様に見受けられる。

そんな七歳の人が考える夢のような自由が本当の自由では無い事などは、悲しいかな私も理解しているようである。

自由には責任が伴うとはよく言われる事であるが、実際に今の私もその通りだと思うし、それが七歳の人が思い描いているものと同時に、心の何処かで誰もが求めている自由と呼ばれるものとは違うものである事も解っているつもりだ。

そもそも何故自由に責任が伴うのかという話である。誰しも出来る事ならば無用な責任などは負いたく無い訳だ。しかし、自由の本質というのは主体的で在る事と考えられる。自分の意思で判断して行動を決める事が人間が有する自由の行使というものなのである。

自分で考えて決めた事であるが故に、その結果がどういうものであれ受け入れる他ない。自由というのは他者の力が及んでいては成立しないものである為、結果に対して不満や文句といった責任転嫁が出来ない筈である。責任転嫁が出来る時点でそれは最初から自由を行使していない訳だ。

そういった意味で言えば私はこれまでの人生において、その都度誰かに強制される事では無く、自分の考えによって決定し、行動を進めて来た結果が今なのであって、既に私は自由なのである。

既に自由と呼ばれる状態であり、今この瞬間においても私は自由を行使している筈にも拘らず、今一つ自由である実感が薄く釈然としないの何故なのであろうか。

幼い頃の私や、うちの七歳の人が考え、求めている自由なんてものはあり得ない事が解っているから釈然としないのである。

もし、あらゆる事象からの束縛を解き放たれた完璧な自由を手に入れたならどうなるのか。人は何をすれば良いのかわからなくなるし、そもそも何もする必要が無いのである。呼吸をし、栄養補給をして生命を維持する必要も無いとあれば、人は生きるという自由意志すら抱く事が無い。意思が無いという事は既にそれは自分という存在が無いという事である。

つまりは完璧な自由というものは、無であると考えられる。何も無いニュートラルな状態、ゼロである事こそが本当の自由なのである。となれば、自分という存在そのものこそが自由を阻害する原因に他ならない。

人はうっかりすると何かを求めてしまいがちなものではあるが、求めているうちは本当の自由などは絶対に手に入らないのだろう。そもそも自由は手に入れるような類いの代物では無い様である。

自由はただそこに在るだけであって、もしかしたら誰でも簡単にその領域に踏み入れる事は出来るのかも知れないが、果たして人というものは本当に自由になりたいものなのであろうかと言う疑問が湧いてくる。

欲求という言葉が示す様に、人は次から次へと湧いて来る欲望を求めて振り回され続ける存在であり、それ事態が生きている証とも言えるのではないか。欲求というものに縛られている限り、人は永遠に不自由なのである。

欲を捨て去り、自分というものを超越した先にある、解脱とも呼べる自由の領域に踏み入れるのには、私はまだまだ未熟で至らない上にその覚悟すらも定まっていない。

欲望に振り回されながら不自由なただの人間で在る事を実は望んでいるし、真理に対して無責任で居たいだけなのかも知れない。

不自由こそが幼い頃の私が求めていた、我儘で身勝手な自由の形だったのであろうか。

だとすると私は最初から不自由という夢のような自由を手にしていた訳で、既に持っているものを気付かずに求め続けているその様に、つくづく自分の傲慢さが窺い知れて愚かさを自覚させられる。

そんな事を思う今日この頃。





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