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⑧ 上手く負ける。

常に比較の中で生かされている事にウンザリしている。あらゆる事象において比較をされながら、私自身も無意識のうちにあらゆる事象において比較をしながら生きている。

人間というものは相対的にしか物事を観ることが出来ない様に出来ているらしい。自分の事ですら他人と比較しなければ自分の位置が解らずに不安でしようが無いのである。

アレに比べれば自分は劣っているけど、コレに比べたら自分は優っている。こうして自分にとって都合のいい上下をつけて安心している。どうやら人間は誰しもが何かに勝っていないと気が済まない様だ。

人は何故そんなにも勝ちたいのであろうか。確かに勝負で勝つ事は気分が良いものである。高揚感も有れば、自分の価値が高まったかの様にも感じて優越感で満たされた気になる。

しかしながらそんな勝利がもたらしてくれる満足感は一瞬のものだ。勝つ事に拘れば拘るほど上には上が居て終わりが無い。

そもそも勝負というのは多くの場合、物事においてある一つの側面についてだけを比較して上下を決めているに過ぎないのでは無いのか。そう思いはじめてからは次第に勝ち負けや上に立つ事が無意味であると感じてならないのである。

無論、勝敗が生命や身体に危険を及ぼす様な事象においてはその限りでは無いのだが、そもそもそう言った事態を可能な限り避ける様に立ち振る舞う事こそがコミュニケーションであり、人類の智慧というものでは無いのだろうか。

そう、戦わなければ負けないのである。敵を作らなければ誰にも負ける事が無い。即ち無敵なのだ。

そんな無敵の気分を纏いながら世間を漂っていると、如何に下らない事に拘って自分があたかも優れた存在であると示したがる輩のなんと多い事かと感じ、人間の愚かしさに辟易とさせられる。

地位、名誉、知識、技術、物質、交友関係、、、人間はあらゆる要素において自分が有する事物をひけらかし、他人に対して自身の優位性を示して上に立たずには居られないのである。

そんな輩と日常において対峙すると隙あらば自分語りが始まり、マウンティングを行ってきては一人で悦に至っている。この手の人は慎みというものを知らないので獣と何ら変わりがない故に仕方ないのだ。舐められたら終わりと思っている残念な人なのだ。

虚勢を張る事でしか自らの存在を示す事が出来ない中身の無い人を相手にするには負けてあげるに限る。目に見える浅い所で比較して上下を判断するしか能がない薄っぺらい輩に対しては進んで下手に出て行けば万事丸く治る。

残念な人は相手が下手の態度で居ればそれだけで自分が優っていると勘違いして調子に乗り出す。実際は勝っているのでは無く、相手に勝たせて貰っている事にすら気付く事も無いのでおめでたいものである。

本質が見えない社会の規定する相対的な価値基準に囚われている残念な人には、望むものを与えておけばいい。豚もおだてりゃ木に登る。

比べる事でしか自分を見れない愚かで残念な人にはなりたく無いものだと願いつつ、上手く負けてやり過ごしながら全ての残念な人達に幸ある事を願う。

そんな事を常々思う私は比較で物事を見てしまう残念な人です。












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