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15 ただ一心に髭を抜く

家に居て、寝るにはまだ早いがやるべき事も終わっていて、これと言って特に何かをする気も起こらない時、私は自分の顔に生えている髭を抜く。

左手に手鏡、右手に毛抜きを持ち、ただ黙々と髭を抜き続ける。私は中学生の頃に髭が生え始めてからというものの地味にこの時間が好きで、今だに暇があるとつい行ってしまう手癖の一つなのである。


髭を抜くにあたって、髭自体がある程度の長さを有している必要があるのだが、私の場合は皮膚から大体2ミリ程の長さに育った状態がベストだ。

短過ぎても毛抜きで摘みづらいし、長過ぎても毛穴に対して真っ直ぐ引き抜きづらく、途中で切れてしまうリスクがある。やはり2ミリ程度の長さが毛抜きで摘みやすく、毛にコシがあって引き抜きやすく、手応えというか感触が良い。皮膚から約2ミリこそが、髭の収穫に最も適した成長状態であると、経験から私は考える。


今日は顔のこの部位を中心に攻めて行こうと決め、私はひたすらに毛抜きを動かし続ける。毛抜きが最も毛を捕えて離さない箇所に目的の髭を沿えて、ガッチリと髭を咥えたならば、ゆっくりと、そして大胆に髭を引き抜いていく。

抜かれまいと必死に抵抗するかの如く、皮膚に喰らいつく髭をゆっくりと、決して逃さない様に引っ張っていく。

毛穴から毛根が引き摺り出される抵抗感を感じながら、表層的には2ミリ程度であった筈の髭の全貌が明らかになっていく。引き抜かれた髭は大体決まって6〜7ミリ程度の長さを有している。

引き抜く際の抵抗感と、表面に見えていた何倍もの長さのある黒くて生々しく艶やかな私の身体の一部であった物質を目の当たりにする時、何故だか私は自分の身体が生きているという事実を実感する。

私の身体の表層だけの存在だと思っている皮膚の内側に、この黒々とした物質がおよそ5ミリもの深さから、毛穴を通って皮膚の表面に及んでいて、それを力づくで引き摺り出したのだと思うと、そこに私は堪らない快感を覚えるのだ。

引き抜いた髭を内包していた毛穴は、そこに在るべき髭が無くなった瞬間には空洞と化している。しかし、引き抜いた髭には物体としての確かな質量を感じるにも拘らず、それが収まっていた筈の空間である毛穴というのは、直ぐにある程度閉じてしまい肉眼でその空間を観る事は叶わない。

この、抜いた瞬間にある程度閉じるという毛穴の動きに対しても、私の意識が及ばない所で私の細胞が有機的な働きをしていると思いゾクゾクした気持ちを感じるのである。

そんな感覚に苛まれながら、ただひたすらに毛抜きを髭に当てがっては抜いて、拡げたティッシュペーパーに一本ずつ並べていく事を繰り返し続ける。


髭を抜く事による肌へのリスクは勿論、私も把握をしているつもりではあるし、この行動が抜毛症と呼ばれる精神的な疾患から来る事も理解をしている。

それでも尚、私は髭を抜く事をやめないのである。

髭を抜いている最中、私は常日頃から意識の中に騒がしく湧いてくる思考の波から解き放たれて、限りなく「無」に近い状態になる。

ただ無心で髭を一本ずつ抜いている瞬間が、私が生きて暮らしを営んでいる中において、最も集中している瞬間なのだ。

ただ静かで、毛抜きの先だけに向けた研ぎ澄まされた精神は、常日頃の散漫な意識をかき消し、その瞬間に私は世界と一体となっている。

世界と自分の境界線が無くなり、私が世界であり、世界が私である。そこに私の自我は存在せず、時間の感覚も曖昧で、それは永遠の様でもあり、一瞬の様にも感じる。


ふと我に帰ると、私の顔にみっともなく生え散らかしていた髭が根絶されている。見苦しい青髭状態も無いその肌を確認して、私はこの上ない達成感に包まれる。

拡げたティッシュペーパーに整然と並べられた無数の、かつて私の一部であった黒い物質を眺めていると、決して他人には理解される事は無いであろうが、私はそれらに堪らない愛しさを感じてならないのである。

髭が並んだティッシュペーパーを捨て、冷水で顔を洗って開いた毛穴を締め、妻の美白化粧水を拝借して痛んだ肌をケアしておく。

鏡に映る髭の気配を感じさせない肌に非常に満足しながらも、この状態が長くは続かない事を残念に感じ、やはり全ては無常である事を思い知らされる。

束の間のツルツルお肌を堪能した後には、また黒々とした髭が無数に私の毛根から生えてきて、気が付けばまた私の顔は見苦しい髭に覆われる訳ではあるのだが、それもまた私の身体が生きている事の証明であり、我が身の生命力を文字通りに肌で感じる次第なのである。


抜けども抜けども生えてくる、健気と云うべきか、しぶといと云うべきか、憎い様で愛しい髭という存在に、私は私の生命活動の片鱗を観る。


そうして私はまた、生きている限りは髭を抜いていくのであろうと思う今日この頃なのであった。





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