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⑩ 空のグラスを満たしては空に

私はお酒が好きである。大好きと言っても過言ではないし、愛していると言って差し支え無い。

そんな愛して止まないお酒ではあるのだが、何がそんなにも私を魅了して来るのであろうか。

今でこそ私も節度というものを知り、お酒と上手に付き合う術を漸くながらも身に付けたと自負しているのであるが、ここに至るまでには数え切れない失敗を繰り返しては後悔と反省を積み重ねてきた訳である。

それでもお酒を飲み続け、時に二度と飲むものかと憎しみながら誓った朝が幾度となく訪れようとも、今なお人生に欠かせない愛する親友として、お酒は私に寄り添ってくれている。

酔いが人の本性を曝け出させるとよく言うが本当にその通りだと思う。お酒は自分を素直な状態にする。社会で他人と折り合いをつける為に掛けている感情のフィルターを取り除いてくれる。

お酒のある時だけが喜怒哀楽を素直に感じて表現する事が出来て、ありのままの自分で居られるのである。

そんな自分の全てを引き出しては受け止めてくれるお酒を私は愛さずには居られない。


さて、私はビールが好きな訳なのだが、ここ数年はクラフトビールがブームになっているという事で、様々な種類のビールを手軽に入手する事が出来て嬉しい限りである。

休日にスーパーやデパート、雑貨屋さんに訪れては珍しいブルワリーのビールや、世界各国からの輸入ビールを見つけて購入する事が私のささやかな趣味なのだ。


首尾よく目新しいビールを手に入れた日は御機嫌である。大切にビール抱えてニコニコしながら家に帰る。まだ日の高い昼過ぎから夕方にかけての時間からビールを飲み始める幸福感は何事にも変えがたいものである。

ラフな部屋着に着替えて、空っぽのグラスにビールを丁寧に注いでいく。何も無いグラスの空間に液体が満たされていくのを眺める。

色や香り、泡の立ち方を楽しみながら、瓶や缶に書かれた原産地を眺めてその地に想いを馳せる。一口含んで舌から鼻に抜ける香りや味わい、甘さや酸味、コク深さ、喉越しを通じて未だ見ぬ彼の地へ意識はトリップして行く。私はビールを通じて、自宅に居ながらにして世界中を旅する事が出来るのである。

二口三口とゆっくりと飲み進めていく。外で小学生の子供達が遊び回る声を聴きながら、慌ただしい世間からまるで隔絶されたかの様な昼下がりのひと時をゆったりとしながら過ごす。

気が付けばグラス一杯に注いだ筈のビールが半分以下になっている事に気付き、次に注ぐビールへと意識が向いて気もそぞろである。

注いでから暫く時間が経過して変化した味わいを堪能し、残りがグラスの四分の一となった頃に一気に飲み干す。

空だったグラスを満たしたビールは、私に束の間の幸福感で満たし、再びグラスの中の空間はそこにビールがあった余韻を残して空となる。

空になったグラスを眺めながら、幸福というものは刹那のものであって、永続的では無く終わりがあるからこそ感じられるものなのだと物思いに耽る。

空のグラスが在るからこそ、そこに再びビールを満たしては空にするという幸福な現象を起こす事が出来る、そこに私は色即是空空即是色の境地を垣間見るのである。


日本という国に居て、そこで世界中のビールを手にする事が出来、自宅で美味しく頂ける事が奇跡であり、真に有難い事だとお酒が教えてくれる。

そんなお酒に対して圧倒的な感謝と敬意を表して、今日もまた私は空のグラスにビールを注いでは空にするのである。

そんな事を思う今日この頃。






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