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18 三十八歳

この歳にもなると、誕生日を迎える事に対して、純粋に喜びを感じられるものでは無い。


三十代もいよいよ終盤戦である事に焦燥感を覚える今日この頃。

若い頃に思い描いていた、漠然とした三十代後半の中年としての理想像からは、何となくかけ離れている気がしてならない現状の自分。

とは言え、現状に耐え難い不満がある訳でも無く、それなりに人生の問題を抱えてはいるものの、今日の私は幸せを感じながら生きている。

日々に幸せを感じながら暮らしているにも関わらず、それでも感じているこの焦燥感の正体は一体何なのだろうか?


単調な日常は流れを加速させながら、時が過ぎ去って行く。

二十歳くらい迄は誕生日を迎える毎に、マニュアル自動車のギアチェンジを行うかの如く、変化に手応えを感じながら年齢と時間を重ねていた気がする。

しかし、二十歳を過ぎた辺りから、誕生日というものを迎える事に対して、まるでCVTミッションの自動車が如く、シームレスに時間だけが何の手応えも無いままに信じられない勢いで加速して行くのである。

そんな、手応えの無いままに加速して止まない時間と、その事実を客観的に示す年齢が、自分の感覚だけを置き去りにして、どんどん先へと刻まれている事実こそが、この焦燥感の正体なのではないか気付く。

自分の感覚的な現在位置と、現実時間で自分が位置する座標のズレが日々大きくなっている。この事が現在の自分に対して、違和感や居心地の悪さを覚えてならず、得体の知れない焦燥感として常に心に付き纏っているのでは無いだろうかと思う。


この置き去りにしてきた自分の感覚的な座標を、今現在の自分の所に合わせる必要がある。その置き去りにした自分というのは、私がこれまでに生きて来た時間の中のどこかで立ち止まったままの筈だ。

これ迄の人生の一体どこで私が立ち止まっているのか、今一度立ち返って観る必要がある。

自らの人生を振り返り見つめて、立ち止まった私を理解して許す事で、心の何処かで囚われ続けている惑いを解消しなくてはならない。


四十にして惑わず。この言葉が示す境地が一体どういったものであるのか、今の私には想像に及ばないのではあるが、其処へ至る為にも過去と向き合い直し、囚われから解放され、今ここに自分という存在を集中させる事こそが、私の向き合うべき事なのだと思うのである。


そんなこんなで三十八歳を迎えてもなお、自分とは何かで惑い続けている今日この頃。




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