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12 地震

新年早々から能登半島での地震で、多くの人々が被災している現実に心が傷む。

被災した方、亡くなってしまった方や身内の方々、未だに家族と連絡が取れない方、帰る家を失い極寒の中で厳しい避難生活を送っている方々。現地の人達の状況は本当に辛くて不安であると思われる。



29年前の1995年1月17日。当時八歳であった私は阪神淡路大震災に被災した。

地震の瞬間の恐怖、断続的に続く余震に怯え、何とか外に出るとそこは昨日までの景色とは似ても似つかない、倒壊した家屋や崩れかけたビル、火災で燃え上がる黒煙が舞い上がり、ひび割れた地面は液状化現象で盛り上がっている箇所も有れば窪んだ場所も有る。極め付けには橋脚が崩壊して横倒しになった都市高速の姿。

そんなこの世の終わりとも思える光景を目の当たりにしながら、そこいら中から助けを求める人々の悲鳴が聴こえる。さながら其れは阿鼻叫喚の地獄絵図であった。


少し離れた場所にあるアパートにて一人暮らしをしていた祖母のもとに家族で何とか駆けつけた。無事だった親戚一同も集まって居たが、そこに在る筈の木造二階建てアパートの姿は私の知る状態ではなく、倒壊して一階部分が完全に潰れている状態であった。

一階部分が完全に潰れたアパート。祖母はその一階に住んでいた。父親や叔父達がどうにか倒壊したアパートの祖母が寝ている筈の場所まで潜り込み助け出そうと試みたが、崩れた天井の梁が眠る祖母の首を跨いでいて引っ張り出す事が出来ない。

父親が車に積んであるジャッキを用いて崩れた梁を押し上げて、何とか祖母の身体を外に出す事が出来たが、祖母に意識は無かった。

父親のパジェロに祖母の身体を乗せ、瓦礫や液状化で走行するのが困難な道路をどうにかして走りながら病院を目指す。私は車内で横たわる祖母の隣で、地獄と化した街並みを横目に黙って揺られていた。祖母の身体は、あの倒壊したアパートから引き摺り出されたとは思えない程に外傷も無く綺麗で、その姿は安らかに眠っている様にしか見えなかった。

病院に到着して車で待っていると、父親が必死で懇願したのであろう医師を連れて戻ってきた。横たわる祖母を一目見て、既に息絶えているとだけ告げて医師は引き返して行った。

人は死ぬのだと言う事を八歳の私はこの時、初めて理解した。

正確に言えば薄々勘づいていたとは思う。道中の車内で冷たくなった祖母の隣に居た時ですら、多分ばあちゃんは死んでいるんだろうなと心の中では思っていたが、ワンチャン蘇生出来るかもという希望だけを胸に抱いて車をしゃかりき走らせる両親の必死な姿を見て、そう言うものなのかと自分自身に信じ込ませていたのだと思う。

医師の簡潔な言葉によって八歳の私は、あの優しくて厳しかった祖母はもうこの世には居らず、ここに在るのはかつて祖母で在ったただの死体である事を悟った。


正直、震災当日の鮮明な記憶というのは私の中ではここまでであり、そこから先は断片的に辛かった事や印象に残った事が思い出されるだけである。

激しい悲しみという感情は心を守る為に自動的に記憶の中から簡単には表に出て来れない領域に仕舞い込まれるのかもしれない。


亡くなった方の多くの遺体が並べられた何処かの体育館だか公民館の光景。停電から電気が戻った瞬間の心強さ。給水車から運んだ水の重たさと、水がある有難さ。炊き出しや物資の支給、商店が開いて物が少しずつ手に入る様になった事の安心感。隣市に営業しているという情報を得て親戚と入りに行った銭湯で感じた入浴出来る幸せ。水道やガスが復旧して、当たり前だと思っていたライフラインが本当に大切なものである事実。友達を訪ねて行った避難所である体育館の寒さ。


学校が再開されて徐々に日常を取り戻している様に見えても、それまでは居た筈のクラスメートの姿がそこには無かったり、校庭や近所の公園に次々と建てられていく仮設住宅。復興といえば一言で済んでしまうが、そこに居て、その様を眺めながら生活していると、何もかも変わっていき、決して元通りになる事が無いという現実に苛まれて空虚な気持ちに支配されるやるせなさ。


当日の地獄の様な状況や、その後の当たり前だった事が当たり前では無くなった被災生活を幼い私が潜り抜けて今日まで生きて来れたのは周囲の大人であったり、災害復旧や支援に携わって下さった多くの方々のおかげであると改めて思う。

八歳の私が経験した大地震は、29年経った今でも消える事のない傷を私の心に残している様である。

四十歳近いおっさんになった今でも私は、ほんの小さな地震の揺れであっても、堪らない恐怖を感じて泣きそうになるのを必死で抑えているのである。


地震は恐ろしい。それまでの何もかもを一瞬で変化させてしまう。まさしく無常である。

自然が起こす圧倒的な無常を前にして、人間の強さも弱さもを詳らかにされる。

今、被災地で困難な状況に置かれ、最愛の人を亡くして悲しみの底に居る人達に対して、おいそれと掛ける言葉を私は持ち合わせていない。

それでもただ、被災者の人々が心から安心して笑顔で暮らせる日々が一刻でも早く訪れる事を願って止まない。


被災者の人々に幸多き事を願う今日この頃。






















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