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13 私を眺める

歳と共に自分の事が全て他人事の様に思えてならなくなってしまった。自分自身の事である筈なのに、私を取り巻く全てを少し離れた所で眺めている様な感覚なのである。

私という存在を、私が観察している。実に不思議な気分だ。

観察されている私は欲に塗れていて、常に煩悩に振り回されている様な、実に愚かしい存在だと見える。

だからと言って観察している方の私が別段、高尚なものかといえばそんな事も無く、ただ単に私の感情や行動をそうなんだーなどと思いながら眺めているだけである。

所謂、メタ認知というやつなのであろうか。そんな風に日頃から逐一、私の思考や行動、言動などを眺めていると、如何に私を取り巻く全てが下らないものであるか、そしてその下らないものに固執して苦しんでいる様子を非常に滑稽だと思いながら私は私を眺めているのである。

世間に踊らされている滑稽な私だって、ものは考える。その思考が勿論自分のものであるという認識はあるのだが、そんな私の思考を眺めている思考もまた、自分であるという認識がある。

それらの思考は独立している様でいて、同時並行的に存在している感覚もあり、時折どちらが実際の私であるのか解らなくなって混乱した時期もあった。


しかしである。よくよく考えてみれば、私なんてものは在る様で無いものである事に気が付く。

私が私だと思っている存在なんて私の妄想でしかない。意識などという証明しようの無いものが創り出した自分という妄想の産物に、自分自身の意識が騙され、信じ込んでいるに過ぎないのだ。

即ち、私なんて存在は何処にも居ないのである。鏡やガラスに映る自分の姿は、単に私の意識にある程度従い動かす事が出来るに過ぎない、意識の乗り物にしか他ならない。

それにもかかわらず、どうやらこの世には私という存在が居る事になっている。では、何が私を私たらしめているのであるか。私という人格が存在する事を認める他人が居るからこそ、そこではじめて私という存在が確立される訳である。

私という存在は私の中では無く、私を見る他人の中に在る訳であり、私を形作るものは自分自身などでは無く世間なのだ。


そんな他人が、世間が見て既定された私の存在を、私自身の思いでどうにか出来るものでは無いのである。他人が私を見て抱く思いについて、気に入らないから改変してやりたいなどと思う事は傲慢でしか無い。

どれ程、他人に良く思われたくて自分を取り繕って見た所で、そんな私を見た他人の感想など所詮は他人のものである。なる様にしかならない。


私は他人の中にしか存在していないのであるから、所詮は自分の事など他人事なのである。

煩悩塗れの自意識に振り回されている自分を他人事の様に眺めていると、そんな愚かしい自分を私は堪らなく愛しいと思う。かつてはあれ程に自分が嫌いで、コンプレックスの塊であった自分自身を許せるようになったのだ。なんせ他人事なのだから。


私自身がそうで在る様に、所詮他人もまた煩悩塗れで自意識の塊なので在るから、他人に対しても出来る限り寛大な心で向き合い、尊重したいものだと願う。


そんな事を想う今日この頃。










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